<風呂の岡の概略説明>

の役(1592)の際、義弘公の軍勢は栗野松尾城から出陣しました。

義弘、又一郎久保親子を始め、付き従う者わずか23騎でした。
二度と生きて帰れぬかもしれない栗野や城をここから眺
めて、
別れの杯
を交わして、ここ「風呂の岡」で名残りを惜しんだと言われています。
大勢の見送りの人も涙を流して見送りました。
この事で別名で「栗野)見返りの岡」ともいわれます。


○栗野由来記より

正若宮鳥居の真向へ風呂の岡とて道程五、六町もこれあり。栗野郷も見通しの岡にて、
御側衆十五才以下、山田松千代、渋谷三五郎、その外多人数、且つ、木瀬、原田、松下、
池田、両池上、黒田、郡山、この八人も神前より直に麻上下にて先供致し参り候。右、
風呂の岡にて御通御盃残らず仰せ付けられ、千秋萬歳にて御立ち遊ばされ、見送りの人
数へは御暇下され、各々泪を流し退出致し候。


昔、肥薩線を敷設するに当たり、小高い二つの岡を切り崩した為、
今は平地になっています。


                 <要注意>
旧道米永線より現地に行くと、カーブした肥薩線を跨いで行かなくてはならず
非常に危険ですので、必ず堤防側より行く事。