落ち穂ひろい

 ひょんなことから、琉球新報文化面「落ち穂」の欄に半年間で13回ほど、800字のエッセーを書くことになった。
 従兄のピンチヒッターが回ってきて、今まで読んだこともない欄の執筆を気楽に引き受けたのがいけなかった。
 好き勝手なことを適当に書けばいいのだろうと思っていたら、あにはからんや、今回も、そして今までも、皆さん心底真面目に書いていらっしゃる。社会の公器たる新聞に個人の好き勝手な居酒屋談義など書いていいはずがないのだ。
 しかし、今さらどうしようもない。私は私のペースでやるしかない。せめて原稿を落とさぬように努めるしかない。そんなわけで、WEBにも上げることで自分を追い込むことにした。
 これは、私なりの「背水の陣」である。苦笑。

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1:非科学的で非効率的で、カネ儲けの役には立たない話
  第01回:南風の夜          第02回:ニライカナイ
  第03回:島時間           第04回:雨降り祝い
2:琉球弧とヤマトのかかわりについて、あるいは対比
  第05回:同化            第06回:境界
  第07回:ルーズソックス       第08回:回帰
3:上を向いて歩こう.....(あ、ちょっとした冗句です)
  第09回:ピンピンコロリ       第10回:周縁
  第11回:虚学・実学         第12回:こころ、豊穣
4:むすびことば
  第13回:旅の空から

 WEB版の中では、出来る限りにおいて、喜界島の「ちょっと・古い写真」も紹介したいと思っている。
 ただし、毎回という確約は出来かねる。写真を捜して、スキャンして、そんなヒマがあったら何とか....。
 また、WEB版ではいわゆる「当用漢字」を無視した「素」の原稿を掲載するが、実際に紙面に載ったものは
 適宜訂正されているのではないかと思われる。、
 意図しているわけではないが、何が当用漢字で何がそうでないのか知らないのである。御寛恕を賜りたい。

南風の夜

58年_湾港でのスナップ  喜界島は奄美大島の東の海上に位置する隆起珊瑚礁の小さな島である。
 全周約50kmの海岸線はどこも格好の遊び場だった。小さな入り江の一つひとつはおろか潮だまりにも名前があって、父のいさりの供をする度にその名前を教えてもらうのだった。片手にランプ、片手にモリを持ち、寝ている魚を捜すのだが、何となく夜の海は怖かった。父の背中が灯りの届く範囲にあるのを確かめるのに懸命で、実は魚どころではなかったのである。
 ある夜のこと。ふと気付くと父がずんずん歩いている。離されまいと慌てて後をついて行った。周囲に目もくれぬ早足の父に遅れぬよう、多少の不安と、妙な期待感に背中を押されるようにして歩いた。と、突然父を見失った。途方に暮れつつ、もう一歩踏み出そうとしたその時、遙か後方から名前を呼ばれた。父の声だった。「動くなよぉ」と叫んでいる。やがて父の姿が視界に入り、安堵してよくよく辺りを見回すと、さっきとは反対側の岸の断崖の上に立っていた。
 帰る道すがら、肌を舐めまわすような南風に乗って月下美人の香りが闇の中に漂ってきた。鼻腔を占領された、と感じた。
 以来、二度といさりの供に行かなくなった。
 こんな怪談めいた話が何の違和感もなく語られていたのはいつまでだったろう。防波堤とテトラポッドで「整備」された海岸線にはいさりの楽しみも無くなった。街灯が整備されて街は明るくなったが、南風に肌を舐めまわされたと感じることも無くなった。科学と文明と公共工事は島をひらけた環境にしてくれたかも知れないが、何かかけがえのない大切なものを無用のものとして捨て去ってしまった気がしないでもない。
 科学的ではないし、非効率的でカネ儲けの役には立たないけれど、何故かこころを豊かにしてくれる何かが島にはあった。その島を出て今年で20年になる。
 (1999年01月12日掲載)
 WEB master 註:写真の背景は1958年当時の湾港。防波堤もなく、珊瑚礁がむき出しである。
 台風の後など、この珊瑚礁の上に打ち上げられた貝を拾ったりしたものだった。岸壁と防波堤が
 整備されるにつれて、この港は皆からチッコー(築港 の意か?)と呼ばれるようになっていった。
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ニライカナイ

