書きょうたんじゃが あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

キョラ四号(H11.1.17)

バックトゥザフューチャー(序論) 5

 では、いったいどうしたらいいのだろうか。

そのためには、「奄美」と「日本」との関係をもう少し原点にもどってとらえなおすことが必要かもしれない。

一六〇九年の旧暦三月八日は、薩摩軍が琉球侵略で南下する途次、奄美大島の笠利町津代(つしろ)で最初の大きな戦闘があった日だ。奄美と薩摩の、そして琉球と大和との関係が、永い有史以来の対等な関係から、主/従と支配/被支配の関係になった始まりの日でもある。くり返しになるが、琉球からの奄美分割を画策していた薩摩藩は、与論島以北の有人八島の奄美諸島をこのとき琉球国から分断し、ここを直轄の内国植民地として経営してきた。こうして薩摩藩が、琉球貿易とともに「南島」の植民地経営で蓄積してきた富とノウハウは、倒幕の軍資金に化けただけではなく、その後の「大日本帝国」の大東亜植民地での経営策にも十二分に活かされていったのである。
その意味で奄美の人たちは、「日本」列島社会の中の、縄文人の末裔や、アイヌや沖縄の周縁部の人たちとも屈辱の歴史を共有していると言える。まだ(九八・十一・二十二現在)読みかけの段階ではあるが、『日本人の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動までー』(小熊英二著・新曜社)という大著が対象としている人々の揺らぎとも通底しているだろう。しかし本書でも、「日本人」の「境界」を語るときに、歴史的に重要な意味をもつ奄美の位置というものが欠落している。奄美(人)のかかえる揺らぎというものは、「対日本(人)」という二項的な境界だけからくるものではない。内国植民地として現在にまでいたっている奄美人の四百年に及ぶ歴史の深みがはらんでいるのは、「奄美人」・「鹿児島県人」・「南西諸島人」・「琉球(文化圏」人」・「日本人」という三重四重の多重境界からの揺らぎである。いわば、ひと筋縄ではくくりきれない境界たちと共存しているのである。

その一六〇九年の歴史的な日から、世紀末の今年は三百九十年目にあたる。

昨年の旧暦三月七日。
くさむした津代の戦闘跡で、ついに、奄美人の埋葬地跡を確認できたぼくたち奄美在住者は、あたりの清掃をしてあつく祖先たちのご冥福をお祈りした。これからは、毎年ここで慰霊祭を開くことも盟約した。十年後のきたる二〇〇九年の四百周年には、祖先たちの盛大な鎮魂の祭りを開いて子々孫々につないでいくつもりだ。
おもえば、奄美の歴史と文化は、約四百年間、島津藩や「日本国」によってゆがめられながらも、各シマ島で、ガジュマルのように枯れずに根を張り続けてきた。しかし、戦後、それも特に「祖国日本」に復帰してからというもの、「本土並み」をスローガンにした「復興」・「振興」という開発事業策によって、自然や人心を含めたシマ社会がそれこそ「本土並み」に根こそぎ解体されつつある。
 「こんなはずではなかった、このままではシマの再生が危ない」という危機的なシマからの情念と焦燥が、人々を出版や芸能や環境問題へと駆り立ててきているのかもしれない。それは、やがて博物館行きになろうとしている瀕死のシマのマブリ(霊魂)たちが、シマの根っこのところから必死のサインを送っているサイレンなのかもしれない。

 それでは、これ以上シマ社会が崩壊するのをストップし、自立して持続可能な本来の「奄美なみ」の社会を再構築するにはどうしたらいいのだろうか。

 政治家やお役人たちの振興開発論は、いつまでたっても、親方日の丸のヒモツキ経済振興策ばかりで、奄美のことを思って汗と金を流しているとはとうてい思えない。なぜなら、磯の浜辺のアダンやアマンたちも一様に批判しているからだ。
 ぼくは、「南方文化」なる奄美・沖縄圏は、いつまでも「日本人」のためのの源郷(=祖国?)やミッシングリンク(補完物)として位置付けられた上で、結局は、歴史的に軍事や資源の面で植民地的に利用されてきた(ている)関係からいつかは脱却したほうがいいと考えている。
できれば、「奄美・沖縄社会」は歴史のふりだしにもどって、東アジアの対等な自治区として国際法上の関係を結ぶことがベストだと考える。そう、自治権の分離独立である。実現までには、相当の時間はかかるだろう。まずは内外での将来理念の議論と合意形成だ。
なに、四〜五百年かかったっていいではないか。時間軸でみたら、そのくらい向こう側にこそ、祖国と呼んで復帰するに値するぼくたちのアマンユというシマ島のおクニはあったのだから。

奄美の自治権の分離独立ということは、現実的な運用面では、それほどとっぴで困難なことではないとぼくには思われる。

というのは、今からわずか五十年ほど前の、日米の取引によって奄美が日本政府から行政分離させられていた(一九四五年〜一九五三年)、奄美の米軍政府時代にさかのぼってみるだけでも参考になるからだ。
当時は、奄美在住者だけによる「奄美群島政府」の「知事」の公選もあったし、「政府」を運営する公職の人たちも、警察を始めとして全員が自前の「奄美人」だったという経験と実績を、奄美人も沖縄人とともに共有しているからだ。当時、奄美に本籍のない「寄留民」たちは「本土」(大半が鹿児島)へ「帰還」していたし、「外地」の奄美に入るのには、外国並みのパスポートも必要だった。

