墓標

大倉 忠夫

Back to Bak's Home
蝶の写真  一九四五年三月末、沖縄周辺に米軍機動部隊が来襲した。鹿児島と沖縄の中間の海上にあって特攻機の中継基地となっていた喜界島はたちまち米艦載機の跳梁する所となった。庭の片隅に掘った簡易な防空壕の真上を機銃の弾着が駆け抜け地響きとともに敷地内に落ちた爆弾の黒煙が壕内に風圧を伴ってなだれ込む凄まじさに私たちは半壊した家を棄てて近くの横穴式墓地跡に逃げ込んだ。度肝を抜かれていた私たちには残っていた無縁仏の墓石もただの石でしかなかった。こうして昔の風葬後での穴居生活が始まった。米軍機が上空にいないわずかな隙を見ては水汲みに走り火を使い、夜になって畑に出るという生活であった。新聞もラジオもなく沖縄がどうなっているのか私たちには全く情報は伝わってこない。五月も半ばを過ぎた頃、島の守備隊長は全島民に対し中央高地の軍指定の壕に入るよう命令した。米軍の上陸が迫っているという(WEB master 註2)。暗闇であった。弟妹の手を引く父母を見失うまいと私は持てるだけの荷物を手にしてサトウキビ畑の広がる平地を横切り中央高地を支える斜面の森に入っていった。指定された壕は巨大な岩の下を掘り下げたもので岩の下敷きになりそうな感じがして怖かった。中は頭がつかえて立つこともできない。翌日から雨になった。粘土質の床はぬかるみ体を横にすることも座ることもままならない。ススキを刈ってきて厚く敷いて寝たが背中に水はじわりと伝わって来た。一日中することもなく、見晴らしのよい所に出て西海岸の方を見ていると低く垂れ込めた雲から米軍機が現れては私たちの村の辺りを爆撃して、また雲の中に入っていく。まさに高みの見物であった。私は島全体が私たちと同じ目に遭っていると思っていたが猛爆を受けているのは飛行場とその周辺の集落だったのである。
蝶の写真  当時、私は国民学校(小学校)高等科二年で一三歳であった。三月の終了式は実施できず四月になっても学校は開かれないまま二年生に進級していた。一級上の連中は高等科卒業ということで資格はどうなっていたか分からないが守備隊に徴用された。私たちは学校の授業もなく緊急配備下の軍隊にも動員されず親たちのように食べ物の心配もせず、島で一番自由な立場にあったのかも知れない。一三歳という子供の特権を利用して大人達の不安をよそに豪の周辺を遊び回っていた。
 その日は久しぶりに雨が上がった。私は三、四人の学童グループと早速行動範囲を広げて森の中の小道を上の方に登ってみた。やがて空が開けて平らなところに出た。そこで私たちは奇妙な人に出会ったのだ。その人は道端にしゃがんでいた。肩からまとった毛布の間から出ている異様に長い裸の脛が微かに震えていた。目には白い包帯が巻かれ、くすんだような銀髪が包帯の上に垂れていた。
 「アメリカやあらんな?」私たちの声にその人は見えない顔を上げ何かを言うように唇を動かしたが声にはならなかった。やがて私たちは兵隊に追い払われた。
蝶の写真  喜界島にはもう一人、トーマスという名の捕虜がいた。『雲流るる果てに(増補版)』に「聖書を抱きて」の遺書を残している本川譲治(慶大)が第一回出撃で喜界島に不時着した際トーマスに会っている。軍歴一年半、コロンビア大学出身の士官候補生と名乗ったという。  トーマスは間もなく斬首され、本川は五月一一日再出撃して特攻死した。私が山中で会ったあの人は噂にも上らなかった。記憶は薄れ「事実」は語らないことによって幻のように消えていった。
 しかし私は折にふれてはあの人の唇の動きを思い出した。英語を習い始めると「あなたは誰? どこから来たの?」という問いを英文で呟いてみたりした。
蝶の写真  時は流れた。一五年前、私は本屋で上坂冬子の『巣鴨プリズン一三号鉄扉』を手に取った。偶然開いたページに「喜界島事件で処刑された海軍大佐佐藤勇の遺族には遺書はもとより身辺雑記の一片すら届いていない」という記述があった。私は知らなかったが、ここで喜界島事件というのは捕虜斬首の件に違いない。
 私はBC級戦犯関係の資料を漁り始めた。求めている資料はなかなか見つからなかったが、一〇年ほど前古本屋で『戦犯裁判の実相』という本を見つけたのをきっかけに連絡した研究者からガリ版刷りの「横浜裁判一覧表」を入手した。喜界島事件は二件記載されていた。
 「昭和廿年四月頃喜界島にて米俘虜アーサー・エル・トーマス海軍少尉の処刑を故意かつ不法に命じ強制指揮し且許容せり。同年五月頃同島にてディビッド・シー・キンカンノン(米俘虜)を前記俘虜と同様処刑し、他のものはこれに参加せり」との起訴理由概要が記載され、前記佐藤氏の他、K大佐、Y大尉、T少尉が被告人となっている。佐藤氏とT少尉が絞首刑、他の二人は有期刑であった。外の一件の概要の記載は次の通りである。
   「昭和廿年五月頃喜界島に於て米俘虜ディビッド・キンカー
  ン中尉を斬首せる事に依り該俘虜を故意且不法に殺害せり」
 この件では佐藤氏が二〇年、M大尉が七年の有期刑であった。ディビッド・シー・キンカンノンとディビッド・キンカーン中尉は同一人物であろう。一九九五年一二月、私はアメリカの「情報の自由」法を使って喜界島事件の戦犯裁判記録を入手した。ダンボール箱で送られてきた英文の記録はまだ読んでいないが、ようやくあの人の名前を確認するところまで辿り着いた。
 David. C. Kincannon

蝶の写真  長い旅であった。いったい何のために? 私にもよく分からない。たぶん、米国から見れば所在も定かでない喜界島の山中で遥か故国の家族に思いを馳せながら死んでいったであろうあの人の墓標がずっと私の心の中に立っていたのだ。私があの人の墓標だった。
  『自由と正義』'96年11月号(日本弁護士連合会発行)の巻頭エッセーを転載

※追記
  佐藤氏は減刑されず、S二四年七月九日に死刑の執行を受けた。
 T少尉は死刑判決が確認されたままS二六年九月一日に元軍医大
 尉と共に最後の特別減刑で死刑執行を免れた。  (大倉忠夫)
WEB master 註1:本稿は「榕樹」第13号(1997年,東京)より転載した。
WEB master 註2:昭和20年05月、米軍が喜界島上陸を計画していた事実が最近明らかになっており、沖縄県公文館史料編集室の資料によると「予定日」は05月17日であったとされている。
WEB master 註3:写真は喜界島を北限とするオオゴマダラ蝶の成虫、および幼虫、さなぎ。