72年空港_送迎風景  前回、島の海での怪談めいた話を書いたが、南風が海から運んでくるものは何も怪談・奇譚だけではない。幸福が訪れるという伝承もある。そのせいか否か、島では遠来の客をもてなすのが好きである。幸福の使者に対するが如く、とでも言おうか。
 昨年、さる中央省庁のお役人が奄美のある島を訪れた。夏休みに民俗芸能を見たいという個人的興味での来島だったのだが、その島では百人規模の人間を動員し、普段の年は行わない「予行演習」までして要望に応えてやったのだった。役所の公的な調査だと思い込ませる依頼文書が事前に送りつけられていたこともあるのだが、もともと、お役人だろうが庶民だろうが、島では遠来の客をあだや疎かにはしない。損得もなく、ただただ新たな友人を得たかのような嬉しさから、乞われるままに、時に自己犠牲を伴うほど精一杯の歓待をするのである。
 喜界島に関するホームページを開いていると、学生から「卒論で喜界島を扱いたい」とのメールをもらう事もある。そんな時は島の知人を紹介して彼らに尋ねてみるように言うのだが、果たせるかな、島ではデータ収集に協力するのみならず、タダの宿を提供してやり、歓迎の宴会まで開いてやったりするのだ。
 かく言う私も同類だ。島への交通手段を教えてくれ、というメールを頂くことがよくある。自己紹介もなく、ただ「教えてくれ」で教えたきり返信も来ないのだが、嬉しさには勝てず、出来るだけ丁寧に対応してしまっている。
 お役人様、大学生、あるいは観光客。島を訪れた人にとっては、相手が勝手にやってくれただけの事だという理屈になるのかも知れない。だが、精一杯に遠来の客をもてなすこころの奥底にある島の歴史や文化、暮らしの実感をこそ、島を訪ねる人には体験し共有して欲しいのだが。
 島を訪れた皆さん、あなたこそがニライカナイの人だったのですよ。
 (1999年01月26日掲載)
 WEB master 註:写真は1972年の喜界空港での送迎風景。「旅」から誰か来ると言えば
 すぐにこれくらいは集まった。水平線を越えて島に往来する人達を歓迎・歓送するのは、
 島の生活の中では大きな「行事」だった。
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島時間

59年_親族宴会  前回客をもてなす話を書いたが、薩摩ではこのような宴の場で「薩摩時間」という言葉がよく使われる。時間にルーズな事を言うのだが、薩摩人は南島にはもっとルーズな「島時間」があると信じているフシがある。かく言う私も、かつては人を待たせる名人みたいなものだった。これが営業の仕事だったら、契約なんて絶対にとれないだろう。ノンビリズムは南島近代化の大きな障壁なのかも知れない。
 と言いつつ、大好きな「島時間」というのも実はある。
 かつて、島のお祝い事は、子供の入学・卒業から結婚祝いまで、ほとんどが各家々で行われるのが常であった。どうぞお越し下さいと触れを回すとき、何時開始と厳密には決めないのが普通だったように思う。仮に決めても大体の目安。来たい時刻に来て下さい、というのが暗黙の了解だったような。
 適当な時刻にある程度の人数が揃ったら、それで祝宴の始まり。でも、定刻前に来て既に飲んでいる人もいる。やがて遅れてお客さんが来れば、その度に乾杯、また乾杯。一晩中お祝い気分が続くんである。時には朝までずっと。
 招く方は、客の側にも都合があるだろうし、来たい時刻に来て祝ってやって下さい、という訳である。客の方にしてみれば、あまり早く出かけて相手を急かしたり、あるいはよそ様のお宅でガツガツするのは申し訳ないという気遣いもあって、自宅で多少の腹ごしらえをしてからおもむろに「出陣」するわけだ。中には一杯引っかけて「出来上がって」から来る客もいた。
 こういうものは一律に排除されるべき悪しき風習なのだろうか? 私は「島時間」の中に、ある種のゆとりであるとか、緩やかにつながりあって自己の都合で他を束縛しない大らかさであるとか、ムラ・シマ社会が本来内包していた豊かさ・優しさを見いだすことも出来るように思うのである。実のところ「島時間」の中にこそ「こころの豊穣」があったのかも知れない。
 (1999年02月09日掲載)
 WEB master 註:写真は1959年頃、一族郎党集まっての宴会のひとこま。
 背後の壁にはランプが置いてあるのも見える。
 みな活き活きと見えるのは、単にそういう時代だったからなのか?
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雨降り祝い

