栗野磨欲踊り(とぎほしおどり) 







 動画が見れます



歌の意味を知ろう (解説 市来隼人氏)

       
    上記入場の様子が動画で見れます
  
 
 
 



発足にに出席された実行委員と事務局の皆さん
東中下場地区の皆さんは上記参列者図を参照ください


反省会の時に突然感謝状をもらい、びっくりしました。
微力ながら、このページが記念すべき1ページになれば幸いです。





 リハーサル録画  方から  

                練習風景  ♪ 「 若衆 若衆 待つ夜の 油火は ヒーヨ 」


<栗野磨欲踊り>とは

島津義弘公は秀吉の命令で文禄元年(1592年)2月28日 栗野松尾城から出陣しましたが
その前に藩内の諸侯を集めて勝栗神社で大がかりな出陣式を2月7日執り行いました。

その日は大雪でした。
そこで士気をを鼓舞するため

「野も山もみな白旗となりにけり 今宵の宿は勝栗の里」と和歌を詠んだり
(和歌はあと3つありますがここでは省略)

デモストレーションで意気を上げる為に栗野衆の士族は「磨欲踊り」を踊りました。
この磨欲踊りは文禄の役以降の戦い(慶長の役・関ヶ原の戦い)に大いに貢献したので
義弘公の遺徳を後世に伝えるため、薩摩藩の故事になって江戸時代から戦前まで、
大名行列や稚児踊りを交えて踊られてきました。
これは明治維新の原動力になったとも言われています


その様子は江戸時代の「倭文麻環」に描かれています。





この写真の原画を探しています。
栗野町民の皆様、タンスの写真帳にありませんか?



復活に繋がった参考文献

①からくも残っていた音声テープ(後日詳細を追加) 
②栗野郷土誌
③下野敏見氏 「南日本の民族芸能誌 7」
 
④三国名勝図会・倭文麻環 
⑤栗野士踊備立順番帳(瀬戸口氏所有)
  大名行列参加者

 林 定之助
 鍋倉 源次郎
 戸高 彦助
 川畑 直次郎
 田上 祐安
 
 竹牟礼 松男
 小坂 宗吉

 牧野田 喜エ門
 久米田 友次郎
 国生 宮次郎
 池ノ上 藤右衛門

 抜水 三之助
 郡山 平之丞
 吉村 栄吉
 牧野 矢吉
 田中 畩熊

 畑中 安太郎
 岩本 静吉
 出水 清二
 松山 貞助
 綾織 八太郎

 神田 権四朗
 桐原 嘉吉

 広瀬 太郎
 山下 仁太郎
 尾上 丈八
 小野 仙蔵
 前山 国寧
 田代 藤内
 市来 鉄太郎
 原田 六左エ門
                        神田橋 貞義

伊地 次太郎    堀之内 畩市   桐原 市助
下原 金太郎    池田 武右エ門

坂口 貞次郎    牧野 武夫    松山 武右衛門
綾織 栄之助    美坂 伊勢次郎

上新原 末吉    村元 畩次郎   鶴田 矢四朗
立野 弘       生駒 三次    

久米田 亀次郎   畠中 喜エ門   今村 万助
新 三之助      勝目 仁之助

当時ノ踊りハ 鹿児島行ノ為 備立之人夫ハ 略シテ半数トス
 
⑥栗野踊の歌
  

照国神社で記念撮影



皇太子殿下韓国御巡遊の御帰途佐世保及び長崎より我が鹿児島
に御立寄り遊ば被れ五日間御滞在の後十月三十日油津に向かいご出発
明治四十年十月二十五日皇太子殿下我が鹿児島の御行啓成らせら
れ給ふに依り栗野村昔よりの武士踊(島津義弘公朝センの役当時
の門出踊)を御閲覧に供〇る為め催ふさる依々其の間二才踊の
歌トギホシ踊の歌も二才踊の歌の後に讀記〇〇〇        
然し御 覧に供したるはトギホシ踊のみにて吾れも此の踊を
成し〇 (当時鹿児島市中の県民は幾十万と云者なりき)



〇て鹿児島に向ひ発足したるは10月26日2番列車の下りなり
然してこの夜は鹿児島市小川町日高旅館に投宿翌朝午前8時
西郷南洲翁の墓地に行き堂10時皇太子殿下県庁に向け
御行啓相成らせるに依り始めて殿下を拝し奉り直ちに帰館し
見れば我らの踊り子人数は磯島津家集成館に集合すべしと云う
事にて急ぎ集成館へと〇を移し着後しばらく休み踊り支度を成し
午後3時頃島津邸へ操出しと成り同3時10分より踊りを御
ご覧に供し奉り踊り済みて其れより照国神社〇で行列のママにて
行き照国神社にては東宮殿下の御仰せに依り千頭知事より写真師
に命じて写真を撮らせた給う(上記写真)↑其の後市役所に行き吾が立物を集成館より
持ち来りあ〇しを〇て衣物を着かえ此の夜〇で宿し翌日2番列車の
上りより帰宅した。


磨欲踊りを復活させる前段として平成27年11月23日の湧水町秋祭りに、
栗野中学校の生徒と地元の皆さんの協力で、武者行列が盛大に挙行されました。
スナップを何枚か紹介します。数年後、思い出の1ページになるでしょう。

湧水町 広報「ゆうすい」2015 12月号より