草文館設立までのあゆみ

平成10年5月3日,日本画美術記念館「草文(そうぶん)」はオープンした。

西村草文画伯と親交の深かった 節(とまり みさお・明治28年生・写真1)は,長崎県佐世保市に住み終戦の年に海軍少佐であった。草文との出会いは,近くに住む表具師,迎氏からの紹介であった。博多より拙宅を訪ねた草文は,手みやげか宿賃なのか絹布絵や短冊絵・色紙絵とプレゼントしていた。三泊・四泊しては昼間に絵筆を握り,暗くなると酒客(しゅかく)を楽しみに軍艦勤務を終えた節と,豪快な高笑いをしては作品の意味するところを語りながら盃を酌み交わしていた。「うちとけて 長夜を酌むや 明けの月(草文)」からもその席がしのばれます。多くの作品は節に託されていたが,昭和18年長崎・佐世保の大空襲,作品は節の郷里鹿児島県加世田市へと,一家とともに疎開し,戦火から免れた。

60年の歳月は経つ。

(その間,ルース・枕崎の超大型台風に直撃されるも雨滴1つの被害も受けなかった。)

生前の両親(節・クワ)は「草文一家の顔写真,とその子孫に会いたい,草文記念館を造り後生にその偉業を残したい」の念願も果たせずに八十八の天寿を終えた。次男の,館長 掬生(きくお・昭和11年生)は,父の遺志を継ぎ教職を定年退職し「草文館」は建立された。