50年_庭先の家族  前回、時間にルーズな習慣について書いたが、こんな習慣はどうだろう。
 かつて喜界島にはアミフリユーエー(雨降り祝い)なるものがあったらしい。日の出から日没までくたくたになって働く農繁期、たまさかしとどに雨が降ったりすると、仕事を休んで日も暮れるか暮れぬかの時刻から酒を飲むのだ。天が自分に休養を与え賜うたことのお祝いである。日頃の勤労を自分で褒めてやるお祝いである。時には真っ昼間から隣近所・一族郎党呼び合って、粗餐ながらも大宴会ということもあったらしい。
 働きもせず昼間の酒盛りとはなんとぐうたらな、と思われるかも知れない。が、どう気張ってみても自然には勝てはしないのだ。そこには、自然に逆らわず暴風雨をも天の恵みと受け止めて楽しむ「楽天」主義が、見てとれる。
 むろん、暮らしが都市化された今では、こんな習慣もとっくに廃れてしまった。ニシカゼが雨・霰を肌に叩きつけようと、休むことはない。製糖工場へのサトウキビの搬入に「島時間」は許されないのだ。島の人は昔よりもずっと勤勉になったと言えるだろうし、そのぶん豊かになったのかも知れない。きっと、それはいいことなのだろう。
 しかし、私は、雨が降ったら仕事を休んで酒を飲むなどという一見ルーズな行いの中にも、忘れられつつある「こころの豊穣」を見る思いがするのだ。自然に逆らわないばかりではなく、他者の個性を尊重し、束縛しない。むやみに争わず、ありのままに受け容れて、全てを善なるものとして許容していこうという、大らかな文化の気風である。
 向上心や努力といったものを否定するつもりはないが、誰とも争いたくはなかった。ありのままでそこにいて、自分なりの役割を見つけて生きていければいいと思っていた。
 そんな人間がヤマトに出ていくことになった。苦労しない訳がない。
 次回はそんな話である。
 (1999年02月22日掲載)
 WEB master 註:写真は1950年、庭先での作業の合間に取られた家族写真。
 背後の家の屋根がトタン葺きだが、当時は茅葺きの方が多かったと思われる。
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同化

79年_共通一次受験生  前回、南島の文化は他者を束縛しないと書いたが、喜界島を出てこの方、時として何ものかに束縛されているかのような被害妄想に陥ることが少なからずあった。
 十九の年に出てきた鹿児島で最初にそう感じたのは言葉の問題だった。ありとあらゆる場面で鹿児島弁が飛び交い、理解に苦労するのである。訛りだけならまだし、独特の単語が飛び交う。仲間内の雑談ならまだし、バイト先の朝礼や授業などの場面でもそうなのだった。
 島では、授業や会議など「公共の場」では方言を極力排除せねばならなかった。それは、方言札を経験し、ヤマトへの同化を苛烈なまでに叩き込まれた世代の大人達と、やがてヤマトへ出ていく子供達との間の約束事だった。島の訛りは、島の外では隠さねばならないものだった。
 ところが、自分の「標準語」は標準たり得ない。鹿児島県人は鹿児島弁を使え、と露骨に厭がられたりもした。すり寄って身内として振る舞わなければ、受け入れてもらえそうにないとさえ思えた。今は昔、薩摩での国の話である。
 そんな私も、今では年輩者に接する時に怪しげな鹿児島弁を操ってみたりする。すり寄って二十年の成果だ。
 身内として振る舞うことを覚えた今になって思うのだが、私を束縛していたのは、中央から来た他者には寛容でも「身内」には横並びを要求する、ある種の偏狭なダブルスタンダードだったのだろう。それが同化の圧力となって私を束縛していた。
 束縛と感じるのは被害妄想かも知れない。だが、あの頃、島人(しまっちゅ)として生まれて地球人として生きるという選択肢を、何故に見つけきれなかったのだろう。島を出てせっかく芽生えた己が出自に対する自覚や誇りを、自らの手でこなごなにするようなものだった。
 相違をそのままに受け入れて、同化ではなく共生することが、シマにもヤマトにも求められてはいないか。
 (1999年03月09日掲載)
 WEB master 註:写真は1979年01月11日付け朝日新聞記事の切り抜き。
 「共通一次受験のため、鹿児島港に着いた喜界高校の三人」とキャプションがついている。
 3人目の、痩せこけた男子高校生が、何を隠そう、筆者である。(^_^;;
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境界

