天を相手にせよ(真鍋呉夫)

 明治維新の際に大きな手柄をたてた人たちの中でも
 西郷隆盛ほど多くの人に慕われ、尊敬されている人
 は他にいない。それは、一体何故だったのでしょう。

 維新後、世の中が落ち着いてから、人から何か書い
 てくれと頼まれると、隆盛よく「敬天愛人」と書きました。
 「遺訓」の中にも「人を相手にせず、天を相手にせよ」
 という一説があります。

 隆盛のこういう偉さは、慶応4年の江戸城明け渡しの
 時の行動に最も現れています。隆盛はこの時、たった
 一人で反対派を説き伏せて、江戸百万の民衆を戦火
 から救ったのですが、幕府側の代表で会った勝海舟
 は、後に当時の事を思い出して「西郷に及ぶことが
 出来ないのは、その大胆識と大誠意にある
のだ」と
 語っています。

 ですから、隆盛は、大久保利通などの所謂文明開化
 主義には賛成することができませんでした。真の文明
 とは、りっぱな家に住んだり、煌びやかな着物を着る
 ことではない、広く天の道が執なわれている状態を
 言う
のである、というのが隆盛の考えだったからです。

 つまり、「天を相手にせよ」というのは、単なる理想で
 はなく、隆盛にとっては極めて具体的、現実的な実践
 の原理だったのです。



西郷の誕生

文政10(1827)年12月7日 下加冶屋町山之口馬場で生まれる



名前について

幼少は小吉(こきち) 隆永 隆盛 通称は吉之助(きちのすけ)で通す。南洲はその雅号  


西郷家の家柄 

「御小姓与(おこしょうぐみ)」薩摩藩の士分、下から二番目の身分幼少期はとても貧しい暮らしだった。 


聖堂で学問に集中

 
吉之助が13歳になった時、悪童の横堀三助が突然鞘(さや)ごと 打ちかかってきました。
右手で頭をかばいましたが、右腕の付け根を切られてしまいました。
悪気が無かった三助が言ったので快く彼を許し、この事を表ざたにしませんでした。(エライ)

このケガが元で剣術の修業ができなくなりましたが、くじけることなくその分だけ聖堂で学問に精を出しました。


聖堂を出て更に学ぶ

<儒学>儒学者 伊藤茂右衛門  <禅宗>福昌寺 無参和尚 

この二人が大西郷を育てた恩師である。


郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)になる  1844年 18歳

郡方書役助=農政をつかさどる役所の事務補助=藩内各地に出張しなければならない非常に体力のいる役職

任命された時の郡(こおり)奉行は、迫田利済(としなり)仕事は田んぼの出来の調査。半分も回らない途中で
「たとえ不作が予想されても年貢の割り当ては減らさないように」という達示を役員が持ってきた。
利済は重税に苦しむ農民の窮状を知っているので、役所の門に、


「虫よ虫よ いつふし草の根を断つな 
       断たばおのれも 共に枯れなん」


--- 役人どもよ かりそめにも農民を根絶やしにするようなことをしてはならぬ。
--- もし、そんなことをすれば必ずや自分たちも共倒れになるであろう


と書いて郡奉行を辞職しました。吉之助はその後は相良角兵という郡奉行に10年間仕えました


「お由羅騒動」勃発  嘉永2(1849)年 23歳の時 薩摩藩に大きなお家騒動が起こりました。  

島津家27代当主、島津斉興は正室が産んだ斉彬ではなく、側室・由羅の方が産んだ久光を藩主に
 したいと考えていました。

❷島津斉彬は、少年時代から諸外国の事情にも通じ、世間からは「三百諸侯中の世子の中でも随一」
 と言われるほど名高い人物でした。

❸しかしながら、実父である藩主の斉興は、そんな斉彬のことを忌み嫌い、家督をいつまで経っても
 譲ろうとはしなかったのです。

❹当時、斉興は58歳、斉彬は既に40歳でした。この状況は、当時の社会通念から考えると異常な
 ことだと言えます。実子であるにもかかわらず、斉興がなぜこれほど斉彬のことを嫌っていた
 のかについては大きな原因があります。それは ↓

     藩の財政を借金まみれにした前々藩主の重豪(しげひで)の姿とダブって見え
     斉彬が藩主の座に就けば、薩摩藩の財政がまた悪化するのではないかと、斉興が危惧し
     たからです。

