湧水町 般若寺の歴史

三国名勝図会原文


般若寺はいつの年代かわからないが天台宗から真言宗に改まった。
1336年(建武3)博多の多々良浜に、菊池武敏を
破った足利尊氏が南下して来て、般若寺を本陣とし、挙兵を行った。
ある日、国人である草部義国(真幸院の郡司・日下部氏又はその一族か)
を呼び、住職(亀鶴城の鶴岡八幡社の宮司を兼務)に杯を与えて、次の歌を詠んだ。

日に向う山あるじを来てみれば
    
端山に照らすありあけの月



住職は直ちに返歌して、



吾妻より西の山の井清ければ
    
月日も澄める寺井なるらん

尊氏大いに感称し、本尊の千手観音に天下統一を祈願する。
後にその利運があったとして、本堂を建立寄進した、という
由緒のところである。

昭和46年(1971)「郷土誌つつはの創刊号」より抜粋
寄稿者 宮ノ下繁雄氏

三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)この本は江戸時代後期に薩摩藩が編纂した薩摩国、
大隅国、及び日向国の一部を含む領内の地誌や名所を記した文書。








「日に向う山のあるじを来てみれば
    端山に照らすありあけの月」


 筆者の想像(グッチ様と雛人形様に、ご指導いただきました)

日に向かう山=般若寺の別称は<
日向山九品院般若寺)。よって般若寺のこと
あるじ    =ある寺 ある路 主 
端山(はやま)  = 奥山に対して、人里近くの山。羽山。麓山。連山のはしの方にある山
              八幡山(ヤマトタケル伝説の霊山=白鳥山) 
              八山=雲海が見れるとき、般若寺から見える八つの霧島山
有明の月= 明け方まで空に残る月。在明・ありあけ とも書かれることがある

筆者のかって読み 

南九州随一の名寺、般若寺にきて、明け方近く、ふと東の方を見たら・・・
八幡の神 武人の神 ヤマトタケルが白鳥となって飛び立ったと言われる白鳥山や
霧島の山々が見える。その上に煌煌と有明の月が・・・
まるで日本の夜明けを告げるように近隣の山々を照らしている。


吾妻より 西の山の井 清ければ
    月日も澄める 寺井なるらん


筆者のかって読み

吾妻(あずま)より = 都から東の諸国

①にしのやまのい きよければ    西の山の井 清ければ 
西国の井戸及び、般若寺の井戸の水は澄み切っています。
心にけがれがなければ、神仏の恵みがあるそうです

月日も澄める 寺井(てらい)なるらん
今、世の中がごたごたしていますが、般若寺の井戸は
世の中を 綺麗にする井戸なんですよ。


にしのやまの いきよければ 西の山の(意気・勢・息)良ければ
西の諸国の意気・勢・息が良いので (僧兵の存在)


月日も澄める 寺井(てらい)なるらん
尊氏殿が世の中を治める 寺井(じせい)時勢になるでしょう)
※てらい=てらうこと。奇策。衒気 (げんき) 
尊氏殿頑張って下さい  


平成23年(2011)12月、2つ和歌の相違点(赤字の語句)に気づきました。
この2つの和歌、吉松古蹟考では

「日に向う山のあるじを来てみれば
    端山に照らす
在明の月    

「吾妻より西の山の井清ければ
    
月日の影も澄みまさるらん
  となっているのです。

吉松古蹟考の著者「鬼塚秋花」氏(本名=萩原謙信)が参考にされた文献類は
吉松由来記 神社取調帳 寺院由緒帳 旧家の系図 古文書 地理纂考 西藩野史 その他
明治36年(1903)に吉松古蹟考を出された秋花氏は、
教職の身にありながら、あらゆる文献に目を通し吉松の歴史に貢献されました。
もちろん三国名勝図会も目を通されたはずです。
吉松古蹟考に三国名勝図会と違う歌を記されたのには
深い意味が隠れているように思えてなりません。
ややもすると、三国名勝図会よりも古い文献に遭遇されたのではないか?

