草文のあゆみ

明治2年(1969年)11月,山口県玖珂郡(くがぐん)愛宕町(あたごちょう)に生まれた久保 芳(くぼ よし・写真2)は,後世に博多市の住職の娘 西村 規矩(きく・写真3)と養子縁組となる。以来,雅号を「西村草文」,息子の昇治郎は「西村圭文(けいぶん・写真4)」とした。父子は幼少より画道に志し天分に恵まれていた。京都日本画壇の中心勢力であった江戸時代(1600〜1867年)は中期の四条派。その画風をくむ谷 文晁(たに ぶんちょう・1763〜1840年)の筆意を慕い,草文親子の作品の背景となった。

緻密な彩色画。

輪郭や下絵を描かない没骨法(もっこつほう)。

軽妙な筆勢には柔らかさ・堅さ・鋭さを表現。また,書と一体となったスピードとリズム感は水墨画をはじめ,作品の随所に表現されている。構図は黄金分割をとり空間の美は,絵のもつ深みや広がりを表現している。また,親子は禅の信仰にも厚く,禅発祥の地中国をこよなく愛し,巡歴していた。一方,能狂言の世界「梅若派」にも所属し,その始終を会得。この2つは心の支えとなる。自分の足と眼で自然を観察し,山水・花鳥・人物画と多くの作品に生かされている。作品の中で能画はもっとも得意とする分野であった。京都の南禅寺は2人にとって精神鍛錬の場であり,画作の場であった。草文の作品から写真5「月下の猛虎」写真6「紅葉狩り」写真7「屏風・秋の七草」をお楽しみ下さい。

参考掲載・・・写真8の「唐三彩馬」は当館の全焼き物中の逸品である。草文の作品から写真6の「能画・紅葉狩り」の内容を歴史的な背景とともに説明します。

ひと時雨(しぐれ)ごとに七変化する紅葉,山里の秋は静かに深まる。紅葉見物とシカ狩りに平安末期の武将,平 維茂(たいらのこれもち・余五)は出かける。獣道(けものみち)を奥山深く登ると,美しい衣装をまとった高貴な美女と行き交う。ところは信州戸隠(とがくし)山。馬上に跨(またが)る維茂と太刀持ちの従者。重藤(しげとう)弓を手に,背中には弦(つる)をはなれると唸る鏑矢(かぶらや)。遠くで雨に濡れ鳴くシカの奇声。紅葉を愛(め)で酒盛りを楽しんでいた美女の一人,ここぞとばかりに維茂の袂(たもと)にすがり,言葉巧みに寄り添う。ついに菊の酒(不老長寿)を頂き,舞い踊る美女を前に盃は重なる。我が身かと疑うほどに陶酔。ついに自戒を破り虎渓三笑(こけいさんしょう・戒めを破り快楽へとのめり込む)。仏の十戒に飲酒(おんじゅ)戒があり,破ると邪淫(じゃいん)戒や妄語(もうご)戒と怪しくなる。まだまだ大丈夫と思ううち,ついに心は乱れ,花葛(はなかずら・美女)の罠に絡まり,不思議な魔力で心地よい眠りの淵へと沈む。酔い臥すを見た舞女。妖艶(ようえん)な姿で扇を前に立て,静かに近寄るや欣喜雀躍(きんきじゃくやく・雀が小躍りして非常に喜ぶ)。正体はこの山に住む「戸隠の鬼女」であった。夢から醒めた維茂の前には,凄惨な殺気で耳元まで裂けた口でわめく妖怪。身の丈一丈(3メートル),角鋭く雌丑(めすうし)の「い」の字型,眼光は日月に輝き,打ち杖振り上げ襲いかかる。「南無八幡大菩薩」。馬上より太刀にて斬り払うが,身を翻(ひるがえ)し巖上(がんじょう)へと舞い逃がす。鏑矢(かぶらや)を素早くつがえ喉首(のどくび)を射抜く。壮絶!馬より降り見たその顔はまさに般若(はんにゃ・恐ろしい鬼女)。髪は小きれいに櫛を入れるも,牙の鬼歯(八重歯)は鋭く上顎を突く。奇声に驚いた愛馬は後ろ足で地面を跳ね楓の樹を蹴る。飛び散る血花を舞い落ちる紅葉に・・・。名曲「紅葉狩り」の一節から・・・。

 時雨をいそぐ紅葉狩 深き山路を尋ねん これハ此のあたりに住む女にて候

 げにやながらへて浮き世に住むも今ハはや 唯白雲の八重葎(むぐら)

 茂れる宿のさみしきに 人こそ見えぬ秋の来て。

・・・以下の文を,草文は得意とする草書体で掛け軸上部に五行で書いている。

  さかきだに人心乱るるふしハ 竹の葉の露者(ば)かりだにうけじとハ

  思いしかども盃に 向かへ者(バ)か者(ワ)る心かな されバ仏も戒のみちハ

  様々多けれど殊に飲酒を破りなバ 邪淫妄語ももろともに

  乱れ心の花かづら かかる姿はまた世にもたぐひあらしの山櫻

                      よその見る目もいかならん

さすがは武将,美女と酒に悩殺されしところを見破り(並の殿方には難しい),「鬼女狩」となる。800年も前のショッキング。草文の美しい人生70年。自戒の表れであろう。長閑(のどか)な秋の山のお土産は鹿ならず「鬼女の首」とは可哀想でした。

「時雨をいそぐ紅葉狩り・・・」と謡う私の父・節の声が耳に残ります。作品は殿方に対する戒めである。くれぐれも「鬼と酒」にはご用心下され・・・。