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「知る」と「分かる」(2)

No.222(2019.04.14)


旅行に行けば旅先でその土地に住んでいる人たちと知り合うこともあるでしょう。

会話をし、場合によっては一緒に行動する機会もあるかもしれません。

国外への旅であれば外国語、国内旅行なら方言に接するなどして実際の使われ方を知ることができます。

行動パターンやリアクションに新鮮さを感じるとしたら、自分の予想とは異なったものだったからです。

つまりは土地土地に伝統、文化、慣習などがあり、当地の人々の価値観、思考や行動パターンを規定しているからだと考えられます。

交流を続ける期間が長くなるにつれ、個性とは別の土地に根ざした気質や行動原理を知ることになるでしょう。

自分の接し方の違いで相手の反応がどのように異なってくるのかを予測できるようになったとします。

この状態は相手のことを分かったと言えるのでしょうか。

言って言えないことはないのかもしれませんが、私はそうは思いません。

相手に何かをインプットした際のアウトプットパターンを学習したに過ぎないのではないかと考えています。

心の中で何が起こっているのかをうかがい知ることはできていないのであり、相手の心理は見えないブラックボックスのままだからです。

人間の感情は複雑なので、相手の喜怒哀楽を表情だけで判断できないことが多々あります。

旅行者であれば多少の掟破り的言動が許されることもあります、しかも本人が気がつかないままにかもしれません。

移住者となればそういうわけにはいきません。

かといってその土地での生活上の約束事を手取り足取り指導してくれるとは限りません。

私が田舎暮らしを始めた時には、まず最初に土地の人たちと同化する意思があるのかどうかを婉曲に問われた気がしました。

郷に入っては郷に従えということだったのでしょう。

当時の私は素直に受け入れ、都会での常識である合理性や身につけていた即断即決癖を封印して過ごすことに決めました。

自分を殺した、と言い換えることもできます。

そうして土地の人たちと日常生活や行事をともにし続けているうちに、自分が同化し始めていることを自覚するようになりました。

外面を合わせているうちに内面にも変化が及んできたのです。

もちろん土地の人たちと完全に同化するなどということは同じ日本人でも不可能です。

5年くらいそんな暮らしをした後、かなりの部分で心情的に土地の人に近くなりました。

情が移った、という感じです。

皮肉なことにそれが農村を離れる理由にもなったのですが。


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