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絶対服従か村八分

No.96(2002.09.23)


私が個人的体験から感じたのは、古くからの住人が多数を占める農村集落でよそ者が暮らす場合には、表題のような二つの選択肢しかないということでした。

絶対服従というと大袈裟に思えるかもしれません。しかし都会で育った人間に対して伝えるには適切な表現だと考えます。

服従といっても何かひどいことを無理矢理やらされるわけではなく、集落の昔からの慣習に従わなければならないということです。
たとえそれがどんなに不合理で明らかに時間を無駄にするようなことであっても、という注釈がつきますが。

それではそれを無視したら直ちに村八分か。

というような極端なことにははなりません。

先ずは時には強く、また時には弱く、集落の住民から従うよう促されます。

私の場合は最初から溶け込もうと思っていましたし、ほとんど自宅に居るという生活でしたからご近所さんとは無難に付き合う必要もあり、自分から率先して慣習を学ぶ姿勢で貫きました。

プライバシーがどうのこうのと騒がずどっぷりつかってしまえば、それはそれで非常に快適な社会ではあります。

当時私が居た集落には、昔からあったと思われる古い建物なのにほぼ村八分扱いの家が1軒だけありました。

先代が亡くなった後に、それまでよそで暮らしていた後継ぎの息子さんが離婚して子連れで帰って来たという家でした。
ご主人の仕事は大型トラックの運転手でほとんど家には居ないという暮らしぶりでしたから、近所付き合いはありません。
以前に載せた葬式の際に手助けする隣組だとか公民館の共同清掃作業にも一切顔を出しませんでした。

なんせ8年間住んでいた私が集落の年度末総会で一度顔を見ただけというくらい集落とは疎遠な人でした。

集落の住民達もそんな態度に不服はあったものの、何故か欠席の場合に通常は課す罰金をその人からは徴収できないでいました。
恐らくその人にとっては集落の慣習に従わなくてもなんの不都合もないことを地区民も察していたからでしょう。

一般的に言えば全戸が専業農家であるという集落を除けば慣習を厳守する必然性は既に消失してしまっている、というのが現実なのです。

私が住んでいた集落でも皆薄々そのことに感付いていました。
しかしいざ変えるとなると皆が自分勝手なことを言い出して収集がつかなくなる、ということを現状固持の根拠としていました。

同じ理由で個人が勝手に自分なりのやり方をすることは全体の秩序を乱す原因になるとみなされるため、地区住民が全員きっちりと慣習に従わなければならなくなるのです。

さらに当集落では前長老が老害を撒き散らし後継者を育てずに何期も議員と公民館長を兼任してきたという悪しき歴史があったのでした。

やはりリーダー不在では色々な対立する主張を束ねまとめることができないのでしょうか。

私にはそういうことが自己改革できない原因には思えませんでした。

地区住民は皆ある人が何か意見を述べても、その内容の良し悪しではなくその人の人格、人間性、普段の言動を基準に判断していました。
当然現状追従型の人間の方が評価が高いので結果として空前な意見には耳をかさないということになります。

このようなそもそも本当の意味での話し合い、議論というものが不可能な土壌では、まだまだ長老格の「鶴の一声」が必要なのです。


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