和歌には枕詞・掛詞などがある日本古来の奥深い文学、素人の私には手の届かぬ分野
尊氏が天下を取り、後日般若寺の本堂を造り直すまでに感銘を受けたこの和歌
歴史を動かした貴重な和歌に思えてなりません。


今から約700年前の南北朝時代に、北朝方の足利尊氏が南朝方の楠 正成や
新田義貞などとの戦いに敗れて、九州に落ちてきたとき、
一時この般若寺を本陣にし、ここで、天下統一を祈願、そのご利益があったとして、
後日、本堂を建立、寄進した、と当地では言われています・・・・が、
歴史家の研究によれば、尊氏が建武三年三月に、北九州に上陸し、南朝方の軍勢との戦いに勝利し、
大宰府に入り、九州を平定した後、京に向け出発するまで、1月しかなかったことから、
これは尊氏本人ではなく、尊氏の庶長子で、尊氏の弟直義の養子となり、
一時、肥後川尻(現在の熊本市南区川尻)にあった、足利直冬のことを誤って伝えたのではないか?
との説があります。・・・・・が・・・・・なんと!!・・・・・尊氏が当地に来た事を記す文書(もんじょ)があと1つあります。
それは・・・・・興味のある人は入室されたし。



江戸時代「三国名勝図会」より
●右下に般若寺村の幟が見えます
●左側の参道は現在の日枝神社までの道路です
参道を肥薩線が通りました
今村義孝氏により再建された
現在の般若寺(入り口)
               境内                坐像と本堂
つつはの郷土研究会により
復元された五輪塔 昭和44年頃 
歴代住職の供養塔群
平成20年(2008) 教育委員会により復元 
月日が経ち山の中に隠れてしまった五輪塔 
平成20年(2008)3月 史談会時撮影
供養塔群中心部
供養塔群への道が完成しました(H20/12) 説明碑が立ちました(H20/12)


四手先組
(よてさきぐみ)
菅原神社(鶴丸温泉横)に使用され、廃仏毀釈の際、
般若寺の千手観音堂を信徒総出で移したものといわれ
般若寺をしのぶよすがとなっている。
廃仏毀釈の時焼け残った仏像

平成17年(2005)3月まであった 合併前旧吉松町時代の看板



平成28年(2016)5月現在の看板



平成21年(2009)5月11日 南日本新聞より

再掲
湧水町のhp<茶の香り漂う南九州最大級の山寺 鹿児島茶発祥の地 般若寺>の中に下記3つの項目があります。

○県内には、いくつか説がありますが、口碑によれば、室町時代の初代将軍足利尊氏(1305~1358)が九州に陣をすすめたとき、
吉松の般若寺に本陣を定め、山城の宇治から茶種子を取り寄せ、同寺院境内に播種し次第に全村に広まったとされています。

○三国名勝図絵には『茶園 当寺の境内に多し、名品ににして、世に是を賞美す、名を「朝日の森」といへり』当寺の茶は品質が良く・・・・・

○鹿児島大学・原口泉教授によると、葉は「アッサム茶」ににており、宇治の萬福寺のものと同種と思われる。

まとめ

京都の宇治は茶でも有名です。なぜか1000年の眠りから醒めたように整備された供養塔群の間にはたくさんのお茶が育っています。



その他の史実(吉松郷土史より)  歴代住持

島津義弘公は永禄7年(1564)~天正18年(1590)まで飯野城 文禄5年(1595)まで松尾城にいて
当寺を深く信仰し、祈願所に任じた。
その任を果たしたのが 9代住持恵瑜 10代源恵 11代実秀 12代頼長4代であった。
また、恵瑜・源恵・実秀の3代は所々の軍陣に従事し、12代頼長は義弘公の帰依僧となり
15代頼盛は光久の帰依僧であった。

義弘公の時代には水田、陸田合せて8町の喜拾を受け、天正年中(1572~1592)の寺社領毀破の
時も、当寺は特異の由緒あるをもって、寺領を減ぜられなかった。
細川幽斎が豊臣関白の命を受けて当国に来り、寺社領を削らんとしたとき、当時の住僧(名は不詳)が歌に
「心経の魔訶の下なる般若寺の 一切苦厄御免あれかし」と詠んで呈すると、寺領8町を安堵したという


