l         「参加・参画」は、市民が行政の管理の下で政策の立案、計画の策定、事業の実施、検証などの課程に加わる行動をいい、責任は行政が負うものである。
これに対して「協働」とは、これを一歩進めて、市民と行政とが対等な立場で責任を共有しながら目標の達成に向けて連携するものであり、市民の主体性がより発揮できるものである


※「土地区画整理事業」は「まちづくり」というよりも、「道路整備」「土地基盤整備」の手法と呼んだほうがふさわしい。

※営利事業としての区画整理事業、営利事業では「まちづくり」はできない。

※「ともにくらすこと」(公共性)とか「快適に暮らすこと」(環境)といったことも「権利」として確立すること。

※早い段階で「まちのありかた」全体を議論させろということが大事。

B調査:事業計画案を裏打ちする試算まで行う。

 C調査:土地評価基準案,換地設計基準案などを作成して換地設計の準備、その他PRを行う。

※「はじめにまちづくりありき」か「みちづくりありき」か?

※まちづくりのための「一手段にすぎない区画整理」を一方的に押し付けてくるから、「住民運動もそれにふりまわされて、」「手段に反対することに終始」しがち。

※「役所の考えるまちづくり像」「健全な市街地」とは、広い道路が縦横無尽に走り、街区が整然としていて、そこへマンションやスーパー、事務所が進出する。

第T部 区画整理への住民の視点

はじめに、「価値観の押し付け」

l        ある地区にその制度を採用することで、ある人々のもつある種の価値感、が、住民全体に一方的に押しつけられる結果となる、という事実を私たちは忘れてはならない。

1章        区画整理の意味するもの

 1 「街づくり」の二つの方法

l        「もの」(公共施設=道路、建物、施設など)としてのまちづくり

 2 換地処分の実態

l        換地処分とは強制的な行政処分である

l        ある日、ある時点である地区の中に存在するすべての土地の権利書を有無をいわさずいっせいに書き換えてしまうこと。

l        その「権利」とは、土地の上にある「所有権、借地権、担保権」などだが、住民にとってもっとずっと本質的な「生活権、環境権、生存権」また、「借家権、居住権、営業権」はここでは入っていない

l        貴重な私有財産に大手術を施すのだから行政といえども勝手なまねはできない。

l        国の行政管理庁も、区画整理は用地買取をせずに済む安上がりの都市開発の手法だから、大いに推進すべしと勧告している。真のねらいはここにある。

 3 無償減歩の根拠

l        価格照応論」と「地価上昇・受益者負担論」という二つの議論が積み重ねっている。

l        しかし、それは仮説にすぎないしろものだ。

l        都市計画事業がすべてそうであったように、一つの地域のさまざまな人間の営みを、まず「もの」としての「街」に還元する。その上で、区画整理という事業の特徴として、その「街」のすべてを「地価」に還元して、一元的に処理してしまおうとする。そのひずみはすべて、「直接的土地利用者」たる「住民」にしわよせされる仕組みになっている。

2章 何のための区画整理か

l        二者択一の論法(区画整理なしにはまちがよくならない)

l        目的(中心市街地活性化、まちづくり)と手段(道作り)の矛盾

l        それらの不特定な受益者に「公共」の美名を短絡的に与えて絶対化し、負担の方だけをその地区の住民に負わせて「受忍」をというのでは、理屈合わない。

l        依然として伝統的な開発至上主義

l        「何のための、誰のための区画整理か」

l        天から降ってきた災難でしかない

l        未来の地価の計算に正確に反映されるとは限らない

(路線価方式ではもっぱら道路の幅だけが評価の基準となるから)

l        自分たちの生活上の諸利益を幅ひろく主張しなければならない。そのためにはまず、自分たちの土地利用目的が、決して地価だけに還元できるものではないことを、きっぱりと宣言することから始めなければならない。

3 住民の価値観―まちの「よさ」とは何か

l        幹線道路の拡幅という「公共設備の整備改善」だけを目的とし、「宅地の利用の増進」という目的がない仮換地の指定は違法だ、と判決した(1995年名古屋地裁)

l        その場で生きている住民たちの「暮らしの総体」とでも呼ぶべき「まち」、直接的土地利用を軸とする住民の、共同生活空間としての「まち」である。

l        ときには権力的に、(つまり住民の「同意と納得」などぬきにして)、行われることが多い。(55p)

l        そこには「住民軽視」、「住民無視」、いや「住民蔑視」の思想さえないとはいえない。

l        どんな権力的な行政姿勢をとるにしても、自治体の首長や議員たちは定期的に選挙の洗礼を受けねばならず、主権者たる住民の「同意と納得」をあまりに無視した事業をすれば、彼らの地位そのものが危うくなるからだ。

l        施工者である「お役所」は、簡単な説明用のパンフレットは見せても、土地評価基準、仮換地の設計図、移転などの補償基準、権利者名簿といった、基本的な重要資料をなかなか出さない。

