書きょうたんじゃが あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

キョラ四号(H11.1.17)

バックトゥザフューチャー(序論) bS

  それでは、神戸のことから原点の奄美にもどり、奄美の今と未来をぼくなりに考えてみたい。

一昨年の夏に店の引っ越しをした。

 大島紬の仕事から一挙に盤面をかえて、奄美で古本屋をいとなみはじめてそろそろ十年になる。動かぬ背表紙を眺めつづけて十年目、だ。
 家賃の安い二階に上がって少し広くなったので、これまでの「琉球弧コーナー」を「奄美」と「沖縄」の両コーナーに分設してみた。「琉球弧」 ・「ヤポネシア」なる概念を、発祥の地の奄美で再検証しようと考えているからかもしれない。
 すると店の顔が変わってきた。これまでは、「日本」一の出版王国(九州全県分に匹敵)の沖縄本たちに包囲されて萎縮していた少数派の奄美本たちが、にわかに水を得たかのように増殖してきたのだ。奄美四、沖縄二、アイヌとアジアと太平洋で一、鹿児島一、「大和」二。これは、店に常設している「郷土誌&歴史」コーナーの棚割の現在点での構成比だ。

「奄美関係の本も意外とあるねぇ」
 郷土誌コーナー から聞こえてくる。

 今では、沖縄本よりも勢力を伸ばしてきた、わが奄美本たちの背表紙を眺め続けるのが日常になった。奄美の実際の総出版点数は沖縄の足元におよびもしないのだが、沖縄本は奄美ではあまり動かないので仕入れをひかえているからだ。沖縄でも奄美本の状況は同様らしい。四百年という歴史の分断が、琉球孤という共同概念に人為的な「与論構造海峡(?)」なるものをつくってしまったのだろうか。あるいは、本来からあった両者の差異の味わいというものが、四百年もかけて熟成された現象なのだろうか。ともあれ、琉球孤論を再検証するのに、奄美という位置はやはり重要で有効な場所のように思われる。ヤポネシア論も、その検証のプロセスなしには再構成しにくいのではないのだろうか。
 そのうち詳しいデーターをだして分析してみたいと考えているのが、人口比にした場合の両者の発行点数だ。沖縄の一割くらいの十三万人余の奄美は、もしかすると、長寿者の人口比などと同じように、沖縄を上回って出版点数でも「日本」一(長寿では「世界」一)になるのではないかと自負している。
 奄美関連本の著者たちも、島外関係者は少数派のほうで、奄美在住者か出身者が多数派になっている。地味でマイナーな地域に思われがちな奄美だが、結構、自らの地域に根づいて研究し、内外へ発信しつづけているのである。大半の奄美本は島内自給用で小部数だから、「本土」の流通ルートにもあまりのらない。大きな沖縄のかげにあって、奄美はそれほど知られていないだけだが、そこがまた奄美の自然やくらしの純粋培養をはぐくんできたのだろう。

ではどうして、奄美の地域の人たちによる表現と発信が、最近さかんになってきたのだろうか。
 管見ではあるが、百年一日のように、「日本(人)」の側から「奄美」や「南西諸島」のあり方に向けられる、次のような変わらぬ視点に対する疑念と、それらからの脱却という問題意識が個々のレベルで試みられてきているからではなかろうか。それは、「奄美は奄美である」という自己主張である。

「南方文化のあり方には、もともと日本にあったものが残る。原郷のような懐かしさを含め、今を考えたい」(大橋愛由等氏談・前記朝日新聞・大阪版)

 前述した司馬遼太郎氏もそうであったが、このような「南方文化」に対するまなざしは、沖之永良部島にいる前利 潔氏が、本誌三号で「奄美人とは」と題した文中にも登場してくる古典的な南島論である。前利氏は、「奄美人のまま日本人になること、それが必要である」という。そのためには、民俗学者の赤坂憲雄氏の「(柳田・折口以来の)南島論は遠い古代に分かれた同朋が棲む、日本文化の源流であるとする、この南島論の命脈が尽きたことを、静かに確認し、『ひとつの日本』から『いくつもの日本』へと思考を展開する」ことを紹介したうえで、前利氏は、「中央集権的な日本という国家を解体すること。各地域の歴史と民俗、言語を持つ多様な人々の集合体の日本という認識を獲得することが必要ではないか」と結んでいる。

