中国の瀟湘(しようしよう)八景をルーツとして、近江八景や金沢八景など、日本各地に数多くの八景が存在します。
坊津八景もこのような文化的背景のもとで生まれた八景のひとつです。
 
江戸時代後期の地誌『三國名勝圖會』(さんごくめいしょうずえ)によると、16世紀に坊津へ配流された京都の公家、近衛信輔(=信伊)(1565~1614)が、坊津八景を選定し和歌を詠んだと伝えられています。
 
鹿児島県下唯一のリアス式海岸で、4ヶ所の浦を持つ坊津は、古来から海外貿易・仏教文化を受け、独特の景観、文化が残っています。
 
数々の文人達が訪れ、遠くは室町時代末期に左大臣『近衛信輔公』が、後陽成天皇の勅勘により、坊津へ配流され2年近い間に数々の史跡を残しています。 その中で和歌を詠まれた『坊津八景』は筆されるものです。
 
 〔字句解説〕
   蓬(とま):      茅(かや)などを編んでふき、雨露を防ぐもの
   遠方(とおかた):   中国を指しているのか
   掛け詞(かけことば): 音もなきさの
 
 〔鹿児島県内の有名な八景〕
   鹿児島八景、福永門八景、唐湊渚新館十二景(別荘から)、
   仙巌園八景、吉利(よしとし)十二景、松見崎十二景(鹿大水産学部付近)
   大慈八景(志布志)、飯隅山(いいくまやま)十三景 -etc
 
坊津八景めぐりは、「NPO法人 やまびこ会」の主催する『まち歩きコース』 ”遊覧船(漁船による)坊津八景” にてご覧いただけます。
是非、足をお運びくださいませ。 
 
中島晴嵐(なかしませいらん)
 

中島は、坊浦に突き出た小さな半島です。 深浦の西に接しており、海から眺めると、一つの島のように見えます。 かっては松林がうっそうと茂り、付近の人々の遊楽の場所となっていたようです。
現在でも、岩場の自然海岸が部分的に残存しており、『三國名勝圖會』に描かれた頃の面影が見られます。 
深浦夜雨(ふかうらよるのあめ)
 

深浦は、中島の東に接する小さな入り江です。 この付近は水深が浅く、昔から小型船の繋留地として利用されて来ました。 深浦の西側(中島の東岸)の一部に残存する岩場の上には、アコウなどの樹木が茂り、往時の雰囲気を今に伝えています。 
松山晩鐘(まつやまのばんしょう)
 

坊津の南に位置する愛宕(飯盛)山の山腹には、かって松山寺と呼ばれる曹洞宗の禅寺があったと伝えられています。 江戸時代後期の『三國名勝圖會』が書かれた頃には、既に廃寺となっていたようで、同書「坊津港」挿絵の愛宕(飯盛)山の北西側山腹には、「松山寺跡」という標記が見られます。 
亀浦帰帆(かめがうらのきはん)
 

亀ヶ浦は、坊浦に突き出た寺ヶ崎と硯石鼻に挟まれたV字型の小湾です。 『三國名勝圖會』には、「漁網に利する處なりとぞ」とあり、漁場として知られていたことが分かります。 和歌からは、天候が変化しやすい海で漁をする舟人の緊張感が伝わって来るようです。
鶴崎暮雪(つるがさきのぼせつ)
 

鶴ヶ崎は、坊浦に細く突き出た小さな岬です。 坊津は、鶴が羽を広げた形に似ていることから、別名「鶴の湊」と呼ばれ、鶴ヶ崎は鶴の首頭の部分に相当します。

鶴ヶ崎の先端には長礁という岩礁があり、鶴のくちばしに見立てられています。 「鶴崎暮雪」の景色が、白い鶴の姿を連想させます。

網代夕照(あじろのせきしょう)
 

網代浦は、坊浦の西南に位置する湾です。 湾の西には、天に向かって剣のようにそびえ立つ双剣石や、鵜ノ島が連なり、優れた景観を構成しています。

『三國名勝圖會』などの記述から、大変良い漁場であったことが分かります。

御崎秋月(みさきのあきのつき)
 

「御崎」とは、坊浦の西南に位置する坊岬の一帯を指します。 坊岬は九州西南端の岬として知られ、古くは15世紀の『海東諸國紀』の地図にも「房御崎」の名で登場します。
坊岬の突端には東北方向に貫通した円形の洞穴(秋月洞)があります。 また『三國名勝圖會』の時代、坊岬の付近は海獣の睡眠場所ともなっていたようです。
田代落雁(たしろのらくがん)
 

田代は、坊岬の東に位置する小さな湾です。 昭和時代の後期頃まで、湾奥では田が作られていました。 『三國名勝圖會』の「田代落雁」挿絵には、雁の舞い降りる田代の情景が海上から見た視点で描かれています。 田代の沖には茫洋たる南海が果てしなく広がっています。
用語検索