●高度成長期関西でアスベスト被ばく
Hさんは1943年生まれで、いわゆる「団塊の世代」の少し前の世代で、間違いなく日本の高度成長期を支えた一人である。
遠縁にあたる、大阪府豊中市の工務店に二十歳前に入社し、15年にわたって家屋の新築・解体作業に従事した。アスベストはそこでの断熱材や、コンクリートブロックに使われていた。当時は大阪府も飛躍的に経済成長を続けていた時期であり、多忙を極めた作業で、毎日のようにアスベストを使用していた。
1975年には同じく大阪府の茨木市にある事業所に移り、そこで大手ガラス工場・焼却場等で、防音・防火のためのアスベスト吹き付け作業等に従事した。遠くは長崎まで作業のために出張していた時期もあった。ここでの業務は3年間にわたり、通年で18年あまりアスベストにふれていたことになる。もちろん粉じん対策は十分ではなく、Hさんの肺はアスベストを含む粉じんにさらされ続けたわけである。
●新幹線工事に従事
また当時は、新幹線が開通した時代であり、夜間作業で防音のためにアスベスト建材を使用した作業が続いていた。そこに従事したHさんは、まさに「日本の動脈」といわれた新幹線を舞台裏で支えた一人であり、それは騒音・振動対策に奔走した新幹線の暗い歴史の、さらにふかく暗い一面であった。
その後、Hさんは地元鹿児島に帰り、造園業・石材加工業に従事した後、近年は地元・郡山町の公共施設管理公社に勤め、安定した生活を営んでいた。
●2002年春、発症
結婚し、二人の子どもにも恵まれたHさんを2002年の8月に病魔が襲った。診断は気管支動脈瘤破裂。幸いにもその月のうちに退院できたが、同じ年の10月に再び入院、1ヶ月後に退院。しかし数年前から顕著になってきた身体の変化は明らかで、「痩せてきたね」と、妻のS子さんもつい声をかけるほどだった。
そして、体調不良から再び翌年2003年の2月に入院。診断が出たのが3月半ば、病名は「悪性胸膜中皮腫」。聞いたこともない病名だったが、予後不良であることを医師から聞いた。S子さんは「夫は芯が強い人だから……」との想いから病名を知らせるつもりだったが、娘二人の強い反対で、隠し通すことに決め、夫の治療の手助けを始めた。
様々な健康食品を試し、少しでも効果があれば飲み続けた。Hさんは医師からは「胸膜炎」という偽りの診断を聞かされていたが、自分の身体の変化にはうすうす勘づいていたようで「おかしい、おかしい」とつぶやきながら、治療を続けていたという。
●ホットラインを通じて、労災申請へ
2003年9月25日、S子さんは東京安全センターの「中皮腫ホットライン」を知り、名取雄司医師と今後の対応について話し合った。ホスピスの利用、そして労災手続きを進めることをその場で決め、名取医師は地元の支援機関として鹿児島安全センター準備会を紹介した。
鹿児島の安全センターは、ただちに連絡を取り、当時、一緒に勤めていた弟さんとの面談も含めた対応をおこなった。また、当該の労基署が大阪府となるため、関西安全センターに連絡を取り、事業所面談、直接の監督署手続きを含めた対応をお願いした。
しかし、「中皮腫ホットライン」への連絡からわずか10日後の10月5日、Hさんは旅行先の日赤病院で帰らぬ人となった。親戚の結婚式に出席するために退院し、無理を押しての旅行であった。
「思えば、夫はこれが最後の旅行であるとわかっていたのかも知れません。だからどうしても行きたかったのではないでしょうか……」とS子さんは語っている。
病院へのCT・レントゲン写真、カルテの請求は地域柄(保守的・閉鎖的なので)困難も予想されたが、すんなりと提出していただけた。担当の医師が病院を変わっていたので、それを理由に手続きが遅れたことの方がよほどの障害であった。
(「鹿児島安全センター情報」準備号第13号 2004.12.10より)