東川氏と行く県際交流ガイド研修 人吉市  2017/5/12


国宝 青井阿蘇神社



門にあるマーク                   板の龍柱(勝栗神社には昇り龍降り龍がある)


人吉城






相良清兵衛(さがらせいべえ) ネット「おてもやん」参照

生誕 永禄11年(1568)
死没 明暦元年(1655)7月12日 88歳

犬童(いんどう)頼安の子。相良藩家老。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、相良藩ははじめは西軍に加わって伏見城の戦いなどに参加。
だが9月15日の本戦で西軍が壊滅すると、家臣の犬童頼兄(相良清兵衛)は東軍への寝返り策をとり、
大垣城において西軍の垣見家純らを殺害して降伏した。その結果徳川家康から所領を安堵され、
相良長毎(ながつね)は人吉藩2万石の初代藩主(近世相良藩初代藩主)となった。
また、犬童頼兄(相良清兵衛)は長毎(ながつね)から賞された。
その後、犬童頼兄(相良清兵衛)は次第に専横(わがまま勝手に振る舞う)を極めてきた。見
かねた二代目藩主・頼寛(よりひろ)は犬童頼兄(相良清兵衛)を「専横の士である」として幕府に訴えた。
犬童頼兄(相良清兵衛)は、朝鮮の役、関ヶ原の戦いなどで、その才を発揮し、相良家の危機を救ってきた。
しかし晩年は藩政を専横して、頼寛とは折り合いが悪くなった。藩としてはこれまでの功績を考えると易々と
処罰することができず、ついに幕府に訴え、その裁可を仰ぐ形をとった。
その結果、犬童頼兄(相良清兵衛)は幕府により津軽藩に追放、お預けの身となり、そのまま同地で88歳の生涯を閉じた。
この事件の際、人吉では、犬童頼兄(相良清兵衛)の養子の田代半兵衛とその家族は「お下屋敷」と呼ばれる
犬童頼兄(相良清兵衛)の人吉屋敷に閉じこもり、藩兵はこれを取り囲んで戦闘となった。結局、犬童頼兄(相良清兵衛)の
一族全員が討ち死、自害した(お下の乱)。



相良清兵衛の地下室
寛永17年(1640)、『お下の乱』を描いた人吉城絵図では、相良清兵衛屋敷内にあった二階建て『特仏堂』、その息子の
相良内蔵助の屋敷内にある『蔵』と書かれた建物にあたる場所から地下室は発見された。
これらの地下室は、石段の降り口、踊り場、方形大型の井戸、黒色の小石敷き、その下のスギ板敷など構造上、
非常に酷似している。

地下室が造られた時期は、江戸時代の慶長年間(1596~1614)に建造されたと推定される。
寛永17年(1640)の『お下の乱』直後に破壊され埋められた。

相良家に関する古文書等に記録として残っておらず、造られた目的、どのように使われたかは不明で、謎を秘めた遺構である。