筒羽野村の出てくる古文書を列記してみました。

鎌倉期〜南北朝期に見える村名大隅国のうち
建久8年(1197)の大隅国図田帳に「筒羽野四十八丁五段・・・・・・・弁済使私用之」
とあるのが初見

次いで建治2年8月(1286)日付の大隅国在庁石築地役配符にも
「筒羽野村四十八丁五段・・・・・・・・・・・」と見える(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)

その後,観応元年(1350)6月24日の上書のある島津荘大隅方寄郡田数注文
「筒羽野村 四十八町五段・・・・・・・・・・・」とあり

建武3年(1336)4月10日には島津貞久(道鑑)が東条藤次郎入道道悟
「筒羽野村半分代官職」を宛行っている(都城士東条利右衛門家蔵文書)

以後,延文元年(1356)8月6日付の足利義詮下文
貞治2年(1363)4月上旬の島津氏所領注文などに,道鑑の所領として見え

室町期以降には当村名が見えず,戦国期には吉松と称されるようになっている(三国名勝図会)
なお,「真幸院記」によれば,永徳元年(1381)8月25日付の光照院蔵筥崎八幡宮鐘銘
「奉施入釣鐘一口 大隅国筒羽野村」と見える(県史料拾遺)

また,吉松町南方神社に伝わる「諏訪御由来之絵縁起」に(下記写真参照)
「于時天文十二年癸十月八日 大隅国筒羽野村於新山寺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
吉松民部少輔 諏訪祝 次郎大輔 新山寺光全」とその名が見える
=応永(1394)年間、北原氏七代久兼の弟に男子七名がいた。
<東・小林・小城・大川・大平・吉松>筒羽野村を統治していたのは吉松民部少輔
小林と同じく人物名が自然と地名になったのか?

「三国名勝図会」によると「吉松 本府の東北十四里余にあり,地頭館鶴丸村にあり,
当邑往昔は筒羽野といふ,一旧説に「吉松の地は,いにしへは,日向国に属して,真幸院に係る」とある。

図田帳 諏訪御由来之絵縁起 三国名勝図会