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セクレチン・自閉症(9)/

自閉症傾向・多動傾向の脳外科手術の問題点(14)
(軽度の三角頭蓋に対する形成術)


:セクレチン騒動から学ぶべきこと


2003年9月,伊地知信ニ

伊地知信二,伊地知奈緒美.(医事刻々)メディカル朝日 32(7): 60-62, 2003.とほぼ同じ文章です.

     はじめに

 

 医療に客観性が強く求められ臨床の標準化が進む中で,evidence based medicineEBM)の重要性が日々増しつつある.一方,「患者ではなく病気を診ている医師が増えた」とか「病気でもなく臓器を診ている」という批判を耳にするようになって久しい.「全人的医療」の実現のために,患者のquality of lifeQOL)や健康観・疾病観を視野に入れ個々人の精神・心理面に配慮したnarrative based medicineNBM:患者個人の物語・逸話に基づく医療)が重要であることが顧みられつつあるのである1).実際,EBMで得られたデータをそのまま応用できる場面は臨床においてはむしろ少なく,narrative basedアプローチを併せて初めてEBMの実践が可能になるという考えが一般的である2).またEBMの土俵とも言える治験においても,そのアウトカムがQOLや行動変容である場合はNBM的な逸話的・経験的観察でないと見えてこない真実も存在するであろう.例えたった1例の症例経験であっても,「患者を診ている」医師や家族でなければ気づかないような微妙なアイデアがその後の大規模研究につながり,結果的にEBMの効率的な構築に貢献する可能性もあり得る3),4).従ってEBMNBMは相反するパラダイムと捉えるよりも,理想的な医療の二面性と解釈すべきで,両者を上手に組み合わせて実践することが臨床家に求められている.ここでは,無作為化比較試験(randomized controlled trialRCT)でその薬効が否定されている治療法に関する逸話的記述をできるだけ多く紹介し,EBMだけではみえてこない臨床上の重要な可能性を示唆する.また臨床研究が陥り易い落とし穴に落ちないためは,EBMNBMの両方を尊重する姿勢が不可欠であることを強調したい.

 

     奇跡の注射薬セクレチン(アメリカでの実名報道などより)

 

1996年4月,自閉症のParker Beck(3歳半)は慢性の下痢を主訴にメリーランド大学を受診し胃内視鏡検査を受けた.この時に膵外分泌機能検査のためにセクレチンの静脈内投与を受けたことがこの騒動の発端である.セクレチンの注射を受ける前は,Parkerはしゃべれなかった.アイコンタクトが取れずに親に対しても反応がなく,また夜間の睡眠障害があった.ところが驚くべきことに注射後数日の内に彼はしゃべるようになり,アイコンタクトが可能になり,意思の疎通や物を指差して示すなどの行動が可能になり,睡眠障害も改善した.Parkerの母親Victoriaはセクレチン注射の効果として各方面にアピールし,瞬く間に全米に自閉症児に対するセクレチン静注のオープントライアルが広がったのである.1999年3月のテレビ番組でVictoriaはアリゾナ州フェニックスに住むIQ50-60の子供がセクレチン静注の数ヶ月後にIQ120になったことや,発語の無かった12歳の男児がセクレチン静注後に「マミー」と初めてしゃべった例を紹介している.Parkerが胃内視鏡検査を受けたメリーランド大学の医師K. HorvathParkerを含む自閉症3例においてセクレチン静注後に劇的な行動変容(アイコンタクト,注意力,表出言語における改善)が見られたと報告し,この論文が本件に関する最初の医学論文となっている5)VictoriaによるとParkerはセクレチン静注を繰り返すごとに何らかの明らかな行動上の改善があり,改善した部分はその後元に戻ることはなかった.