義弘公が栗野より加治木に移る時、住持頼長法印を召して加治木に般若寺を建立し(後の能仁寺)
当時は掛け持ちとしたが、頼長も義弘公も死去後、吉松の寺領は藩に没収されて、支院12坊も
落ちぶれてしまった。
頼長の弟子頼盛がこれを憂えて、古来の由緒を挙げて藩に請うたところ、寛永18年(1641)2月2日
勧進を許され、当寺を再興した。頼盛は15代住持となり、中興開山の大供養塔が建立され
今に残っている。

●島津勝久は北原氏を頼って天文5年(1536)般若寺に移り住み、天正元年(1573)まで実に38年も滞留している。
<島津勝久とは>島津氏第14代当主で、薩摩守護。権勢を握る島津実久の抑え込みに苦悩し、島津忠良の
協力を得るため貴久を養子に迎えて隠棲した。しかし実久により再び守護に立てられ、貴久と戦った。
序盤は優勢だったが徐々に勢力を失い、最後は大友家を頼って亡命した。

享保9年(1724)火災に遭い、旧記を失った。明治初年の廃仏毀釈まで真幸盆地一帯の信仰の中心となった寺は
火災後に再興されたものである。

●現在日枝神社のある場所が仁王門で般若寺の入口であった。これより2町(218m)の大路、数十間の参道を登り
山門を過ぎて本堂に至った。堂宇は本堂、千手観音、脇坊、12坊、退転仕神社、鐘楼などがあって
寺域は60ヘクタールに及んだ。
境内には般若寺の千本杉と称せられた老杉、古檜、がうっそうとして昼なお暗く、堂宇の荘厳さと優雅に調和して
俗塵を離れた一大古刹であった。仏堂は数百異様の仏像を羅列して奇観を呈し、2月15日の縁日には
参詣者が遠近より集まり列をなした。


●1000年間霊光をを放った当寺も、明治2年(1869)の廃仏毀釈でことごとく焼却された。
仁王像は鶴丸八幡神社 四手先組菅原神社に移された

●更には明治42年、国鉄肥薩線がこの旧跡を横断して、荒廃に拍車をかけた。参道を肥薩線が通りました

昭和44年から、つつはの郷土研究会五輪塔・板碑の調査研究に取り掛かり
機関誌に随時記しています。

平成4年、今村義孝住職が再建に取り掛かり、般若寺は注目されるようになりました。

●町教育委員会としても茶業の振興、出版事業など産業・経済・文化の中心として、宗教の枠を超えて
地域に貢献した来たこと、残された供養塔群は重要な遺跡であるという観念から、整備が検討されるようになった。

1次調査 平成19年6月
お寺の土地と国有林を合わせて5000㎡の傾斜地に数多くの石塔が確認された。
又、数段の石垣も確認できた。

2次調査 平成20年2月
考古学的手法により発掘調査した結果多数の五輪塔が出土した。中国銭と燈明皿も出土。
復活までは現況保存。

3次調査で初めて五輪塔や板碑の復元をし、現在の景観になった。

般若寺で修業し、霧島神宮の華林寺を守り、老齢になってから般若寺で無くなって
墓石やら供養塔を立てている。


歴代住持

吉松古蹟考原本


つつはの22号


つつはの26号



ネット
①阿宇然 ②賢恵 ③尊恵 ④盛賢 ⑤賢慶 ⑥賢海 ➆盛秀 ⑧光海 ⑨慶油 ⑩源恵 ⑪実秀 ⑫頼長 
⑬堯真 ⑭快寿 ⑮頼盛 ⑯頼圓 ⑰頼寿 ⑱盛秀(盛喜) ⑲盛寿(頼顕) ⑳頼安 ㉑頼久 ㉒廣運(広運) 
㉓盛応 ㉔覚宝(覺宝) ㉕宥秀 ㉖尊昌


四手先組


最後までお付き合いありがとうございました。御礼に古町泰文氏提供の動画をプレゼントします。