1936年頃の少女達  前回、他者に寛容で身内は横並び、と書いたが、他者と身内あるいは自己との境界はどこにあるのだろう?
 喜界島での暮らしを振り返ると、他者と自己との境界は海だったように思う。海の向こうにあるものは、琉球も薩摩も、江戸も大阪も、唐・天竺も、すべて斉しく他者であった。それら他者と共生しつつ、しかして同ぜず生きることが自己実現の方途だと考えていた。
 一方、ヤマトには、互いの差異を認知できない鈍感と、鈍感であるが故の傲慢とがあるかに見える。
 甲子園の応援席でエイサーが禁止された話はいささか旧聞だが、何故に「華美にして奇異」などと言われなければならなかったのか、いまだに納得がいかない。
 強者は弱者を「境界」の内側に引っ張り込もうとするが、ありのままでは受け入れないのが常だ。存在の多様性を許容どころか想像すらできないのだろう。前回、同化の圧力、と書いたのはそういう事なのである。
 あるいは、一昔前、奄美の学校で。本土から来た親が、奄美の歴史教育は我が子に不要だと拒否した事があった。
 鹿児島で西郷・大久保を知らない人間はいないが、差別と収奪の中で維新の薩摩を支えた琉球弧の島々については、ほとんど誰も知ろうとしない。南に開けた錦江湾を擁する地勢とは裏腹に、その以南に連なる島々への視線は、つい最近まで閉ざされたままだったのだ。
 近年とみに元気を増して注目を集めるかに見える琉球弧だが、ヤマトの空から見れば、単に境界の向こう側の、異国趣味の対象に過ぎないようにも見える。あくまでも「他者」なのである。
 ヤマトでは「身内」とはどんな存在なのだろう?
 島では、一度知り合えば他者も全て身内であった。他者と身内との間に明確な境界がなかったのである。沖縄でも「行き会えば兄弟」と言うではないか。
 (1999年03月18日掲載)
 WEB master 註:写真は、1936〜37年頃の少女達。当時のこと、皆、和服である。
 高等小学校を卒業して2〜3年と思われる。場所は百の台か?
 WEB master 註:文中の「江戸」だの「唐・天竺」だのという表現には「何とも時代
 がかった」とか、あるいは「大げさな」と呆れる方もおられるかも知れない。
  だが、かつて薩摩藩統治下の奄美では、サバニ(くり船)ひとつを造ることも禁止され、
 海陸の交通・交流は著しく制限されていた。海こそが、唯一無二の境界であり、最大の
 障壁だったのである。海を渡れば日本も外国も同じこと、そんな感覚は、今でもある。
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ルーズソックス

