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実演販売の罠

No.65(2007.03.05)


建築後10年を経過した我家のトイレに設置してあるのはピンク色をした洋式便器である。

10年も経つと、便器内の水面周りに汚れが付着し、ブラシでこすったくらいでは取れないのだ。

家人が使う分には差し支えないのだが、客人を迎える際には何か気恥ずかしいものである。

デパートの実演販売で、そんな頑固な汚れも簡単に落とせる、と妙に説得力のある口上を耳にしたのは昨年のことだった。

普段の私であれば、「嘘ダネ!」、と一蹴するところであるが、この時は連れ合いともども、思わず立ち止まって聴き入ったのである。

上手い、じょうずい。

立て板に水、横板にパチンコ玉である。

ふと気付くと、連れ合いは質問までしているではないか。

お掃除大嫌い夫婦を、ここまでやる気にさせてしまうとは、熟練の話芸、恐るべし。

一通りの実演が終了すると、即座にトイレ用洗剤だけではなく洗面台用洗剤まで併せて購入していた。

どちらも市販のそれよりも一桁高い価格であるにもかかわらずである。

買って安心怠け者、である我々のことであるから、連れ合いがその洗剤を用いてトイレ掃除をしたのは、数ヵ月後のことであった、らしい。

先日のこと、用を足した私が何気なく、例の洗剤で掃除してみたら、と連れ合いに言った時の返答が、もうしたよ、だったことで知らされたのである。

詳しい説明を求めたところ、実演販売において解説されていた通りのやり方で掃除が成されたことが分かった。

それでも汚れが落ちなかったわけである。

その時、口車に乗る、という慣用句が心に浮かんだ私であった。

今思えば、実演のために意図的にこしらえられた汚れと、年月を経た本物の汚れでは、本質的な差異が存在するのではないか。

実演時に使用していた洗剤は、販売されていたものと同じ容器に入っていたものの、中身が違うのではないか。

異なる種類の洗剤であるとか、同じ洗剤でも濃度が異なるとか、である。

連れ合いは私に、その洗剤を使ってもう一度同じ方法で今度は私がトイレ掃除をするよう促すのである。

まだ信じているようなのである。

どうやら詐欺師ペテン師でも、相当上級の部類の人と遭遇してしまったようだ。

その実演販売員が、もう一人と交代して休憩している際の暗い横顔を、私は見逃さなかった。

連れ合いから、口数が多過ぎて五月蝿い、といつも叱られている私が、もし実演販売員という職業を選んでいたら。

家庭内では、存外無口でいられたのではないか、と考えると、苦笑いしてるのであった。


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