本日は勝栗神社へのご入室感謝申し上げます。
甚だ失礼とは存じますが
お読みいただく前に下記趣意書をお目通しいいただければ幸いです。

勝栗神社 本殿屋根銅板修繕事業 


 趣意書

 第1期工事 事業概要

 寄付金の受付




令和4年(2022)3月
お蔭様で皆様の多大なるご協力で、第1期工事の本殿の改修が無事終了しました。
関係者に変わり、厚く御礼申し上げます。<(_ _)>
 



竣工式の様子
画像 「広報ゆうすい」

 改修記念碑除幕式

  


義弘公木像建立 チエンソーアート 木彫り制作者 木霊 光様

 

SNS発信でもお世話になりました。





佐藤奈津樹様が大賞賞金を全額寄付




前段のご視聴、有り難うございました。<(_ _)>
以後の記録は令和2年(2020)まで湧水町観光ボランティアガイドに在籍していた頃編集したものです。
多少ガイド風になっていますのでご了知ください。



平成31年(2019)に島津義弘公没後400年を迎えました。

行政サイドでは平成26年(2014年)「三州同盟会議」が発足しました。 

・宮路 高光(日置市長)
・村岡 隆明(えびの市長)
・米満 重満(湧水町長)
・笹山 義弘(姶良市長)

民間サイドでは「四地区義弘公大河ドラマ誘致委員会」が発足しました。
※4地区とは(日置市・湧水町・えびの市・姶良市)のことです。


これに伴い、湧水町には名水百選の丸池に続き、松尾城や勝栗神社の観光客が増えてきました。



<その理由は>
文禄元年(1592)2月、島津義弘公は太閤秀吉の朝鮮出兵命を受けて、藩内の大名を勝栗神社に招集して
当神社で盛大に文禄の役の出陣式を盛大に執り行い


そして2月末、栗野松尾城から朝鮮へ出陣して行ったからです。
   ※栗野松尾城は南九州の山城の中で唯一石垣のある城跡です。


 
 平成27年(2015)11月23日 湧水町秋祭りで 栗野中学校生徒が
 栗野磨欲踊の復活の前段として、松尾城から勝栗神社まで武者行列を挙行。

 貴重画像 武者行列はここで

下の大将姿の甲冑を身に着け、りっぱに義弘公役を演じた人物は
栗野中学校 〇〇〇〇さんでした。
 残念ながら生徒の氏名を記録していませんでしたので
 連絡先 
hayaokidori@po.synapse.ne.jp  教えていただけたら助かります。  

  

有難い事に勝栗神社の案内は、湧水町観光ボランティアガイドの
「湧水(わくわく)汽車(ぽっぽ)会」の皆さんが対応してくれています。
必要な方は下記にご連絡ください。

霧島山麓湧水町観光協会 0995-74-5690
湧水町産業振興課課     0995-74-3111


<勝栗神社のことはネットで調べてきたから、ガイドは要らない>

今の時代確かにそれは言えますね。しかし、現場でガイドの説明を受けますと
ネットや本に載ってない事実をいっぱい教えてもらえますよ。
「湧水町は、よかとこいですよ。きっみやんせ」
(湧水町は、良い所ですよ。来て見てください)


<勝栗神社についてのあなたの習熟度は?

●勝栗神社は廃仏毀釈までは「正若宮八幡=しょうわかみや」と呼ばれ、政治・経済・文化の柱になっていましたが
 明治3年(1903)6月に現在の「勝栗神社」に改称しました。今でも「正若宮」の社号は拝殿に残されています。
 社号は拝殿にあります。


●国分正八幡宮【鹿児島神宮】の四方に「正若宮」を建立し、境界のしるしにした。とありますが、
 四方の4社とはどこと、どこなの? 
 (答え) 投谷八幡 垂水鹿児島神社 荒田八幡 栗野八幡
      (※ 時代によって諸説あり)

●本宮の国分正八幡宮は和銅(708)〜天平(758)年間に建立したとある。
 では正若宮栗野八幡(勝栗神社)はいつごろの創建なの? 
 
 (答え)大隅国図伝帳に“建久8年(1197)栗野院64丁正若領と載す”
 とあるので、現「勝栗神社」は800年以上の歴史があり、文化財的にも昔の建築様式が残っている貴重な神社であります。


●ご祭神は 仲哀天皇(14代) 神功皇后 応神天皇(15代) とあるが
  いつ頃の天皇? 詳細は現場説明

     
●本殿右側の別宮は?
 (答え)四所之宮・武内宿称宮(たけうちすくねのみや)・早風宮・雨宮

●文化財及び宝物は? 銅鏡↓ 金の弊 弥五郎面 龍の彫り物など 詳細は現場説明。 
    

●「島津義弘公」と勝栗神社の関係を、もう少し詳しく教えてください。

 (答え)文禄元年(1592)2月7日、この日は大雪であったが、在郷の輩(やから)=大名衆を招集し、
   当正若宮八幡社(勝栗神社)で御首途(かどで)の儀式が執り行われた。
   この時、諸侯の鋭気を上げるために備前の錆刀
磨欲踊を興行し、即興に和歌を詠じた。 
   下記の和歌が勝栗神社の由縁になっています。   
<磨欲踊>とは

