ニューヨーク日本人社會今昔

  ―長老にきくその當時― 米海軍に勤めた人


 堀久俊は元治元年に生れた。僧俊寛が流刑された鹿兒島の鬼界ケ島の産である。元治元年は西暦で一八六四年。日本では幕末の風雲が急を告げ、米國では南北戰爭がたたかわれていた年である。

 十一年前の一八五三年には米提督ペリーが浦賀に来ており、鎖國を破つて海外貿易を企てたため密貿易の廉をもつて錢屋五兵衛が磔刑にされている。一八五九年には梅田雲濱が獄死し、頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰が死刑されている。翌一八六〇年には櫻田の變が起り、革命反革命の板挟みにあつた伊井大老が暗殺されたが、この年はじめて米國に使節が送られて公使の發端となり、アメリカではリンカーンが大統領に當選した。

 生麥事件が起きたのが一八六二年、堀久俊が生れる二年前であるが、鹿兒島出身の彼の幼少年時代に於てもこの生麥事件を生んだ先進後進國關係、白色有色關係、獨立属國關係、國粹、國際關係などの複雑なフン圍氣が生麥事件と結びつけられて生々しく語られ、彼もその影響の中で育つた。

 沖縄に縣政が布かれた一八七九年に堀久俊は初代奈良原知事に從つて那覇に赴き自由黨が解黨された一八八四年に渡米した。(渡米年月ははつきりしない。滞米六十七年というから一九五二年からみれば一八八五年に渡米したことになるが、長濱伊三郎の渡米一八八五年より一年前と見るべきであろう)

 彼が米國海軍々艦に乗組んだのは一八八五年(明治一八年)でペリー提督の孫にあたるロージャーズが艦長をしていた。中國人が主として司厨部で働いていたのだが不潔だというので日本人といれかえはじめていた頃だつた。だが同じく東洋人なので、外國の港々で見榮えがしないという理由で上甲板を遠慮させられ水夫以上に拔擢されることはなかつた。當時白人は日本人をリキショウ(力車)、中國人をチンキ、朝鮮人をイボと呼んでいた。(ジャップと蔑稱する言葉は日露戰爭當時黄色紙創始者ハーストがつくつて流布した)。

 日清戰爭が終つた一八九三年頃にはニューヨーク近邊で日本人が四百人近く米國海軍に勤めていた。海軍に勤めれば市民權をくれるということだつたが、日本人が受け取つたものは海軍勤務証明で歸化証ではなく、州市民權証がなければ正式の歸化市民ではなく、これを入手したものは數多い日本人米國海軍勤務者の中で關根英次郎だけであろう。關根英次郎は群馬縣の鐵砲屋の息子で、スナイダー、モーゼル、レミングトン、村田などの銃射能發表會がアメリカでひらかれた時、村田新八の弟何某の從卒として渡米し、アメリカにとゞまつた人である。

 米國海軍に日本人を周旋する口入屋は岩瀬徳五郎がやつていた。水夫のボーデング・ハウスとしてはブルツクリンのサンド街にオショウ婆さんが経營しているものや、金子兼太郎に師事したという漢學者の鈴木辰五郎、ジミー中濱、チヤーリー中川、國本などの経營する船宿合宿部屋同然のものだつた。海軍に就職すると本艦に乗組む前六カ月間ベルモントとよばれた練習船で訓練されるのが普通だつた。給料は月九弗であつたが後に十六弗となつた。

 堀久俊が上陸してぶらぶらしていると、その頃日本から茶を輸入して販賣しているホフマンという男がブルツクリンにだしている店の看板が目についた。大西洋太平洋製茶會社というのである。東洋練習艦隊が横濱に寄港した時が機縁となつて顔見知りとなつたホフマンが店先にいて通りがかりの日本人をよびいれたのである。茶の輸入關係から日本人を使えば便利であろうと考えたホフマンは堀久俊に働いてみる氣はないかとすゝめた。いくら拂うか、とたずねると月十五弗出すという。しかし海軍では「くつてねて」月十六弗なので頭を横に振つた。ホフマンは現在アメリカ全國に蜘蛛の巣を張るチェーン・ストアA・Pの創始者であつた。海軍をやめてから堀久俊は色々な商買に手をだしたが根が潔癖なので商賣にはむかず、寒空にコートなしで歩くので同情した日本人がコートをやるとコートなしで寒むがつている友人に渡して自分は相變らずコートなしで歩くといつた風だつたから、たとえホフマンのすゝめでA・Pに勤めたにしても商賣敵と血で血を洗う競爭には尻を向けてしまつたであろうと思われる。

 米西戰爭が起きたのは一八九八年だつた。きつかけはスペインが米軍艦メーン号を爆沈したというのである。長濱伊三郎の話では、その時巷間に流布された排外好戰スローガンは「リメンバー・ダ・メーン●●フ・ヘルウイズ・スペイン」だつた。堀久俊はまだ海軍にいたので、その眞相を知つている。

 戰爭がある所には不思議に顔を出して戰爭ごとに頭角を現わし、のちには「戰爭宰相」とよばれ現在では冷戰の創始者であり英國保守政府に君臨するウインストン・チャーチルが新聞記者としてキューバに特派されていた。「報道をくれろ、戰爭を提供してやるから」と豪語したW・ランドルフ・ハーストもキューバにいた。メーン號が爆沈される寸前である。

 メーン号に乗組んでいた上村という日本人は、ハバナ沖碇泊中にゼグビー艦長から特命を受けた。それは通風筒を全部油布で封じることだつた。封じられた艘底部にガスがたまつていつた。火藥庫にスリツケギで点火したのが誰だつたかはつきりしないが、メーン號は爆發し船腹に穴をあけられて沈んでいつた。上村がハバナに上陸したことはわかつているが、その後彼の行方は杳として知れない。彼の口を封じるため暗に葬られたのであろう。五十四年前の歴史となつた現在では、米西戰爭を始める口實としてアメリカ側がメーン號を爆沈しておいてスペインか