店主のつぶやき あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

南日本新聞:南点(H11.7.26)

道の島

  柳田國男が日本の基層文化のルートとした「海上の道」、その道とは 南島・琉球弧・南西諸島と同義である。
 でも、「道の島」と呼ぶのは 奄美の島々だけだ。

 なぜだろうか。

 文献では、一六〇九年に琉球王国を侵略し、奄美の有人八島を直轄領と した島津軍は、幕府へ「琉球之大嶋」と報告している。検地後の一六 二四年には「琉球道乃島」、一六四五年の覚書では「琉球」が消され、 失礼にも「道之島之荒地」である。

 なぜ失礼か。

 たとえば天文学的バブル藩主の島津重豪。
 彼はテクノクラートの調所 笑左衛門に命じて、「道之島の黒糖地獄」を大黒柱に、財政「改革」 を「大成功」に導いた功で後世に名を遺せた。
 続くマルチタレントの島津斉彬。彼はニセ金作りのほか、調所の「大島三島」での「総買入 れ制」(黒糖奴隷制)をさらに沖永良部島・与論島にまで拡大強化し た。死後は破格の従一位で神となれた。
 ぼっけもんのドン西郷。「雄 藩」出身の彼も「名君」ぞろいの植民地経営策を踏襲した。砂糖が 「自由売買」となった明治期にも、あこぎな「大島商社」や「石代金納許可」などを自ら画策して、奄美のドル箱を不当に独占した。「敬天愛人」のドン(グリ眼)もまた、「道の島」に生きる人々の塗炭の苦しみなどには目を閉じたのである。

 薩摩藩から見て、沖縄島への海の一里塚でしかなかった「道の島」。
 沖縄島からはるか先に連なる宮古・八重山は、島津の琉球入りを境に人頭税に苦しむ「両先島」と命名された。
 「道と先」はセットだから、まさに地名は歴史の化石である。

 さて、異質な風土や文化とあるがままに共生できない多くのヤマトゥ 民族たち。
 これに抵抗してきた北の先(原)住民族の土地を「陸奥」 (みちのく)、南の隼人の地を「奥三州」と呼ぶのと同じ視線 が、南島の「道」や「先」の島々にも貫かれている。

 これは「新大陸」 を「発見」後、ネイティヴたちを抹殺していった白人たちと同質のま なざしだ。
 侵略と植民を国是としてきた日米の「雄国」が、「新ガイドライン」 で手を組んだ。新たな世界戦略が始まっている。

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