トリインフルエンザ様(抗体陽性)疾病の一症例

診察の経緯と防疫

診察の経緯
私は平成8年12月中旬にブロイラー農家一戸から「神経症状や頭部の腫脹、死廃の急増」という連絡を受けて、54日齢の鶏群を診察しました。
飼養羽数は53,200羽で、開放鶏舎4棟 (13,300羽×4)をもつ農場でした。
臨床症状の観察
臨床症状は鶏舎内観察の写真に示したとおりです。神経症状の発生率は10%以上に及んでいました。一見するだけで鶏群の行動の奇妙さに驚くような状態になっていました。
私は肉垂の腫脹など特徴的な症状のあるものを選び診察室内で症状を記録しました。
病勢の推移
病勢は急性で激しく、死廃鶏は約5,800羽(全群の約11%)に及びました。しかし、
鶏舎別日齢別死廃率の推移グラフ【JPEG, 43Kbytes】に明らかなように、ピークは48〜50日齢頃で
診察時には死廃の比率は下がってきていました。
また、1号舎と4号舎には顔面・肉垂の浮腫や頸部の麻痺を多く観察しましたが、2号舎と3号舎には神経症状などの激しい症状は認めませんでした。
検査と診断
臨床症状と急性に経過した転帰から、私はこの症例に「トリインフルエンザの疑い」を持ちました。
そこで農林水産省家畜衛生試験場(家衛試)に検査をお願いしました。家衛試では蛍光抗体法でトリインフルエンザ抗体陽性が確認されました。
血清のほか特徴的な症状のある鶏体を私の診察室から家衛試に送り、病理学とウイルス学の専門家に調べていただきました。鶏体からはインフルエンザウイルスは回収されませんでした。

典型的なインフルエンザではウイルスの回収は比較的容易であるとされています。この症例でウイルスが採れなかったのは、鶏群が既に回復過程に入っていたためかもしれませんし、または、たとえばTRT(SHS)IB、あるいはPasteurella(今回の臨床解剖では所見なし)など他の病原体の侵襲によって、病態が複雑になっていたためかもしれません。もうひとつの可能性は検体の保存と輸送の物理的な問題で、冷蔵輸送は行いましたが、採取後48時間以内ならば4℃、それ以上ならば-70℃という条件を守ることはできませんでした。

いずれにせよこの症例を単純なインフルエンザと見ることは不適当ではないかと考えています。神経症状が特定の鶏舎に偏って現れたこと、転帰は急性だが群の死廃率は50日齢以降に減少傾向を示していたこと、また病鶏からウイルスが分離されなかったことも含めて、複雑な病態を示した症例と言って良いと思います。
防疫出動
病鶏は出荷に適さないと判断され、淘汰のうえで焼却処分されました。鶏糞も焼却されました。
管轄の家畜保健衛生所(家保)と県畜産課の係官が即応出動されました。抗体陽性判明は夜間だったのですが、翌朝には防疫出動が行われました。
この出動の迅速さは、率直に申し上げて私は驚いた位ですが、頼もしいと思います。その背景には、東北からのインフルエンザ警報が直前に流されていたことも関係しているのでしょう。

発症農場では緊迫感のあふれる中、家保の防疫課長の指揮のもとで家畜防疫員が消毒作業を行いました。後で自走式の畜舎専用消毒車も到着し、数トンの消毒液が散布されました。これは機動隊の放水車とは異なりますが、遠目には警察車両といっても通用しそうなお車で、消毒の有様にはたいそう迫力がありました。事情を知らない人が見たら何ごとかと驚いたかもしれません。もっとも辺鄙な場所なので、見物していたのはカラスくらいのものでしたが。
周辺の状況
家保は所員総出で、休日も返上して、複数の機動班を編成して出動されました。そしてかなりの範囲で周辺農場が詳しく調べられましたが、異常鶏はありませんでした。
この農場にどこから病気が入ったのか、いろいろな可能性を含めて緻密に検討されましたが、感染経路はわかっていません。
なお、本症例の抗体の血清型はその後の精密検査でH3と判明しています。
その後の状況
このような症例の継続発生はありません。
臨床症状はここでご紹介したとおり、たいへん印象的なものでしたが、今のところ発生例は本件ただ一つです。神経症状は目立つので見落とすことは野外でも実際的に考えられませんが、他の農場ではまったく見つけられていません。発症農場には何らかの特別な誘因があったのではないか、という疑いを持っています。
しかしインフルエンザウイルスがトリに感染して引き起こす症状には一概には言えない多様さがあるようです。神経症状がないからと言って、安心はできません。昨今はヒトの間でもA香港型インフルエンザが流行しています。鶏とヒトのインフルエンザは同じではなく、トリからヒトへの直接的な感染は一般的に起きないことがわかっています。それでも自然界の何らかの条件(たとえば気象)が、ヒト型であれトリ型であれ、インフルエンザにとって有利な方向に傾いているのかもしれないという憶測もできそうです。

そこで、臨床症状だけで事態を楽観することは戒めています。当分は警戒を緩めることはできません。飼育に携わるヒトや物の動きを厳しく見直して、病原体が万一どこかに残存していた場合にも拡散させることがないように配慮しています。
また、家畜保健衛生所は周辺農場(発生農場は休止)の検査など、衛生環境のモニタリングに動いてくださっています。さらに、家畜衛生試験場の先生方はいろいろな抗体検査やPCRによる検索など、最高峰の専門技術をもって追究にあたってくださっています。

このように私の遭遇した症例は激しく、そして難しいものでしたが、多くの専門家の力によって病原体はやがては明らかになり、鶏と病気との相関が把握され、たしかな健康対策が打ち立てられるときが来ると信じています。


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