当時の奄美は、米軍政府という「異民族」の傘下にあって憲法こそ存在しなかったが、いわば、擬似的な「同民族」の自治区を奄美の人々自身の手で運営していた。

確かに、沖縄島と違って基地経済というものがなく、経済的には貧苦のどん底にあったが、食べていくためには密貿易が盛んになり、奄美人本来の航海民族としての血も蘇っていた。どこのシマ島の畑も山のてっぺんまで開墾され、自給自足が原則だった。
 「日本」の敗戦から半年後にはGHQの指令により、「内地」・「日本本土」に居住していた北緯三十度以南のトカラ・奄美・沖縄に本籍を有する「南西諸島人」たちは、「朝鮮人」・「中国人」・「台湾人」とともに、「非日本人」・「外国人」として「それぞれの本国」に強制送還させられていた(本誌二号の高木伸夫氏「一九四六年『非日本人』調査と奄美連盟・南西諸島連盟」論文参照)。
 「日本」政府としては、「日本人」の食糧の確保と治安維持のための強制送還だったらしいが、(おかげで)奄美の人口は二十余万人(現在十三万余人=一八八九年ころの人口)にもふくれあがって、シマ島は人的にも思わぬ活況を呈していた。その結果、「政府」の運営を始めとして、民間でも文芸、新民謡、劇団、青年団活動、食糧の自給など、まさに奄美人自身による奄美人のための赤土文化というルネッサンスが開花していたのだった。

古来、奄美・沖縄のシマ島が「琉球王国」以前にはそうやってきたであろう、「シマッチュの自治による島連合」という基本的な理念が誤っていなかったら、自治権の分離独立に伴う経済や外交その他の副次的な問題がなんとかなることは、地球に存在している多数の「小国寡民」が証明してくれている。世界には、「なんと驚いたことには」と「日本」のマスコミから形容されようが、自らのライフスタイルをあまり変えようとはしない誇り高い自治区はいくらでも存在しているからだ。

 奄美という地域は、世界の生物地理学上の「東洋区」(動物)と「東南アジア区系」(植物)の北限として貴重な固有の生物の宝庫である。文化的にもアジアの古形をとどめた民俗文化が今でもシマ島の自然なくらしの中に生きている。「島全体が博物館・生きた化石」と評されるゆえんだ。奄美を「東洋のガラパゴス」と称する西洋的な借り物の発想よりは、「アマミ・ミュウジアム・アイランズ」として、奄美それ自体の存在を世界にアピールするだけの資源と素地はすでに十二分に準備されている。それをどうやって創造的にリレーしていくのかが、奄美にかかわるぼくたちの現実と未来への楽しい宿題ではなかろうか。
とは言うものの、今ではシマ島全体が「絶滅危惧地区」になってしまいそうな奄美の現状がある。シマ島固有の自然とくらしが、世界の宗主国アメリカ(人)とその植民地に甘んじている「日本(人)」の富を蓄積させるために、これ以上食いつぶされることをやめるためにはどうしたらいいのだろう。

ぼくたちは奄美の未来をどこへ向けて歩みだしたらいいのだろうか。

シマ島に先住してきた自然の精霊たちと、ウヤフジ(先祖)たちのふところに抱かれながら、豊饒なシマ宇宙で生きていけることを何よ
りも無心に感謝したい。
それぞれのシマ島に季節ごとに訪れてくる、「ネリヤ・カナヤ」(楽土)からの果報をいただきながら、ハナジマ・ウタジマのアマンユを
 咲かしつづけたい。
そのためのやり方をみんなでもっと話し合い、具体的に動いていきたい。
本来、奄美のシマ島はどこも予祝されているシマ島だから、未来へ向けてそこへ戻ればいい。
 それぞれがしたいこと、できることをそれぞれのところでやっていければいい。
ただそれだけのことだ、と視点をかえて、いつの日か、奄美の未来会議でも開けばいい。
奄美にかかわる世界のみんなが、その行く末についての具体的なことをインターネットなどで情報交換しあえばいい。
そして、未来の奄美のありかたを定めて、奄美世(アマンユ)のあらゆる関係者たちの間で住民投票でもすればいい。
 そこから、「日本」や「世界」のみんなと対等につながっていければいい。
 宇宙のヘソもはしっこも本当はそれぞれのシマ島だからだ。
アマミアン・バック・トゥ・ザ・フューチャー!
毎年、三月七日(旧暦)に会いましょう。
なぁうんぶんだりょっくゎ。
神戸ぬしまっちゅんきゃぁ、あんかっき、どぅくさしぃ、いもりんしょれぃよう。
うれぃどぅ、ぬぅゆりぬ、宝だりょっとぅ。
尊ぅがなし。



                              
  

(森本眞一郎)

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