 

     その他の逸話的報告とオープントライアル

 

情報リソースAutism Research Institutehttp://www.autism.com/)では,自閉症児の父親で自閉症の研究者として知られるB. Rimland氏のセクレチンに関する文章を掲載している.その中にはフロリダの小児科医の4歳の息子Matthewが,それまでに不可能であった正常の会話をセクレチン静注の翌日にできるようになったことが紹介されている.また,ミラクルケースとして,注射前までは2つの単語しか言えなかった5歳児が,セクレチン静注後15分で,「I am hungry. I want to eat.」と言ったことが記載されている.同じくインターネット上の情報リソースであるAutismconnecthttp://www.autismconnect.org/)に発表されたコンテンツには,3歳3ヶ月でセクレチン静注を受けた自閉症女児Meganに起こった変化が記載されている.それまでに一度も2単語文をしゃべったことのなかったMeganは注射して4時間後に「Let go」と言って家族を驚かせ,その後それまではできなかった他人との相互関係を持てるようになった.この少女はその後の4ヶ月の間にさらに3回のセクレチン注射を受け,そのつど行動の改善があり,その後両親が参加をあきらめていた通常の夏季プレスクールに通い,普通幼稚園へ入園予定となった.

 

 また,イギリスからも以下のような逸話的情報を親の手記としてインターネットコンテンツから得ることができる(http://www.greenelk.co.uk/~suu/).Jayden(2歳半男児)の場合,セクレチン初回静注後の第7日目までに,非常にはっきりとした行動上の改善がみられている.驚くほどアイコンタクトができるようになり,親の言葉に耳を傾けるようになり,集中力や忍耐力が劇的に改善し,また学習能力も驚くほど向上した.「寝なさい」とか「お風呂に入ろう」のような簡単な指示に従うことができるようになり,初めて「ノー」という言葉に従った.注射前には親に対する愛情を表面に表すことはなかったが,注射後は親に甘えたりキスをしたりするようになり,また兄弟や他のお友達と遊ぶようになった.さらに,注射後は部屋のすみ1人っきりで座っていることがなくなった.その他,注射後にトイレ訓練が進み,癇癪をほとんど起こさなくなっている.Daniel(1歳9ヶ月男児)の場合,セクレチン静注後3日を過ぎてからそれまで完全に受身的であった食事を自分でスプーンを使って食べるようになって家族を驚かせている.また,Danielは注射前までは,自閉症児にしばしばみられるつま先歩きをするくせがありよく転倒していたが,注射後5日目に(つま先歩きのくせがなくなり)転ばなくなっている.また,一過性ではあったが7日目には友達と遊び場で追いかけっこをしている.

 

 このように明らかに有効と思われるケースはセクレチン投与例の中の一部というわけではなく,アメリカでの数千例にも及ぶオープントライアル例の実に75%で,1回あるいは2回のセクレチン静注が自閉症児に行動上の改善をもたらしたのである6).また70%のケースで中等度から著明な効果があるとした報告もなされた.ところが,その後10件を超える無作為化比較試験(多くはクロスオーバー法)が行われ,その結果は親の誰もが予想しなかったものとなった.

 

     無作為化比較試験(RCT)はセクレチンの効果をほぼ否定

 

RCTの厳密な評価では,プラセボ静注群とセクレチン静注群の間で行動変容の有意差を検出することができなかった6),7).もちろん,消化管症状のある特殊な一群で有効である可能性や,評価スケールの感度が低すぎるなどの議論は残るが,少なくともオープントライアルの時に多くののケースでみられた明らかな行動の改善は,残念なことにセクレチンによる特異的なものではなかったのである.複数のRCTを解析すると,セクレチン投与群と同じ程度にプラセボ(生食)を注射された自閉症児に行動評価上の改善が観察されていることが証明されたのである 6)

 

     RCTの結果をふまえ逸話的観察から見えてくるもの

 

