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男尊女卑という岩盤

No.226(2019.08.19)


男であるということがそれだけで既得権益になっている、と私が初めて自覚したのは都会を離れて田舎暮らしを始めた時でした。

東京で暮らしていた成長期に、社会で男であることが女であることと同じではないらしい、とは感じていました。

私が育った時代の東京では、性差による区別は家族も含めた周囲の人たち全員の共通認識だったと思います、本音の部分では。

ただ、戦後に民主主義教育をするようになったために表向き、たてまえ上は男女平等であるかのようにふるまう、という二枚舌的な言動をするのが一般的でした。

男に生まれて良かった、と無条件手放しに考えたことはなかった理由かもしれません。

ところが私が移住した昭和末期の農村ではまったく異なる状況でした。

長男が家を継ぐという家督相続制度がなくなり、必ずしも家父長制がすべてではないという世の中になっていた都会とは違う世界でした。

新参者として初めて参加した集会ですぐに分かりました。

集落の会合に出席する各世帯の代表は男でなければならないのです。

ですから、後継者がいない家に一人で住んでいる高齢の女性は、列席しないでお勝手でほかの女性と一緒に裏方さんをしていました。

厳しい表現をすれば、実質的な議決権の剥奪、でしょうか。

ただし後になって分かったのは、男尊女卑の程度には多少の地域間格差があったことです。

それでも、都会育ちの人がいきなり接したら、時代錯誤ではないかと感じるような旧態依然の様相である点は共通していました。

ここで正直に告白します。

最初は男尊女卑のひどさに驚いた私でしたが、慣れてくると心地よく感じるようになっていたのです。

ここでは男は根拠なく威張っていいんだ、と。

ある種の男性天国ですね。

既得権益は絶対に手放さないと居座り、規制緩和に強硬に抵抗する人たちに共感を覚えてしまいました。(苦笑)

集会は典型的な例であり、農村社会のすみずみまで男尊女卑的なものがゆきわたって仕組みとなっていました。

そこでは男女ともにそれが当然と考えているようで、違和感をもっているのは私だけのようでした。

生活に根ざした価値観、感覚に対しては、異なるものと接して相対化できない限り、疑問をもつ機会はないのでしょう。

優劣を表わす男尊女卑はもってのほかだとしても、性別にもとづく役割分担や、求められる「らしさ」は強固な観念として一般社会に定着しています。

差別と区別の境界線はどこにあるのかも微妙な問題ですし、歴史や文化的背景が関係関与している部分もあるでしょう。

このところ要人のセクハラ発言が問題にされることが多くなっています。

地方選出の国会議員などは前述のような男尊女卑どっぷりの社会で暮らしてきたのですから、思っていることが口に出ただけでしょう。

結果として社会の多くの人たちに不快感を与えたとしても、言論の自由があるわけですし、価値観の転換を強制したり、思想改造をすることはできません。

だからといって、その種の発言を「言葉狩り」として糾弾して個人攻撃し、社会的地位を奪って溜飲を下げる行為に私は意義を認めません。

社会の性差別問題を解消することになんら寄与しないからです。

多くの男尊女卑的考え方をする人が存在することは事実だと思いますし、私はその人たちを尊重して堂々と発言することも認めるべきだと考えます。

私自身は男尊女卑的価値観には反対ですが。

一番の問題は社会制度や世の中の仕組みに男尊女卑的価値観が反映されていることです。

日本人であれば男女ともに多かれ少なかれ男尊女卑的考え方が心の中にあると思っています。

多様性を認めるのであれば意識改革を強要するのも変な話です。

意識、価値観ではなく制度、仕組みを改善すればいいだけの話だと私は考えます。

大学医学部の入学試験において、採点時に性差などによる差別があったことが明らかになり、改善に向かったことはひとつの前進です。

心身が健全ではないと認定されている人たちや、LGBTQの人たちなど、社会的弱者への差別意識が根深いことを多くの人が自覚するようになりつつあります。

あらゆる差別問題のおおもとは男尊女卑にあると感じます。

土台にある強靭な岩盤を砕くことから始めなければ何も変わらない気がします。


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