米軍の喜界島上陸計画

本土防衛の捨て石に


 太平洋戦争末期、米軍が策定した沖縄攻略作戦(アイスバーグ作戦)の中で、喜界島上陸計画が周到かつ綿密に進められていたことが明らかになった。沖縄県公文書館が入手した作戦図は「最高機密」扱い。戦史研究者らは「史上最大と呼ばれたノルマンディー作戦を上回る海軍力をぶつけ、南九州、関東上陸のため飛行場確保を目指していた」と指摘する。
 米軍が沖縄本土上陸を開始したのは1945年(昭和20年)4月1日。迎え撃つ日本軍の第三二軍(司令官・牛島満中将)は、第九、第二四、第六二の三個師団と独立混成第四四旅団を基幹とした約11万の集団といわれたが、実際には宮古、八重山、奄美などにも部隊が分散配置されたため、総勢7万7千人と劣勢。しかも制空、制海権も抑えられ、まさに孤立無援の状態だった。
 アイスバーグ作戦に詳しい嶋津与志氏(58)によると、沖縄守備軍の作戦方針は当初から持久戦であった。慶良間諸島への米軍上陸を傍観し、北・中飛行場への無血上陸を許したというのも、守備軍の作戦任務が島々の飛行場守備より持久戦のための兵力温存を優先していたから。「軽軽に玉砕を急いではならぬ」というのが大本営の本音であった、という。
 3ヶ月近くにわたった攻略戦では日本兵、住民ら20万人以上が死亡した。嶋氏は言う。「日本軍にとって沖縄作戦は本土防衛(国体護持)を至上命令とする時間稼ぎの捨て石にほかならなかった。目的のためには一般住民までが最後の一人まで戦って死ぬことを強要された。サイパンが太平洋の防波堤であったように、沖縄もまた『皇土の防波堤』にすぎなかった」。
 米軍の作戦図によると、喜界島への上陸開始日は5月17日。沖縄南部がほぼ壊滅する時期であった。喜界島攻略図は三つあり、色別された漁港などから主陣地帯に前進する計画だった。航空撮影によって島内の各陣地や兵器、弾薬庫、無線施設などが調べ上げられ、攻略目標となっていた。
 米軍はアイスバーグ作戦で(1)慶良間諸島から沖縄本島中南部を占領(2)伊江島から本島北部を制圧(3)喜界島など南西諸島を占拠する−ことなどを決定した。アイスバーグとは氷山のこと。つまり、日本本土への上陸作戦用の基地を建設するため、奄美の島々を氷山に見立てて、一つ一つたたきつぶしていく計画だった。
 8月の敗戦がなければ喜界島もまた、住民を巻き込んだ玉砕戦闘の地獄絵図が展開されたに違いない。(亀山 昌道)

1998年05月09日、南海日日新聞「ニュース裏おもて」より