前述したように多くのケースにおいて親の目の前で起こった自閉症児の劇的な行動変容は,単なるプラセボ効果だけで説明できる域を遥かに超えているように思える.通常のプラセボ効果や評価者の過度の期待による評価バイアスが存在しているのは確かであるが,オープントライアルとRCTの結果のギャップを全て説明することは不可能であろう.注射の痛みによる効果,注射をするための説得や抑制の効果,注射に関連する医療スタッフや家族との触れ合いの効果,そして評価期間における自然発達など多様な可能性を検討する必要があるが,そのような解析は十分には行われていない.はっきりしていることは,かなりの自閉症児が非特異的なエピソードに敏感に反応して行動を変容させることができるという事実であろう.そこで,これまでに蓄積された観察的・経験的な知見を再確認してみると,合併疾患がない自閉症においては「できるのにしようとしない」という共通の特徴が障害の背景となっていることが実はよく知られているのである.これは自閉症のより本質的な特質である興味やモチベーションやこだわりの問題が言語や運動機能や知能のその時点の到達点に強く影響している結果と考えられている8).運動機能障害やつま先歩きなどの原因になるような脳障害や麻痺は通常存在せず,本人にとって面白い対象がある場合の運動能力とない場合の運動能力は大きく解離する8).また自閉症児に高頻度にみられる姿勢異常は目隠しをして不安定な足場に立つと改善する(健常児はこの逆)9).また,言語に関しては親もいっしょに行う早期介入プログラム(行動療法)が有効であることがEBMの視点からも確認されており10),知的能力についても自閉症者は「high intelligence, low IQ」と表現されるほど真の能力評価は簡単ではない11まったくしゃべらないのにタイプライターやワープロで詩や本を書いている自閉症者の存在も知られている12,13).従って「非特異的エピソードが興味やモチベーションやこだわりの状態を変容させ得る」ことを自閉症の特徴のひとつと考えれば,多くのセクレチン投与例で観察された非特異的な行動変容は容易に理解することができる.歩けなかった子供が歩き出しても,全くしゃべれなかった子供がしゃべり出したとしても,またIQが急に2倍になっても,それはセクレチンの薬効ではなくむしろ関係者がいっしょうけんめいであることの証であることを,世界中の真の臨床家たちは最初から知っていたであろう.

 

     おわりに

 

現時点でも,香港では舌の針治療が自閉症に有効と考えている専門医が存在し14),また沖縄では軽度三角頭蓋の形成が自閉症児の発達環境を整えるとして脳外科手術が次々に行われている15).このような治療法の根拠は,オープントライアルのレベルであって,セクレチン騒動で得られた教訓は全く生かされていない.また自閉症の本質について長い年月をかけて積み上げられてきた観察的・経験的知見に目が向けられていれば,治療後にみられる行動変容の解釈ももっと慎重になされるはずである.EBMの時代に過去の観察的・経験的知見を軽視して顧みない姿勢が生まれており,さらにEBMに関しても誤った解釈(症例数が多ければエビデンスとなる)があるとすれば深刻な状況と言わざるを得ない.


文献

1)      Greenhalgh T, Hurwitz B. BMJ 318: 48-50, 1999.

2)      Greenhalgh T. BMJ 318: 323-325, 1999.

3)      伊地知信二,熊本一朗.EBMジャーナル 1: 210-214, 2000.

4)      伊地知信二,伊地知奈緒美.小児の脳神経 27: 397-400, 2002.

5)      Horvath K, et al. J Assoc Acad Minor Phys 9: 9-15, 1998.

6)      Dunn-Geier J, et al. Developmental Medicine & Child Neurology 42: 796-802, 2000.

7)      Patel NC, et al. Pharmacotherapy 22: 905-914, 2002.

8)      平井信義.小児自閉症:自閉症を再考する(改訂版).日本小児医事出版社,1985.

9)      Minshew NJ, et al. In. Handbook of Autism and Pervasive Developmental Disorders (2nd ed). John Eiley & Sons, Inc., 1997.

10)  Diggle T, et al. Cochrane Database Syst Rev, issue 1, 2003.

11)  Scheuffgen K, et al. Dev Psychopathol 12: 83-90, 2000.

12)  Rocha A, Jorde K. A child of eternity. Ballantine Books, 1995.

13)  O’Neill JL. Through the eyes of aliens. Jessica Kingsley Publishers, 1999.

14)  BBC news, Monday 25 June, 2001.

15)  Ijichi S, Ijichi N. Lancet 360: 415, 2002.


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