店主のつぶやき あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

南日本新聞:南点(H11.9.6)

内政干渉

 明治維新の原動力だった薩摩藩。なかでも西郷隆盛と勝海舟による「江戸城あけわたし」は、維新の華だ。その背景にあったものを、一九七七年発行の古本で今ごろ読んで、日本の現状を考えさせられている。

 あいかわらずの「井の中のアマミノカワズ」だが、ご寛容のほどを。

 一八六八年の江戸開城の年には、農民一揆・都市騒じょうなどが一一三件、幕長戦争があった二年前には一四一件も発生している。これ以上の内乱の拡大と疲弊、「官・賊」双方の消耗は、英仏など列強の干渉をつよめる可能性があった。
 実際、江戸総攻撃の中止をきめた三月十四日の西郷・勝会談の前日にはつよい干渉がはいったという。

 芝原拓自著の「世界史のなかの明治維新」には、「西郷が徳川氏処分についての一定の妥協と攻撃中止にふみきった直接の契機にイギリス公使パークスからの圧力があったことはあまり知られていない」とある。

 三月十三日、内戦を懸念したパークスは、西郷の使者に、新政府は居留地の安全にも関わる戦闘を準備しながら、外国に正式通告さえしていない無政府の国だときめつけた。また、ひとたび恭順し、降伏した者を追討し処刑するのは、「万国公法ノ道理」に反すると警告したという。
 西郷は結局、イギリスの駐留軍や外交的干渉の増大をおそれざるをえなかったのである。しかも西郷は、帰京して協議後、横浜でパークスと会見し、処分方針の同意を求めている。これはまったく、内政問題に関する外国側への“事前通告”と外国による“事前承認”にほかならないが、このような内政干渉がまかりとおったのである。

 西郷はのちに、外国からの屈辱をそそぎ、対外的に条理を正すことこそ倒幕と新国家の基本目標ではなかったか、という論理で対外策の「征韓」をせまっていく。

 あれから百三十年後の「独立国」日本。アメリカ軍への「思いやり予算」「自治体の協力」などの屈辱的外交を、西郷はどう見ているのだろうか。

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