島津義弘公が発句

「野も山もみな白旗となりにけり 今宵の宿はかち栗のさと」 「三国名勝図会」天保14年(1843)  

雪で野も山も白一色になった。まるで島津家の先祖「源氏」の白旗で埋め尽くされたようになった。
さらに縁起の良い事に、御首途の儀式に参列した皆の衆が泊まる今夜の宿は縁を担ぐ、かち栗の里(勝 栗野 里)ですよ。
今度の戦は勝利間違い無し)

 
 「白旗」と「かち栗」?? もっと深い意味がありそうです。

昔のお殿様や大名って学識があったのですね。 575 77 の和歌で見事に大衆の心を掴み
戦いに導いて行ったのですから。是非、勝栗神社にお越しになり、未知の大陸へ命を懸けて
出陣する祭興された、発句に続いて詠まれた下記の和歌をご堪能ください。


 「からたちの そのみはやがて きこくかな」 返歌 島津義久

@枸橘の その実はやがて 枳殻かな 
  今度の戦いも激しい戦いが想像される。枸橘の実を乾燥すると枳殻(きこく)という生薬が出来るごとく
  諸君の功績は先の世まで子々孫々に累々と言い伝えられるであろう。



  本当は諸君の無事帰還を祈ってA唐立ちの その身はやがて 帰国かな が私の心情だ。
  甘い言葉をかけられない現状と私の立場を理解してくれ。


「あじきなや もろこしまでおくれじと おもいしことも むかしなりけり 」 返歌 新納忠元
  元気があった昔なら「唐土までは先頭を切っていっど」と、ゆごたっどん、はがいこち歳をとっしもた。たのんでな。


あじき(味気)なや=やるせない  (伊佐市大口の忠元神社には<あじきなや>という碑が建立されています。
昭和十七年太平洋戦争のさ中、日本文学報国会は幕末に至る「愛国百人一首」を選定することになり、
忠元公のこの一首も選ばれました。
忠元が高齢で戦役に同行できない旨の歌です。)

「もろこしや やまとをかけて こころのみ かようおもいぞ ふかしとはしる」 応歌 島津義弘
  昔は日本中を駆け、今度は唐土を駆ける運命じゃっどん、オイはどこに行ってん
  思いはおはんと一身同体じゃっち思いかたじゃ。 いたっくっでな。


●勝栗神社から朝鮮の役に出陣する様と、諸侯の鋭気を上げるために披露された
 磨欲(とぎほし)踊りの貴重な「絵巻物」があると聞っもしたが
 見ることがでくったろかい?

 (答え)古文書「倭文麻環」鹿児島県立図書館蔵にあったバラバラの挿絵を、三国名勝図会
      を参考に、「湧水町つつはの郷土研究会」の皆様が絵巻物に作成してありますので
      事前にご連絡いただければ見ることができます。
      

●郷社碑があるが日本の神社には社格制度が今もあるの?

明治4年(1871年)太政官(だじょうかん)布告により 「郷社」と格付けされた。
第二次世界大戦後に廃止されたが、「旧社格」などの名称で神社の格を表す目安とされる。





● @仁王さんはなぜ1人?  Aお腹の傷は弾痕跡なの?  B阿像なの? 吽像なの? 


@の答え
昭和53年(1978)町指定文化財彫刻 。
廃仏毀釈前の別当寺蓬莱山梅中寺の守護神だった。
廃仏毀釈で2対とも川内川に 捨てられたが、昭和12年(1937)に、1体は見つかったが
あと1体は見つけられなかった 。
台座碑文 寛文五天 (1665)  乙己十月吉日 臣

Aの答え
西南戦争時の弾痕跡です。

Bの答え
案内板には吽像と説明があるが、他寺の仁王像を拝見すると
筆者には阿像のような見える。※右手を下げ左手を上げている

 他寺の阿像
  

●角守神社はどこの神社にも、左右に建立されています。
 筆者もこの件については不勉強だったのでネット辞書で調べてみました。(^^)/

@日本国語大辞典 - 門守の神の用語解説 - もと、天石戸別神(あまのいわとわけのかみ)の異称。
一般には神社の随身門に立つ矢大臣をいい、看督長(かどのおさ)の装束をしていた。
転じて、神社の門。また一般に、門戸を守る神 ...

A随身門ともいい、俗に矢大神・左大神といい。お寺の仁王門にならったもの。

勝栗神社の角守神社

     左大臣          矢大臣



●勝栗神社には菊の御紋があると聞きましたが?

(答え)ご祭神おられます御紋は上段の軒にあり、社殿の左側から見えます。


〇菊の御紋は天皇家の紋章、天皇家ゆかりのあるものだけに許される。
〇勝栗神社は代々天皇家の祖先(仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・ 大山祇神)を祀ってある。
〇本殿の上に菊の御紋がつけられていることは、勝栗神社の社格が格調の高い神社であることを物語っている。