 ぼくはそのことに関連して、さらにつっこんで、「奄美人のまま奄美人になること、それが一番重要である」ということを問題提起してみたい。

奄美諸島は、先述したように琉球文化圏であり、琉球王朝の支配下にあった。それが、薩摩藩の琉球侵略(一六〇九年)以来、分断統治されてきた。藩政初期には、薩摩から沖縄島へ渡海するときの海の一里塚というほどの意味で「琉球の道の島」とよばれる島々にすぎなかった。沖縄島からもっと先にある宮古・八重山諸島が、この頃から「琉球の先島あるいは両先島」と呼称され始めたのとちょうど機を一にしている。薩摩藩の琉球支配の大きな目的が、琉球(首里)王国の対中貿易からのアガリにあったことが、周辺離島への差別的な呼びかたの中に現在でも刻印されて残っている。

しかし、やがて、奄美諸島は、薩摩藩が南海の黒いダイヤを産出するためになくてはならない宝の島々に変貌していく。

薩摩藩は琉球と奄美を、「リキジン」(琉球人)と「土人」あるいは「シマンシィ」(大島の衆)に区別して南島を経営してきた。われわれ奄美の祖先たちは、「琉球国の内」なる地域として地図や公文書には規定されながらも、内実は、「薩摩藩の直轄地」の「黒糖植民地」として一木一草にいたるまで支配されてしまった。いわば、薩琉両属でありながらも、その実態は、琉球人でも大和人でもなく、薩摩士族たちの懐を肥やすための(無国籍ともいえる)宙ぶらりんの島々の人として、近世を黒糖地獄の中でひたすら生きのびてきたのである。
この約二・五世紀の間に、いまでは心情的に沖縄人でも鹿児島(やまと)人でもない、オリジナルな「奄美人」としてのアイデンティティーが形成されていった、とぼくは考えている。このことは、のちの近・現代の世に生まれてきた奄美の人々の中にも受け継がれてきた、とぼくには思えてならない。もちろん出身者全員がそうではないだろうが、少なくとも奄美の歴史のブラックホールともいうべき、近世のこの無国籍時代をしっかりおさえていないと、ぼくのこれからの問題提起もそれこそ宙に浮いてしまうからだ。

一八六九年(明治二年)三月、伊藤仙太夫という在番(代官)による「藩治職制の制定」という鹿児島藩からの一方的な告示があった。
この告示によって、これまでの代官所が在番所という全国的な名称に変わったのだが、しかし重要なことは、奄美はこのとき以降、薩摩藩の蔵入地から、公式に鹿児島藩の領土となってしまったのである。そして、一八七一年七月の「廃藩置県」によって、「奄美人」は「鹿児島県」の中の「日本人」として歩みだすことになったのである。
 ところが、近代化のための明治時代になっても、その子孫たちを待ちうけていたのはあいも変わらぬ鹿児島からの黒糖収奪だった。
くわえて、鹿児島県は大島郡区だけを、「大島経済(予算)」と称して特別制度をつくり、「内地経済(予算)」から分離独立させながらも、行政、自治権だけは本庁がしっかり管轄していた。
大島郡区の財政は1887(明治21)年からなんと1940(昭和15)年にいたる半世紀以上の間を県予算のカヤの外でくらしていたのだった。(吉田慶喜著・『奄美における明治地方自治制の成立過程』参照)
「大島郡の経済を内地と分離し、奄美5島は特に国の保護を請願する」と決議された、
日本国内でも唯一といっていい奄美地方の分離独立予算制度がもつ意味は非常に大きいものがあった。
それによって奄美の経済発展は阻害され、行政、自治における自主性、自立性を失わせてしまい、中央志向とお上崇拝を強めた。「藩政時代には支配搾取を、つまり農奴的扱いを、明治時代以降は無関心と無策、つまり継子(ままこ)的扱いが、(鹿児島)県民の奄美(大島郡)に対する認識を欠如させ、郡民の県に対する不信と失望の念を抱かせることになった」
「独立予算制度を採りながらも予算審議は県議会で行われ、したがって奄美独自の産業政策や住民の要求に沿った計画が作られなかった。」
(皆村武一著・『奄美近代経済社会論』より)
鹿児島県人にとっては、明治から大正・昭和と変遷しても、奄美諸島はいつまでも「外地」(植民地)という認識しかなかったのだろう。

