書きょうたんじゃが あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

『全有人島コラム63島々清(かい)しゃ』

1993年11月10日発行
編集者まぶい組
発行所ボーダーインク


奄美大島『姉妹の縁を結ぶドライブ』(森本眞一郎)

「今度は海から船での往来を」
「オーライ!近いうちにぜひ一緒に鹿児島まで北進してみましょう。あまみ(八有人島)・沖縄(四七有人島)のやわらかい文化の風で、とりあえず四百年分のおみやげをプレゼントにいきましょう」
同業の友人照屋全芳との空港での別れのあいさつだ。
おきなわの風とあまみの風が合流すると民放ではこんな風になったりするというほんの一例を。

奄美大島(以下大島)は那覇からだとほぼ宮古島の距離だ。海上の道を右に伊江島、左に伊是名島と伊平屋島を確認し、与論島、沖永良部島、徳之島の三島に寄港しながら、黒潮にのって北上してくる沖縄の客はまれびとで、広大なリーフに出現した奄美海上空港に一時間で降臨してくる多忙な神々ばかりだ。

空港の背後には大島の創世神アマミキヨが降臨した(といわれている)アマンデ―というグスク(城)がひかえていたりする。グスクの発生と背景については諸説あるので断定はできないが、日本の中世の戦国時代という背景と、製鉄・築城・製陶・その他の技術をもった渡来集団の存在は無視できないだろう。グスク時代を契機に琉球弧は大きな転換期を迎え、やがて東(南)アジアの歴史の舞台へと雄飛していくことになる。今、アマンデ―の頂上には防衛庁のレーダーが「いべ(拝ン所)」のかわりに鎮座して内外のチェックに余念がない。

波のむこうに喜界島の百之台がうかんでいる。空港のある北部の笠利町と龍郷町は農業と大島紬のシマ(集落)だが、一面に広がるウギ(黍)畑をみて、
「大島の人はなんごて農業をせんとかね、もったいなかなあ、ススキであれちょるが!」といって馬鹿うけしたのは馬ならぬ鹿児島の友人田畑満家。
「ススキの穂がすっごくきれい!」これは東京からきた吉田信子Sだったか。
「南部あたりによくにてるさー、ウージ(黍)とハブのにおいがするさーねー」おきなわびとはさすがにいうことがちがう。

以下おきなわびとたちとの道ゆきから。

山羊島トンネルをぬけると、湾にうかんで停泊しているような名瀬市街がひらけてくる。
「おっとー石垣っぽいねー」
「名護にもにてるさー、プロ野球のキャンプ地はなかったかねー」
「人口は?」
「名瀬が四万五千人で大島が七万五千人ぐらいです」
「やっぱり、石垣や名護にちかいさー」。

一休みして南部へ。名瀬の町なみをぬけ、そのままずっと太平洋ぞいに道を進めていると
「あきさみよー、くれー山原やいびーん」。
大島の中南部の風景は確かに山原や西表島のふんいきにおおわれている。それにはちゃんとわけがあって、黒潮本流が東シナ海から太平洋へ大きく右回する大島の北のトカラ列島のあたりは植物の東南アジア区系と動物の東洋区の北限地帯になる。南島とか南西諸島とよばれるあまみ、おきなわは、生物の地理区分でいえば、逆に、東南アジア区系の北島であり、東洋区の東北諸島というのが正確になる。どおりで常夏という割にはニシ(北風)がふけば寒いのだ。

また、あまみ、おきなわは、アジア大陸と最も早く分離したのでヤポネシア最古の貴重な動物たちが多く残存しているところ。両者に共通する固有の植物は五〇あまり、大島の固有種だけでも三〇はある。地球上で大島にしかいない動物の中には現在日本絶滅危機動物にあげられているのも多い。アマミノクロウサギ、アマミトゲネズミ、アマミヤマシギ、ルリカケス、アカヒゲ、オオトラツグミ、オーストンオオアカゲラ、オットンガエル、リュウキュウアユ、アカホシゴマダラ、アマミルリモトンボ……。

「こんなに工事や伐採が多いのによく生きていけるもんさー」
「山原や西表より森が相当深そうではあるさー」。
住用村の神屋国有林とともに森全体が天然記念物に指定されている湯湾嶽(あまみ最高峰六九四・四m・別名アマンデ―という聖地)を遠くに拝みながら、
「今走っているこの道は国道五八号線ですよ」
「沖縄島のルート五八?」
「オーイエー!鹿児島市に明治政府の立役者の西郷隆盛の銅像がありますね、その前からスタートして鹿児島港へ行き、種ヶ島とこの大島に上陸します。そして、沖縄島の国頭の奥部落まで一気に飛んで那覇の国場川の明治橋にいたるのです」
「あっさー、明治の琉球処分というか、薩摩の琉球侵攻といおうか、これはイミシンな道であるわけさー」。

そのイミシン五八号の大島の終点地古仁屋は、加計呂麻島、請島、与路島などを結ぶ港町。加計呂麻島との間の瀬戸内海峡は天然の良港で、天候不良時には多国籍の船群が集散するが、戦時中は旧日本海軍のかくれた基地でもあった。たとえば、手安部落には住民すら知らなかったという弾薬庫跡が現在公開されているが、「その規模と構造は日本で最もすぐれた施設である」と案内板に平気でしるされていたりする。
「森本さん!この弾薬庫はまだ生きてるさー、大島の戦後はおわってないということさー」壕の奥で詩人の高良勉が神ダーリーした。

空港までもどる人のために今度は東シナ海ぞいに北上しよう。大島のシマジマは海ぞいに展開しているので、一周すると大半のシマを一応儀礼的に通過することにはなる。瀬戸内町、宇検村の養殖場のおおい入江をすぎると大和村。ヘアピンカーブの峠をいくつかこすと、谷間によりそうように川から浜へひろがっている三角形のちいさなシマがやっと一つ顔を現す。完結されたシマ宇宙。陸(おか)より海の道の方が早かったことを実感させてくれる。

武下和平などのシマ唄をききながら,
「大島のウタは体の芯をえぐられるというか、マブイ(魂)がぬけていくみたいにチムグルシーサー」
「大島とおきなわは基層は同じさー、歴史がちょっとずれたのさー」
「琉球を支配する口実にアマミをとってしまった薩摩の琉球侵攻。チョ―デー(兄弟)の縁がきれたのはそのころからさー」
「権力争いの兄弟というよりは、ウナリ神のシマジマですから、姉妹の縁でしょうね。今年おきなわは復帰から二十一年で、あまみは四十年です。琉球処分から一一四年、薩摩の琉球侵攻から三八四年、大島が琉球の支配下にはいった琉球の大島征伐を一四四一年(『李朝実録』)と仮定したら五五二年になります。大島とおきなわにはグスク時代以前は統一権力がなかったわけで、ずーっとゆるやかなウナリ島の関係がつづいていたはずです。たとえばあまみの人骨や土器は今のところ最古のものが一万年前、沖縄島の湊川人骨が一万八千年前となっていますから、シャーマンの姉妹の時代の方がはるかに長いのです。だからそう簡単には縁はきれないでしょう」。

というあたりで空港にすべりこみ、二階の売店で神酒(ミキ)を調達して別れの盃を。
「ところで同業のゼンポーさん、鹿児島にはあれだけの市場がありながら、古本屋(文化のバロメーター)がほとんどありません。どうします?」

(Morisin)

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