店主のつぶやき あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

琉球新報:落ち穂(H3.8)

 『奄美人侵攻』

 奄美・沖縄・あるいは琉球弧のアイデンティティーを模索していくと、ややもすると復帰のことから遡って、琉球処分、薩摩の侵攻、古琉球…・・・あたりまで降りてきて停滞しがちだ。

 沖縄の人々が「古琉球」と言う時代を、奄美の人々は「那覇ン世」、さらにその前を「アマン世」、さらに以前を「クバン葉世」と伝承している。私たちが琉球弧を語るとき、シマ島の多様な固有性をないがしろにしてはいけないと思う。

 琉球弧の北部に位置する奄美では、一六一一年の薩摩による「奄美処分」のあと、一七〇六年には島津藩による古文書・系図等の没収焼却という奄美の歴史を消し去る大蛮行があり、以来私たちは自らの古記録を探る一切のてがかりをうしなってしまった。ところが、幸いにも琉球・中国・朝鮮・日本などの古典から祖先のよすがを偲べる。

 九九七年奄美人が壱岐・対馬、肥前に侵入し、三百人を連れ去った。昨年は四百人奪われた。(『小右記』)。
 南蛮人(奄美人)四十人を打ち捕る。(『小右記』『権記』『日本記略』。)
 九九八年大宰府・貴駕島に命じ南蛮を捕えさせる。(『日本記略』)
 九九八年大宰府・南蛮の賊を追討中と報告する。(『日本記略』)
 一〇二〇年薩摩に南蛮賊が侵攻、人民を掠める。(『左経記』)
 一一四五年南蛮人が悪風を放つ(『台記』)

 これらの引用は『古代・中世奄美史料』(松田清編)という本の目次からの一部だが、その他の記録にもすこぶる興味深いものがある。

 私たちはそれぞれのシマの時間軸を、もう少し遡って検証しなおしてもいいのではなかろうか。

 ヤマトゥ、アメリカ、薩摩、琉球王府などの権力からシマジマが自立していた長い世界について、相互に情報を交換しあい、通底しあう基層の具体的確認がもっと住民レベルであってもいい。

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