1962年頃の少女達  前回「行き会えば兄弟」と書いたが、ヤマトゥンチュにはそれが苦痛らしい。喜界島に限らず「田舎」はそうだと思うが、ばったり出会えば「どこ行くの?」と尋ねる。さもなくば「いつ、どこそこで見かけたよ」が挨拶である。監視・束縛するつもりはなく親愛の表現なのだが、その親しさが、肌にまとわりつくほどに鬱陶しいらしい。
 他人に構うな、もっとクールでドライな感覚を持て、と言われるのだが、「都会人」はあらゆる束縛から逃れて本当に自由なのだろうか。
 都会で味わう雑踏の中の孤独は、なるほど快感である。道行く多様な人々の観察も、自己相対化の過程と考えれば実に興味深い。
 だが、自分探しをしてみれば、何らかの付加価値で輪切りにされた集団の中にしか自分を見いだせない。雑踏の中の孤独は、多様なる他者との関係性が希薄であるが故の、あくまでも錯覚なのだ。
 少々脱線して、首都圏に住む姪の話である。高校時代の彼女は、自分に似合わないルーズソックスと裾上げしたミニの制服が大嫌いだった。だが、では着なければいいと大人が言うと、友達にシカト(無視)されて学校に行けなくなると答えるのだった。
 たかが制服のために、彼女は二重に輪切りにされ、束縛されていた訳である。なんという窮屈さだろう。
 海で隔絶された小さな共同体社会の中にも、存在の多様性はあった。皆が役割を持たなければ地域社会を維持できない実感があった。あるいは、海の向こうの「他者」との関わり無しには生きられない苦渋もあった。
 だからこそ、重苦しく関わり合いながらも互いの相違を尊重することを、南島の民は知ったのである。
 人間の本質とは無関係に輪切りにされた付加価値均質集団の方がよほど鬱陶しい。
 姪っ子よ、ルーズソックスなんて、履きたくなければ履かなければいい、その程度のモノじゃなかったのか?
 (1999年04月03日掲載)
 WEB master 註:写真は、1962年頃の喜界第一中学校の生徒達。木造校舎につっかえ棒が見える。
 女生徒たちも、もちろんルーズソックスは履いていない。(^_^;;
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回帰

1975年湾港とあまみ丸  これまで、島とヤマトを対比させて書きたててきたが、こういう議論の際に「ヤマトと言わず『内地』と言え」と指摘されることがある。多くはヤマトではなく島からの声である。ヤマト=日本と解釈すれば、ヤマトと呼ぶ自分達は日本人ではなくなるという危惧があるらしい。
 だが「内地」の対義語は何と言うのだろう? かつて日本はどのような土地を「外地」と呼び、どのように扱ってきたのだろう? ヤマトを内地と呼び換えるのは、自らを境界の外の存在として規定することではないのか? 私達は外地の日本人としてしか認められないのだろうか?
 ことさらに相違を言いたてず、共通点・相似点を見つけていくべきだ、とも言われるし、それはいくらでも見つけることが出来る。だが、自らを境界の外側に位置づけながら同化を指向する態度は、卑屈ではないのだろうか? まるで、宗主国に媚びへつらう植民地ではないか。
 島がヤマトとは異なる存在であることに、仮に異端と言われても、自信と誇りを持ちたいと思う。
 これまで、南島こそが素晴らしくヤマトは劣っていると言わんばかりに書いてきた。
 むろん、そんな事があろうはずはない。南島はいまだ貧しい。所得水準で言えば、鹿児島・沖縄両県が最下層に位置し、奄美は更にその下である。だが、それでも十分「先進諸国並み」なのである。
 因習にとらわれた側面もあるだろうが、見方を変えれば、それも「こころの豊穣」につながるはずである。
 ヤマトと同じ価値観、同じベクトルでの「進化」を指向するのは、そろそろやめにしたらどうだろう?
 単一の文化と均質な価値を指向しなければ共生出来ないわけでもあるまい。
 効率が悪く経済的に劣っていると指摘されるたびに慌てふためき、あるいは嘆いて下を向くのは、もうたくさんだ。島ならではの豊かさに自信を持ちたい。
 次回は、そんな話である。
 (1999年04月14日掲載)
 WEB master 註:写真は1975年01月頃の湾港。まだ沖防波堤が出来ていない。
 冬場の季節風の吹き荒れる日は船が接岸できず、反対側の早町港を利用することも多かった。
 曇天の港に停泊しているのは、前年から就航したあまみ丸(1500トン)であろう。
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ピンピンコロリ