l        このようなブラックボックスで住民生活の将来を決められてはたまらない。情報を独占するものは、判断権を独占する。情報が不平等に配分されることは、そこから得られる利益もまた不平等に配分されることを意味する。

l        住民運動によっては、審議会を公開させ、審議会に提出されるすべての資料を全住民に共有させる形で、事業への住民参加を実現させていった例がある。

l        とりわけ(土地)評価基準の公開は、住民のひとりひとりが自分の受けた仮換地指定が適正かどうかを自分の価値観から判断し納得するために、絶対に必要である。(57p)

l        だから住民側の対応も早ければ早いほどいい。なるべく早い段階からひとつひとつの手続きに目を光らせ、不満があれば段階ごとに、納得できるまで既成事実をつくらせないことが必要だ。

l        長期にわたる息の長い努力が要る。だが、そういう努力をしなければ、結局は施工者の言いなりになるほかない。そうなっては、事業の中で住民の権利や利益を守ることができず、「まち」を住民のものとすることもできない。

l        自分の生活の場である「まち」の姿を変えるのに、白紙委任などだれができようか。これまでに成績をあげた住民運動は、すべて個人の力というよりも結束の力で、こうした努力をなしとげてきたのである。

l         

4章 「まちづくり」の本当のあり方

 1 住民の「まちづくり」の意義―「公共性」われにあり

l        「資本的土地所有者」に「直接的土地利用者」が対立しているのだ。

l        このことに気づけば、「個々の土地所有者の集積」すなわち「もの」としての「街」ではなく、「個々の土地利用者の集積」すなわち「住民のくらしの総体」としての「まち」のあるべき姿も見えてくる。

l        この「まち」における彼の権利は、憲法第二十九条に保障されている私有財産権としての「土地所有権」だけではない。同じ憲法の第二十二条の「居住、移転、及び職業選択の自由」、そして何よりも、第二十五条にある「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」という、「生存権」そのものである。それが形としては「直接的土地利用権」となってあらわれ、ときには「土地所有権」にも反映しているだけのことだ。このことは、かりに彼が、土地については権利を持たないとされる、借家人や間借り人であったとしても変らない。(69p)

l        第二次大戦後の日本の開発政策には、国外での植民地支配が破綻したあと、一種の「国内植民地主義」と呼ぶべき性格がつきまとっていたのではないかと、私は疑っている。(74p)

l        誰かが勝手に市外の図面を引いて「これを住みよい街だと思え」と言うのは、「既製服にからだの方を合わせろ」というのと同じくらいに無理な話である。生身の人間である私たち住民のひとりひとりの生きていく場、私たちにとっての「住みよいまち」は、既製服ではなくて注文服のように、私たちの肉体や精神の諸条件、つまり生存やくらしの諸条件を十分に測定して、まとめあげたものでなければならない。

l        住民運動は、(「固定資産税の増収」など「右肩上がりの地価上昇)を前提とした)こうした評価基準のからくりにも挑戦しなければならない。

l        つまり、むやみやたらに土地利用を効率化しさえすればその地区に経済力が生じるという保証は、どこにもなかったのだ。そのまちを豊にしたければ、遠まわりのようでも、まずその地区の住民全体のくらしを豊かにすることである。そのために「まち」を改造することが必要だというなら、それは生活者としての住民みんなの合意によって最小限度に行えばよい。一部の者だけが開発利益を独占するような事業であってはならない。

l        区画整理はあくまでも手段であって、目的ではない。「区画整理に賛成か反対か」だの、「条件付賛成か絶対反対か」だので住民同士が対立してしまうのもつまらない話である。本当の問題はそんなところにあるのではない。区画整理を一方的に振りかざして何かを実現しようとしている、そういう人々の「開発意志」をこそ、まず問い正すべきだろう。場合によっては住民投票にかけることも考えるべきだろう。(93p)

l        何かをするのが「まちづくり」なら、場合によっては何もせずに現状を守るのも「まちづくり」だ。技術者や専門家や行政は、そういう住民の合意を尊重しながら、適切な助力をすればよいのである。

l        実際には区画整理や再開発という手段が本当に「まち」を「よく」するかどうかという保証はどこにもない。(94p)

l        住民にとって、まず「減歩」に目が行くは当然かもしれないが、議論の真のポイントは実は「減歩」ではない。住民の受益である。「減歩」や「移転」が住民にとって負担だから区画整理に反対する、というだけでは、住民の論理構築としては不十分だ。その負担に見合う「受益」が保証されないから反対する、というところまできて、住民はようやく区画整理という本質に迫り、先方の開発政策と対等に切り結ぶことができる。(95p)

l        住民のひとりひとりがその地域で、自分なりの誇りと楽しみをもって生きていくこと、誰かの利益のための開発政策に鼻づらを引き回されるような目には遭わないこと、いわんや、もっともらしい口車によって、ただでさえとぼしい生活空間を切り刻まれたりしないこと、それが一番大切なことだ。(96p)

 

第U部 区画整理の基礎知識


直前へ戻る