❺このようにな異常な状態に対し、薩摩藩内にも不満を持つ集団がありました。斉彬のことを慕う
 高崎五郎右衛門近藤隆左衛門を中心とした一派です。彼らは斉興のやり方に反発し、
 斉興を隠居させ、斉彬を擁立しようと動き、暗に活動を開始しました。

❻このような高崎らの反体制への動きを察知した斉興は、烈火のごとく激怒しました。
 高崎、近藤の両名を捕え、二人に切腹を命じ、斉彬の擁立運動に関わった者たち、江戸家老
 島津壱岐
以下14名に切腹、9人が遠島、14人が解職、数名が謹慎といった重い処罰を下したのです。

❼西郷の父・吉兵衛が親しく出入りしていた赤山靱負(ゆきえ)もまた、切腹となりこの世を去りました。
 切腹の当日、吉之助を呼び「我々の企ては失敗したが、これからの薩摩藩を背負うて行かれるのは斉彬公以外
 にはない。あとはたのむぞ」と言い残し,血染めの肌着をもらいました。
 この時から赤山の志を継ぐことを決意し、大久保一蔵など斉彬派の若者の中心「誠忠組」のリーダーとして
 駆け回るようになりました。。
 


意外な出来事で斉彬が藩主に 

この世継ぎ争いを心配した老中の阿部正弘斉興を城中に招いて、還暦祝いの赤衣装
を贈り「いいかげんに隠居して、斉彬公を藩主にされてはどうか」 と諫言されたので
「かたじけのうござる」といってやっとお家騒動は解決しました。

こうなるには裏があったのです。薩摩藩の財政責任者でもあった調所広郷と、
斉興の行った幕府に秘密の密貿易の事、お由羅騒動などの不祥事のことを阿部に告白
したことも功を得たのでした。今流に言えば「チクッタ」からです。

28代目の藩主として鹿児島入りすと、早速斉興から遠島されたり、解職されたりした家臣を
元に戻し、久光派の家臣にも公平に接し、薩摩藩は平和に戻りました。偏にこれも西郷が
斉彬に送った建白書や意見書があったからだと言われています。
嘉永4年(1851) 斉彬 43歳  吉之助 25歳


庭方役で江戸勤め


安政元年(1854) 庭方役=斉彬公の秘密の秘書

水戸藩 大学者藤田東湖 ・ 越前藩 藩主松平慶永のふところ刀 橋元佐内
と交流を持つ  


外国船の来航 ・ 将軍世継ぎ問題 ・ 斉彬の死


安政元(1854)年3月3日、幕府はアメリカとの間に「日米和親条約」を締結  
第13代将軍・徳川家定は、日本が迎えたこの大きな国難に対し、強いリーダーシップを発揮して、
到底立ち向かえる人物ではありませんでした。

ここで「将軍継嗣問題」が勃発
斉彬らは水戸徳川家出身で、当時一橋家の当主であった一橋慶喜
紀州藩主で当時10代半ばであった徳川家茂(いえもち)を推薦

安政4(1857)年、斉彬の良き理解者であった阿部正弘が急死

安政5(1857)年、井伊直弼は紀州藩の家茂を世継ぎに決めた
また、井伊は朝廷の勅許を得ず、アメリカとの間に「日米修好通商条約」を無断調印した。

そして、慶喜を推薦した水戸藩主の徳川斉昭は謹慎、尾張藩の徳川慶勝(よしかつ)隠居
慶喜は江戸城への外城禁止

井伊の強引で横暴な政治手法に対抗するべく、当時、薩摩で状況を見守っていた島津斉彬は、
思い切った秘策を計画しました。斉彬自身が薩摩から兵を率いて京都に入り、朝廷より幕政改革の勅許を受け、
強大な兵力と権威を背景に、井伊大老を中心とする幕府に対して改革を迫る。いわゆる一種のクーデター計画です。

斉彬は井伊の強権政治を目の当たりにし、最早尋常の手段では幕府を改革出来ない、日本の国難を救うには、
この率兵上京計画という手段しかないと決断したのです。

西郷はそんな斉彬の意図を受け、その下準備のために薩摩から京都に出向き、朝廷方面の下工作を手がけました。

しかし、西郷がそのように朝廷工作に忙しく追われている最中、薩摩で衝撃的な出来事が起こりました。
鹿児島城下の天保山で兵を調練中であった斉彬が、俄かに発熱して急激に病状が悪化し、
その8日後の安政5(1858)年7月16日、突然急逝したのです。