1976年正月風景  南島における誇りの一つに長寿社会ということがある。しかし、最近では長寿も単純には喜べないものらしい。
 今年一月のことだが「寿命の質」を問う新たな指標として、「平均自立期間」の試算が全国紙で紹介されていた。介護なしで生きる期間が余命に占める割合で寿命の質を推し量ろうというのである。
 読んでみると、介護を要する期間の長さでは男女とも沖縄が一位である。このため六五才以降の余命に占める自立期間の割合が低くなり、沖縄では「寿命の質」が低いと受け取られかねない内容の記事だった。
 だが、六五才以降自立している期間もまた、飛び抜けて全国最長なのである。最も長く元気で自立した高齢者がいて、要介護となっても大切にされ長生きできる。こんな結構なことはないと思うのだが、今や「ピンピンコロリ」というのが望ましいらしい。元気でピンピン、死ぬときゃコロリ、という意味である。
 こういう議論の背景には、医療費の増加を問題視する視点や介護保険の導入があると思われるのだが、生産に役立たない要介護者の命は低質だという事なのだろうか? カネのために「寿命の質」を問わねばならない時代なのだろうか?
 私は高齢者や障碍者と向き合って毎日を過ごしている。多くは社会的生産に携わらない人たちだが、みな輝き、尊厳を持って生きている。その命の質が低いとは到底思えない。人間の尊厳の回復こそがリハビリテーションの本分だが、言わずもがな、命は平等である。質だの価値だのを問われる必要はないだろう。
 自立して長寿で、介護されても長寿の長寿社会。その背景には、生産に役立つことだけを価値とせず、生命の存在そのものに価値を見出す社会の姿があるはずだ。全ての生命に存在理由が用意された社会と言ってもいいだろう。
 ここにこそ、「こころの豊穣」があるとは言えまいか。
 「命どぅ宝」とは、そういうことだろうと思う。
 (1999年04月30日掲載)
 WEB master 註:写真は1976年正月の風景。しめ縄、門松、日の丸、いかにも正月らしい。
 門松は基部を竹で囲わず、白砂の山に突き刺したような独特のものである。庭には雪を模して
 薄く白砂が撒かれているはずで、これも島独特の風習だった。島らしいと言えば、珊瑚の石垣
 と高倉。だが、この時代に高倉を残していた家は数えるほどだったろうと思われる。
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周縁

1977年中里海水浴場  前回、全ての生命に存在理由のある社会と書いたが、かつて喜界島では小さな入り江や潮溜まりも固有の名前を持っていた。人間だけでなく万物が個として認知され、共生していたのである。
 ところが、最近ではその豊かな自然が破壊され続けている。港湾整備と称しては無造作にテトラポッドを積み、道路や海水浴場を作ると称しては珊瑚礁を破壊する。構造改善事業で畑地は整備されたが、林の木々も刈り尽くされ、奄美の中でも小さな島は今や丸坊主のありさまだ。
 産業振興のためと言われれば誰も文句を言わず、豊かになるためには、と我慢する。だが、どれほど豊かになればいいのだろう? 島にはモノが無い、と言われるのだが、ありふれたモノを得るために固有の財産を失って、それでも豊かと言えるのだろうか?
 効率化のためだ、競争にうち勝つ体力をつけろ、と言われれば、誰もが頭を下げる。だが、その結果豊かになるのは誰だろう?
 自由競争を押し進め、好景気に沸く「豊かな」米国に、フードファーストという団体がある。その報告によれば、米国では富の偏在がますます加速され、富裕層が資産を増やす一方、最低生活賃金に満たぬ就労を余儀なくされ、あるいは職を得られず、貧困ゆえの食糧不足に悩む国民が三千万人に達するという。
 だが、米国政府は、世界人権宣言にも謳われた基本的生存権である「食糧の権利」を支持しないのだという。
 私達の望むものは、そんな豊かさではあるまい。
 南島は日本の周縁に位置するが、なればこそ守り得た豊かな自然がある。長く育んできた共生の文化がある。勝ち残りに賢明になる余り、その豊かさを棄ててはなるまい。
 周縁、と書いたが、あるいは、ガイアツに振り回されるニッポン自体が、周縁の土地なのかも知れない。望んでそこに位置するわけではないが、周縁のままでいることも、一つの選択だろう。
 (1999年05月14日掲載)
 WEB master 註:写真は1977年頃の中里海水浴場(現スギラビーチ)。砂浜にまで珊瑚の
 巨岩がせり出し、波打ち際までアダンが群生している。この頃は、アダンの中で素早く
 着替えて、珊瑚礁の上からそのまま海に飛び込んだものだった。
 今ではこの珊瑚礁を取り除き、アダンを伐採して砂浜を広げ、更衣室等だけでなく屋外
 ステージなども設けて、島民の憩いの場所として生まれ変わっている。近くにゴルフの
 ミニコースも作って、空港臨海公園として「整備・開発」されたわけだが、その経緯を
 知った観光客から「呆れた。二度と行かない!」と言われた経験が、筆者にはある。
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虚学・実学

