内小野寺参考図書 郷土誌「つつはの」・吉松郷土誌改訂版

参考画像 「三国名勝図会」 内小野寺


ドローンで撮影した現在の内小野寺跡周辺

<内小野寺跡>
新熊山三蔵院、天台宗内小野寺跡は、川添字宮前にあり
通称今熊山の熊野神社一帯にある。
歴代住持の墓は隣接する宮前墓地公園にあり、由緒ある寺の名残りを今日にとどめている。

歴代住持が眠っている愛甲墓地
 

墓石配置図
 

内小野寺は天台修験本山派であり、本尊は麻利支天が白猪に乗った
6寸8分の木像であった。
創立の年代は明らかではないが、郷土の愛甲氏が代々その住職を
世襲してきた。愛甲氏の先祖は’神奈川県愛甲郡の修験僧・
愛甲小次郎忠雄で、建久8年(1197)源 頼朝が、島津忠久
薩摩・大隈・日向の地頭守護に任じたとき、忠久に従って下向し
筒羽野村を所領として与えられ当村に移り住んだが、いつの年代からか
当寺の住職となり、庭前に熊野神社を祭って、代々その社司をも兼ねた。
今の愛甲博則氏がその43代の子孫に当たる。

内小野寺は支坊5箇寺を持ち、榎木坊・杉木坊・政所坊・藤之坊・谷口坊
といった。寺域5反5畝7分、堂宇は宝殿・客殿・熊野神社・水天社・秋葉権現
妙見社・持仏堂・役行者堂あり、客殿は島津義弘の隠居所として建立された
ものと言われている。

愛甲家の門
 表門  裏門

愛甲家の庭園
 

廃仏毀釈で鹿児島県内の仁王像は壊されてしまったが
手足が残っている像は貴重です。
島津氏との縁が深かったせいではという説があります。


廃仏毀釈後150年目、内小野寺跡の確認調査  

実施日 平成29年 2017年 7月23日(日)
「湧水町つつはの郷土研究会」



この作業は島津氏及び島津義弘公と縁が深かった内小野寺のことを世間にお知らせしようと
梅雨明けの暑い中、多忙中にかかわらず10名の参加者で実施しました。
廃仏毀釈後150年の閉ざされた扉を開けることができました。




ここ数年誰も足を踏み入れてなかった内小野寺跡。案の定、孟宗竹と雑木と雑草に覆われていましたが
みんなで1時間かけてを取り除いた結果・・・・・
とうとう本堂跡らしき石垣発見、初期の目的を達成することができました。(^^)/

石垣出現 寺跡か?





町が立てた看板がありますが、当会の活動の証として、熊野神社への参道の途中に、
当会独自の看板を作ってみました。





参加者のみなさん、ぬっかとこい、まっこてあいがとさげもした。



境内に滾々と湧き出る熊野水源


延宝8年(1680)9月、島津久住(第20代綱貴公の弟)が当地に寄り
風光愁眉を賞して、次の歌を残している。

又もきて見すやあらなん此寺の
        岩間の水の清きながれを


筆者の勝手読み
(何度来ても 見ずにはおられないほど ここ内小野寺境内の
 岩間に流れる清流はすばらしい)


久季(ひさすえ)の家系図 幼名は久住(ひさずみ)


愛甲家文書
「天狗相伝一巻書」「木崎原合戦記」その他、中世の頃の古文書(こもんじょ)
は黎明館に保存されてあります。
 



この貴重な古文書は昭和63年8月26日、初代会長林昭男先生が
富士ゼロックス鰍ノ依頼して撮影し、A4版厚さで冊子にしたもの。
令和3年、全巻23冊は湧水町「くりの図書館」に寄贈しました。

  

  


補足説明(つつはの3号より)

窪田仲市郎氏は著書「神話と霧島」の中で
「内小野寺は高崎の幸樹院と共に、薩摩の特別な庇護のもとに栄えた禅宗寺院に伍して
長く実力を維持していたらしい。霧島をめぐる地域は戦国時代島津氏勢力確保の前線と
なったために、島津藩は修験との間に密接な交渉を生じ、藩内一般に修験の行者は
「法者ドン」とか「ヤンボシ」とよばれて敬重せられた。
島津氏の鉾先はこの頃から小林(当時三山といった)を中心とする地域に集中せられようと
していた。その原因は伊東氏との角逐が当面の問題として尖鋭化したためであったが
その鉾先がぎせられたために両者の相克対立がきびしくなったのか分からない。
思うにその両者であろう」と述べている。

呪法者たちが戦争に大きな役割を演じている時代だから、鎌倉からわざわざ連れて来た
信任あつい修験僧の愛甲氏を、前線の吉松に配した意図が何であったか伺われる。

愛甲氏は代々島津氏の信任があつく、義久(義弘の兄)の時まで
寺領8町8反(872アール)をもらっていた。
義弘が永禄7年(1564年)加世田から飯野城に移ってくると、27代の
住持、愛甲相模坊光久は特に重用された。元亀3年(1572年)5月の
木崎原合戦には、すぐれた呪力をもって敵国調伏を行い、賓兵をもって
よく伊藤氏の大軍を撃破せしめたので、その功により霧島中央権現瀬多尾神社
の別当寺・小林郷瀬多尾寺の座主に任ぜられ、小林の地に田地3町3反
をもらった。
又、感状や太刀一振りの外に光久の妻にも島津家の紋を付けた挟箱があたえられ
愛甲家に今も伝えられている。
又、光久は1584(天正12)年2月15日島津義弘の代参として、志布志の
飛滝権現にこもった時、神前で天狗から兵法の三略書一巻をもらった。

 


<川上忠兄> かわかみただえ ウィキペディア

戦国武将のイラストをネットで探していたら、川上忠兄なる人物名と遭遇しました。



略歴 詳細の功績は上記ウイキペディアにあります。

川上忠兄は島津家臣。川上忠智の次男。文禄・慶長の役では弟久智と共に戦功を挙げた。
関ヶ原の戦いでは奮戦し「小返しの五本槍」の一人に数えられた。
戦い後、薩摩へと帰還する島津勢と別れ、家康の元へ使者として向かい、
「軍事に練達の者」と評され、島津家の本領の安堵を勝ち取るという大手柄をあげた。

愛甲家との関係

16歳の頃彼は吉松の天台宗内小野寺の住職愛甲相模坊光久の養子になっていたが、
天正4年(1576年)8月28日、義弘公の命で還俗、数々の戦功を立てた。

野田昇平 画  島津義弘一代記  「四川の役 其の2 勝利の儀式」