安政の大獄



斉彬の死は今日との鍵屋という宿屋で知りました。「斉彬公亡き今、もう生きてはいけない……」
西郷は国許薩摩に帰り、斉彬の墓前で切腹し、殉死することを覚悟しました。
しかしながら、西郷は、京都清水寺成就院の住職であった僧・月照(げっしょう)にそのことを諌められました。

月照は、将軍継嗣問題や斉彬の率兵上京計画において、薩摩藩と朝廷との橋渡し役を務め、
西郷と共に朝廷方面の工作に働いた既知の間柄でした。死を決した西郷を前に、月照は言いました。

「西郷はん、このまま斉彬公の後を追って死んだとして、天上の斉彬公が「吉之助よくやった」と
お褒めになると思われますか。いや、必ず斉彬公は烈火の如くお怒りになるでありましょう。
吉之助、なぜわしの志を継いで働こうとはしなかったのだ、と」
そんな月照の諌めに西郷は涙を流して謝り、「おい(自分)が間違っていもした……」と殉死することを断念し、
斉彬の遺志を継ぐことを再決意したのです。

しかし、当時の政治状況は日々一刻、益々悪化の一歩をたどっていました。井伊大老は自分の考えや方針に
反対する大名や公卿たちを謹慎処分にし、その他幕府に批判的な意見を持つ一般の志士と呼ばれる人々を
一斉に捕縛し、検挙し始めたのです。これが世に言う「安政の大獄」と呼ばれるものです。

この安政の大獄を始めとする井伊大老の恐怖政治の始まりにより、薩摩藩と朝廷との橋渡し役を務めていた月照も、
その身が危険となりました。西郷はそんな月照を薩摩藩内に匿うことを計画し、月照と共に京都を脱出し、
急遽先行して薩摩に帰国したのですが、斉彬が急死したことにより、藩政府の方針は一変していました。

斉彬の死後、藩主の座に就いたのは、斉彬の異母弟・島津久光の子の忠義(ただよし)でしたが、忠義はまだ当時19歳の
若者であったため、藩政後見人として藩内の権力を握っていたのは、斉彬の父であった前々藩主の斉興でした。

前述のとおり、斉興は斉彬のことを忌み嫌い、家督を譲ろうとしなかった人物であったことから、斉彬が興した様々な
事業までも嫌悪し、薩摩藩を旧体制に戻すことに専念しました。西郷が薩摩に帰国した時には、斉彬が興した近代工業の
ほとんどが縮小され、薩摩藩内はまるで静まり返ったようになっていたのです。

それでも西郷は帰国するや否や、藩政府の要人たちに対し、月照の保護を熱心に求めました。
しかしながら、藩政府の態度は非常に冷たいものでした。まるで「触わらぬ神に祟りなし」であるかのように、
西郷の意見に一切耳を傾けようとはしませんでした。西郷はそれにもめげず、月照が薩摩藩のためにどれだけ
尽力してきたのかを説明し、月照の庇護を求め続けましたが、藩政府の態度は変わることがありませんでした。

西郷がそのような努力をし続ける中、月照は筑前浪人の勤皇志士・平野国臣(ひらのくにおみ)に付き添われ、
困難な道中を乗り越えて薩摩にやって来ました。しかし、藩政府は西郷に対し、はるばる薩摩までやって来た月照を
無情にも藩外に追放するように命じたのです。日向との国境への「永送り」(ながおくり)という処分でした。罪人を国境で
切り捨てるという処分でした。

「斉彬公さえ生きておれば……」 西郷は歯噛みする思いで、この命令を聞いたことでしょう。 しかし、薩摩藩士として、
藩の命令に背くわけにはいきません。かと言って、月照を藩外に追放することは、愛情深く、そして義理がたい西郷にとっては、
当然の如く出来ませんでした。

月照と吉之助の入水


永送りの船が出たのは11月15日の夜でした。船上で月照が懐から出した紙に

「大君(おおきみ)のためなら何かを知らん 薩摩のせとに身は沈むとも」と書いて吉之助に渡すと、吉之助もゆっくりうなずき
「ふたつなき道にこの身を捨小舟(すておぶね) 波たたばとて風吹かばとて」と書いて月照に渡し、

相伴って寒中の海に身を投じました。
西郷吉之助30歳のことでした。この後2人は助けあげられましたが、月照は帰らぬ人となりました。
僧月照の墓  西郷蘇生の家


編集中