鬼塚秋花著 「吉松古蹟考」写本より抜粋



著者秋花公が亀鶴城に登られた時の記録と、昭和42年吉松中学校郷土調査クラブの意訳本抜粋

         ◎ 亀鶴城の旧跡

亀鶴城の跡は、吉松駅の東北およそ20町ばかりのところにある。鶴丸部落の東の方にそびえたっている。
南にあるのが本丸で鶴城という。高さは80尋、南北20間、東西30間余りで、北にあるのが亀城である。
高さ60尋、南北30間、東西50間余りで、周りを合わせると35町40間あると言われている。
いつ築かれた城かはっきり解らないが、永禄年間に北原氏が住んでいた城である。

本丸に祭られている神を鶴岡正八幡社と呼んで、城の一番高い所にあってご神体はない。
般若寺の古い記録を見ると、足利尊氏が薩摩に来て般若寺を本陣とした時、心からこの神社を尊敬して
いろいろな物を納めたが、そのうち白い絹の帳面に歌を詠んで、神に捧げたことが書いてあるところから
考えると、足利尊氏が薩摩に来た時よりも前からあった城であるらしい。
その後島津義弘公が菱刈での戦いに勝って帰ってこられた時に、白糸の鎧を納められた。
元和(げんな)2年 1616年9月13日に鶴丸の中城山に神社をうつした。それが今のところである。

二の丸の神祖は亀岡天神社である菅原道真公を木で造った像が祭神となっている。古き記録を見てみると
この神社は貞和(じょうわ)5年 1349年11月21日に建てられ、元亀(げんき)3年 1570年2月15日に
鶴丸の崎須山に移した。これが今のところである。義弘公が菱刈の戦いに勝たれた時はこの神社にも
鎧を1着収められた。



考えてみると北原氏は、その先祖が天智天皇の皇子でである大伴の皇子である。
大伴の皇子から6代目の兼遠(かねとう)が初めて薩摩へ移ってきて、それから5世の孫である
右兵之助兼幸が初めて真幸院を納めて、代々その強さをあらわしてきて、ある時は島津氏の家来になったり
ある時は伊東氏と相良氏と仲良くなったりして、味方になったり敵になったりなどして
北原周防(すおう)範兼の時代になって伊東・相良と仲良くして、吉松を初め栗野・横川も平定して勢いが
非常に強くなった。

永禄年間になって北原掃部(かもん)介兼親がこの城に住むことになった。たまたま伊東修理太夫儀祐(よしすけ)が
大軍を引き連れてきて、真幸・吉松・栗野・横川を奪い取って、真幸地方が大いに乱れた。
そこで島津貴久がこの乱を治めようと思って、信頼できる部将を真幸を中心とした吉松などの地にさしむけて
いくつかの城に陣取らせて治めしめたので、永禄5年になって兼親はとうとう島津氏に降参してしまった。
この時から伊東・相良の2氏を敵として真心をこめて島津氏に尽くすこととなった。

永禄7年11月に兼親の叔父にあたる北原左衛門尉が、球磨地方の兵を引き連れてきてこの城に陣取って
こっそり伊東・相良と仲良くして島津を適する計画をしたが、そのことがすぐばれてしまって
北原左衛門尉はどこかに逃げてしまった。島津貴久は兼親が伊東・相良を敵にしていることは
とても困難だろうとと思って、兼親には伊集院地方を与えたので、兼親はすぐ伊集院に移った。

元亀3年に島津兵庫の守忠平公(義弘公)が伊東軍を木崎原で打ち破り、飯野城主になった時
亀鶴城に家を建て隠居所として度々ここに来られた。



位置=鶴丸駅の東側に見える小高い丘。町道原口線と沢原線の境の東側の丘陵

形状=南側に本丸の鶴城(鶴ヶ城)、高さ120m南北36m東西60m。北側に二の丸の亀城(亀ヶ城)、
    高さ90m南北54m東西100m。合計周囲は3850m。<計測値は(1ヒロ=1.5m 1間=1.8m
    1町=60間)としました>

築城と歴代城主=築城は不詳ですが、真幸院を統治した北原氏の略歴には永禄7年14代兼親の叔父の
            北原左衛門尉(さえもんのじょう)が居城。その年、島津義弘公が真幸院城主となったが、
            飯野城普請が終了するまで亀鶴城に居城しました。その後、新蔵様なる人が住んだそうです。

城の形態=山城なので天守閣はありません。地形を利用しているので石垣もありません。

参考=えびの市の歴史書では亀鶴城のことを吉松城と書かれています。なぜなら飯野城の別名が
    亀城・亀箇城・亀鶴城・亀之城とあるからではないでしょうか。



 義弘公が
 永禄7年に加世田から飯野へ移って行かれる時
 この城に仮の住居屋を作ってしばらくここに居て
 飯野城が立派に修繕されてから移って行かれた。

 その後この家屋に新蔵様と申す方が住んで
 居られたようすが古い記録に残っているが、その後の
 ことはわかっていない。
 ああ、何時の頃だったのだろうか、城が廃れてしまって
 長い長い年月がたったことであろう。荒れ廃れた城には
 狐や狸が住むようになってしまった。今は城の上の老いた
 松も城の外の大きな杉なども全部切り尽くされてしまった。
 昔、侍(さむらい)達が行き来した道路は荒れ
 たところは鶴丸に住む誰かの土地になってしまって雑木が生
 い茂っている。神社はどこにあったのかさえ分かりにくい。
 けれども細い道を回り回りしながら頂上に登りつけば、四方
 の見通しは広々として薩摩・大隅・日向3州の山や川が全部
 見える。城としての地の利は険しい。あーあー。亀鶴城の松
 に吹く風は飄々として昔華やかし頃の名残を伝えているが、
 今は殆ど人が訪れること無くして、ただここにこうして登る
 者のみ昔を思い、今を考えさせてくれることである。

 南登碣石館。  遙望黄金臺。
 兵陵盡喬木。  昭王安在哉。
 覇圖帳己矣。  駆馬復帰來。
 

上記漢文を解釈できた方はお知らせください。


山頂の平らな台地。城の館跡か? 木々の隙間から3州が見渡せます。感動!!
天空の城とはこんなところを言うのか。。                          

 

周囲は自然の要塞(絶壁)でした(画像は平坦に見えますが角度70度の崖です)