砂糖小屋の様子  前回、日本自体が周縁の土地ではないか、と書いた。実際、これまで書いたのは、ヤマトと南島ではなく、都市と地方、強者と弱者、あるいは効率と非効率、そんな対立軸にまつわる問題であったのかもしれない。効率化の名のもとに変革を迫られているのは南島ばかりではない、ということなのだ。
 国立大学の中に身を置いていると、改革を求める声がかまびすしく聞こえてくる。附属病院を民営化しろ、大学を独立行政法人化しろ、というのだが、国の手を離れてしまえば患者サービスが充実し、研究・教育が発展するという保証はどこにもない。
 大学病院を例にとれば、職員の数は欧米の半分以下であり、さらには無給で働く医師が半数を占める。大学に自己改革の努力が求められる部分は当然あるが、経営努力までを大学の自己責任に帰するようになれば、多くの地方大学は瓦解してしまうだろう。
 手本と目される米国の大学では、年間の学費が国民の平均年収を上回っている。結局、教育が庶民の手の届かないものになりはしないか、という危惧を拭えない。
 さらに悲惨なのは、全国の大学で教養部の「改革」が行われ、健全な市民の育成に欠かせないはずの科目の多くが履修時間を削減されている、という事実である。それでも飽きたらず「文学部不要論」を囁く人々もいるらしい。企業の役に立つためにと、実学重視を言うのだが、形而上の学問を「虚学」と称するような態度こそが、今日の社会の歪みを助長してきたのではなかったか? 多様な価値を認め合い、個人の利益と公共の福祉との両立を求める市民の育成こそが、いま教育に求められてはいないだろうか?
 とまれ「大学改革」は進んでいく。多くの地方大学が、地域に根ざした独自性と社会貢献を模索しなければならなくなるだろう。その大学を擁する地域社会には、単一の価値に流されない豊かな独自性が求められるはずなのだ。
 逆説的ではあるのだが。
 (1999年05月27日掲載)
 WEB master 註:写真はサターグヤ(砂糖小屋)の様子(年代不詳)。写真が不鮮明だが、
 左側に写っているのが圧搾機だろう。この機械を使っているところをみると、70年代
 のものか? かつてはこんな砂糖小屋がたくさんあって、カギンナリィ(固まる直前の
 水飴状になった黒砂糖)を湯呑みに少し入れてもらうのが楽しみだった。
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こころ、豊穣

1976年夏祭り船漕ぎ競争  島を離れて奄美と沖縄を見比べると、元気な沖縄と沈滞する奄美、と、どうしてもそういう見方をしてしまう。
 経済状況は似たようなものだろうし、公共事業が地域の命脈を握る構図は全国的に大差ないのかも知れないが、年に百余の「島唄」が生まれ、シマナイチャーと称するIターン者を惹きつける沖縄は、いかにも元気に見えるのだ。
 対する奄美は、奄振法の行く末に一喜一憂して、青息吐息に見えないこともない。
 つながり、とけ合うような文化を共有しながら、何故こんな違いを生じるのだろう?
 様々な観点から様々な答えが得られるのだろうが、個人的には文化圏の大きさの違いによるものかと思っている。
 薩摩と琉球に挟まれて、奄美は小さい。琉球弧自体小さな島々の集まりだが、その中にさらに小さなシマ(集落)を内包している。それぞれのシマで言葉が違うし、唄も踊りも違う。その違いを厳格に守ってきたシマの寄り合い所帯が、奄美なのだと思う。
 五百年余の昔、琉球王尚徳の「征伐」に最も激しく抵抗した喜界島には、その歴史を二重支配として捉える向きがいまだにある。強者に挟まれた忍従の歴史の中では、隣の島さえもヤマトや外国と同じく「他者」だったのである。
 このような孤独感と矮小な地域意識が、奄美に影を落としているようにも思われる。
 だが、孤独なればこそ他者と斉しく交わりたいという感覚は、子供の頃からあった。
 「少年の日の僕は、今と変わらず随分な怠け者で、何をするともなく水平線を眺めたり、空ゆく雲を眺めては日がな一日過ごすのが好きだった。海の向こう、同じ目の高さにまだ見ぬ世界があり、雲の行く先、同じ空の下にまだ見ぬ友がいる、そんな夢想が空腹を満たす糧だった」
 私はそんな少年時代を過ごしたが、他の誰とも違う自分を意識しつつ、まだ見ぬ友を夢想するのはとても愉快なことだった。島には、こころ豊かな時間があったのである。
 (1999年06月10日掲載)
 WEB master 註:写真は1976年頃、夏祭りの船漕ぎ競争の様子。この、警察署下の
 海岸はウドゥンヌハナァと呼ばれる場所で、明国の成化二年、奄美平定に最も激しく
 抵抗した喜界島を「征伐」するために琉球王尚徳が自ら乗り出して1週間にわたる激
 戦が繰り広げられたとされる場所でもある。
 今は漁港として整備され、当時の面影は残っていない。
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旅の空から