こうして奄美の人たちが、歴史的には初めて、「内地」という「日本」社会の枠組みの中で「日本人」として生きていくことになったとき、それぞれの精神のよりどころを、それまでの「自分とシマ(生育した集落)と島」との関係から、「シマ社会」対「日本(内地)社会」との関係に移行せざるをえなかった。
奄美の「日本」復帰後、十三年目の一九六六年に奄美を出て「内地」に向かったぼくのころもそうだったが、明治の近代以降にシマ島から糧を求めて旅にでた人々も、「自分」対「日本」との関係は強く意識させられ、同時にシマ島の意識もさらに強く喚起させられただろう。その意識は「自分のシマ社会」対「彼らの日本社会」の関係に収れんされていき、それぞれのうちなるシマ島の中でいつまでも発光してやむことがない。その光はおそらく、島でいうマブリ(目守り・霊魂)のような概念なのかもしれない。
そこで、まず奄美出身の明治の知識人たちが、「学問どぉ!」精神を鼓舞したあとに、「奄美人」の精神の中和剤として音頭取りをしたのが、「日奄同祖論」だった。それにかぶさるようにして同化のための「皇民化教育」がやってきた。戦前にはどこの誰よりも「日本人」になることを唯一の目標として「徹底的に」教育された結果、「方言の撲滅」やさまざまな伝統文化が禁止されたり、「カトリック教徒の弾圧」をするなど、同朋同士で排撃しあうという哀しい環境におかれてしまった。

 ところが敗戦となるや、「日本」は、奄美・沖縄の地域をなんの痛みをともなうことなく、一方的にアメリカに売り渡してしまった。「日本国(民)」はその代償として、敗戦後の独立と安全平和と奇跡の繁栄が保証されたのである。

そうやって「日本」の都合で切り売りされてきた「奄美・沖縄人」だが、その間の軍政府時代に燃焼してきた「民族自決」の「祖国」「日本」復帰運動は、結局は戦前の「同祖論的民族主義」を基盤にした「国民国家」の延長線上でおし進められてしまった。まだその時点では、日米両国を対象化し,それと対峙できるだけの、つまり、奄美人が奄美人として自立するための思想的基盤が成立していなかったといえる。
一九九七年に、香港人が不安ながらも「中華人民共和国」に「祖国復帰」を選択したのは、異民族の大英帝国から自立するために、経済体制は違うけれども漢民族のアイデンティティーとしての「中華」復帰だったのかもしれない。
しかし、「クニ」というレヴェルで議論するのなら、一九五三年に「奄美人」が本来復帰するべき遥かなる「祖先の国」とは、奄美のリーダーたちが好んで使ってきた「祖国日本」(ヤマトゥッチュヌヤマトゥンユ)でも、「親国沖縄」(ナハッチュヌナハンユ)でもなく、その版図に組みこまれる前の、今からわずか五百年ほど前まで太古のカミヨから存続してきた「奄美のシマ島の世」(アマンユ)だったのではなかろうか。コロンブスが先住モンゴロイドの「新大陸」を「発見」してのりこんできたころ、琉球王国もまた武力でもって、宮古・八重山や奄美の島々に版図を広げつつあったのだが、ちょうどそのころの世界へである。

じゃあ、そこへ向かうための理念はどうあるべきなのか、手順としてどういう方法論が可能なのかという理念と議論が、なんと九九.八%(一九五一年の十四歳以上の復帰署名率)もの割合で不在だったというのが、ぼくから見た戦後すぐにおきた奄美の祖国復帰運動の総括である。

 これまでの歴史の中に、クニや王という強権的で閉鎖的な組織体を、自らの力(武力)では積極的につくる必要もなく、それぞれのシマ島宇宙の連合組織で十二分に自足していた「奄美人」。ぼくの親たちは、琉球支配と、ヤマトゥによる植民地支配をへて、国際的なアメリカユにまでなり、ついに自分らの意志で奄美の将来の地位を決められるというビッグチャンスと五〇〇年ぶりに遭遇したのだった。しかし、貧苦のどん底からぬけだすための選択肢を、戦前からの教職員たちのリードによって、「祖国日本復帰」の一本槍でつき進んでしまった。そして、そのことが、復帰以降から今日までの奄美の命運をも決定づけた、とぼくには思えるのだ。
それゆえ、復帰後四十六年の現在も、「祖国日本」の「オカミ」たちが小出しに恵んでくれる、植民地的な思いやり予算の「奄振」(奄美群島振興開発特別措置法)から一歩も脱却できないでいるのではないだろうか。外貨獲得のチャンピオンだった地場産業の大島紬の振興もままならず、人口も明治時代の中葉にまで激減している。ここにきて、「アマシン」(土建業)への依存経済や環境の問題と同時に、奄美本来の思想と文化で自立することの重要性が問われてきているのである。土俵のせとぎわまで追いこまれてきているのが奄美の実状である。


                                bTへ続く・・・  

(森本眞一郎)

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