朝鮮のハス、里帰りなるか?
(湧水町生涯学習課にて発掘終わる)

松尾城の下、徳元寺跡の隣に蓮が植えられた池がありました。


発掘調査の報告をします。
 

まずやぶを払い、清掃しました。



表土を剥ぎ取り、発掘開始

  

土手の保護石積と池淵の石らしき物が現われました。

真ん中の未発掘部は地層を調べる為、最後に取り除きました。

  

杉の木を切り、発掘場所を広げました。池の前面石の並びがわかります。
3月21日撮影

  



池の輪郭が見えてきました。 池の床面を掘り下げてみました。



池の床面に「五輪塔」の一部らしい丸い穴の開いた石物が見えました。
木の根、竹の根が多く発掘は大変です。
3月22日撮影




ポンプで水を抜きます。





杉の根を切り取りました。
 
 池の右端発掘現場よりまだ広がり約20mはありそうです。3月24日撮影
 
 

3月27日撮影4月4日さらに南に5m拡げました。
 

3月28日蓮の実らしい物を発
友人が持参した蓮の実と比べてみました

 



池の全様です。
  
青色シートは池底の泥
 

泥さらい

 

陶片・蓮の実?
 

スモモ・梅・栗・椿?



杉・檜・竹杭・木片?

3月30日撮影分     最終作業は4月5日に終わりました。
 
 作業を指導された新東晃一先生は、蓮の発芽は他の専門家にお願いするとの事でした。
蓮が再生されるか楽しみです。

昔に思いをはせながら作業しました。ご苦労様でした。



福城山徳元寺跡(ふくじょうさんとくげんじあと)

(栗野町史を参考にして)
現在の心光寺の南隣り付近にあったといわれています。
古文書などには、『応永(おうえい)十三年十月三日(1406年)伊豆守(いずのかみ)酒井親貞、その亡父正広禅定門(ぜんじょうもん)の為に建立して崇寿寺(そうじゅじ)といふ。』とあります。酒井氏は鎌倉時代から栗野院と関係があり、同院の在地領主の一人であったと思われます。

その後北原氏(の菩提所となり徳重寺と寺号(じごう)が変わりましたが、義弘の第五子久四郎(きゅうしろう)の菩提所となり、徳元寺と改められました。
以来江戸の末期まで栗野郷の中心寺院として崇敬されていましたが、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、寺院はもとより仏像・古文書など全てが失われました。
今では心光寺(しんこうじ)の裏手に、歴代住持の墓が数基あるだけです。

義弘公は朝鮮から「千葉蓮」を持ち帰り、池に植えたと古文書にはありますが、現在では池も蓮もありません。
聞くところでは、この蓮は後に鶴丸城の堀に移され、現在ではそこで花を咲かせているということです。


朝鮮種の蓮


当寺の池に植ゆ。千葉蓮といふ。松齢公征韓(しょうれいこうせいかん)の役に彼国(かのくに)より携(たずさ)へ帰(かえ)り、
当寺(とうじ)の池(いけ)に植(う)ゑ玉(たま)ふ。
今(いま)に至(いたっ)て存(ぞん)ず。
又本府(またほんぷ)にも分(わか)ち移(うつ)さる。
世俗(せぞく)に徳元寺蓮(とくげんじはす)と称(しょう)す。