1976年早春のアオサ摘み  喜界島は、奄美大島の東の海上に位置する隆起珊瑚礁の小さな島である。小さく弱ければこそ、優しく豊かであったその島には、島を離れた場所を指すのに「ヤマト」でも「内地」でもなく、もう一つ「旅」という言葉がある。
 旅と言うとき、そこは青山の地ではなく、いつかは生まれ島に帰るのだという意識が込められている。
 島にいる家族が「息子は旅で働いていて」などと表現するのだが、旅で働いている私は、何とも郷愁に満ち溢れたこの言葉が気に入っている。
 何ものにも取り込まれたくはないが、殊更に敵対したいわけでもない。ただただ、自分に誇りを持って、迎合することなく対等に生きて行きたいだけなのだ。私にとって、自分のいる場所を表現する言葉として「旅」以上にしっくり来るものは無い。
 だが、旅の空から島を振り返るとき、何だか自信の無さそうな、ともすれば卑屈になりそうな気配を感じてしまうのは私だけだろうか?
 取り残されまいと、必死で追いつこうとするのだが、結局は固有の財産を投げ捨て、埋めきれぬ彼我の差に打ちのめされることになる。
 だが、何も全ての面で追いつく必要は無いのだ。
 こんな事を言うと「島を離れた身で何を言う」と叱られるかも知れないが、フローは小さくても、島には島なりの、ストックされた豊かさがある。旅に出て初めて気付く豊かさもあるのだ。
 その豊かさに誇りを持って、独自の文化や豊かな自然を再評価し、胸を張って生きる元気な南島であって欲しい。この半年間、そんな気持ちで書き続けてきた。
 気持ちが勝ちすぎて、偏屈な議論に陥ったこともあるかと思うが、それとて、自分にとっては「応援歌」だった。
 優しく豊かな島が自分から離れていくかのような錯覚に襲われるとき、島よ頑張れ!と、旅の空から囁いてみる。
 島を出て、旅に暮らして二十年になる。
 (1999年06月24日掲載)
 WEB master 註:写真は1975年頃、早春のアーサー(アオサ=石蓴)摘みの様子。
 ニシカゼがほのかな甘酸っぱさと物憂く気怠い空気を運び始める頃から春一番の直前
 まで、天気と潮を見計らってはアオサ摘みに行ったものだった。水洗いして十分に砂
 を落とし、乾燥させたアオサは、潮の香漂う吸い物にしても美味かったが、ぐい、と
 一つかみ、みそ汁に入れても美味だった。海は、本当に恵みの場所だった。
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ここまでして自分を追い込んで、これで「原稿落ち」なんか出したらちょっとね....。(1999年01月12日)

ついに脱稿! 何とか「原稿落ち」は避けられたが....。
何とも、おのが無能・無才を痛感させられた半年間ではありましたね....。(1999年06月25日)

あとがき

あとがき:WEB版の終わりに寄せて