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山下清の放浪日記



池内紀(いけうちおさむ)編、五月書房
ISBN4-7727-0255-5 C0395 P1700E

自閉症を知っている人の中には、テレビのドラマで有名な山下清が自閉症ではなかったかと考えている人は多いと思います。私も以前からそういう印象を強く持っていましたが、この本の内容(山下清の日記)から、彼の自閉症的側面を考えてみようと思います。

山下清は、貼り絵の芸術家として世界的にも有名で、作風の類似から「日本のゴッホ」と呼ばれているそうです。本のカバーには、32歳の時の「草津温泉の露天風呂」と29歳の時の「山の頂上から見た景色」というすばらしい作品が紹介されています。色彩には統一性がみられ、露天風呂の方は緑っぽい色に、山の方は紅葉の黄色っぽい配色になっています。高い評価を受けている作品のほとんどは、後で思い出しながら描いたもののようです(参考文献)。彼の眼に入ってくる景色の細部に対する集中力は、視野の中央でも辺縁部でも、あまり変化がなく、視界全体を一定のリズムで(一枚の絵として)とらえているような印象を受けます。露天風呂の絵には、中央に滝が描かれていますが、滝つぼでの水のはね方は、観念的な描写になっていて、おそらく彼は、「水が落ちたら四方にはねる」という思いをそのまま写実しているようです。また、温泉に入っている人々の脱ぎ置かれた洋服と下駄は、ほぼ描かれた人数ぶんあるようです。服は離れた所で脱いで、下着は温泉のすぐそばで脱いだ人もいることが分かるようになっています。両方の絵に描かれている人の体の向きは、こちら向きか、むこう向きか、横向きかの三つのパターンしかなく、斜めの人は一人もいません。また、何かにさえぎられて、部分的にしか描かれていない人は例外的で、木や建物の間にそれぞれの人のほぼ全身が描かれています。自閉症児が描いたすばらしい絵を見たことのある方は、山下清の作品のこのような特徴の中のいくつかが、自閉症児の作品の中にもよくみられることを御存知と思います。

芸術的才能は、知性の重要な要素のひとつであります。絵を描くことを「仕事」としてとらえるようになってからの作品に対する評価は分かれるようですが、山下清の知的発達における優れた点(芸術性)と遅れた部分(一般的には清の発達障害は精神遅滞だけと考えられているようです)の混在が、私たちに彼が自閉症ではなかったかと思わせる出発点のひとつであります。

(山下清の発達障害)
ノーベル書房から昭和56年に出版された「山下清の絵本」という本(参考文献)によりますと、山下清の家族は、清が生まれた翌年に関東大震災で焼け出され、職も失い新潟へ移り住んでいます。苦しい生活の中で3歳になった清は、ひどい消化不良にかかって、3ケ月間寝込み、その後にどもりが始まったと記されています。小学校では、成績が悪く、“かくれ休み”をするようになったようです。その後、父親が死に、母親は生活のために再婚、そしてまた離婚、そして杉並の小学校に転入した清は(おそらく“いじめ”か何かがきっかけのようですが)、刃物を持ってパニック状態になったようです。その後、施設(八幡学園)に入所しています。1〜2歳の頃の情報がなく、また“かくれ休み”以外の問題行動の程度も不明です。小学校の時に、「いたずら」や他人に迷惑をかける行動がめだった一時期があったようですが、具体的な行動内容がはっきりしません。しかし、社会性の獲得や学力に関しては、退行した時期の記載もありませんので、やはり発達障害と考えていいようです。

山下清の日記は、短い単調な文節が一文の中に複数あり、時に一文中の各文節の意味のつながりが十分でなく、助詞の使い方が不適当なところもあります。文章は、視覚的・時系列的描写で、彼が思ったことや思いだしたことは、日記のストーリーの中で思ったところ/思いだしたところに記してあるような場合が多く、しばしば感想や回想が文章の中に散在しています。漢字の苦手な私からみると、多くの漢字を正確に使っており(少しだけ当て字があるようです)、このことは自筆の日記の写真で確認できています(参考文献)。日記の写真では、漢字や仮名の一画一画の関係は正確に書いてあり、ほぼ同じ大きさの小さな字がぎっしりと並んでいますが、筆圧(鉛筆による字の濃ゆさ)が、書家の書道の作品のように、時々ランダムに変化しているところは、寛くんと同じなのでびっくりしました。日記の内容は多彩ですが、暗喩的な展開はほとんどなく、出来事と感想の積み重ねが、話しことばで綴ってあります。自分の行動の理由づけはよく書いていますし、抽象的な概念に対しては、具体的な内容に置き換えて表現することにこだわっており、物事の類似点を指摘する能力は長けていたようです(いろけに関する考察:“いろけの話”p170〜)。そもそも、日記は放浪の後に、まとめて思いだしながら書いていたようですので、会話の内容の一言一句を(おそらく)正確に記憶できており、また、地名・駅名(駅の順番も)や登場人物の呼び名・年齢などは、(おそらく)一度聞いただけで全部覚えてしまうようです。巡査に「お金はどこの郵便局で両替したのか?」と問われて、思いだせなかったエピソードも書かれていますが、概ね、単純暗記力はすごかったようです。従って、山下清は、“社会適応ができず、表面上は気づきにくい優れた単純暗記力を持ち、成績の悪い芸術家の発達障害児で、いくつになっても子供のような心をしていた”ということになり、ますます自閉症っぽくなってきました。

(自閉症の診断基準)
山下清の自閉症的側面を、アメリカ精神医学会の診断基準DSM-IVの各項目に沿って、可能な範囲で分析してみましょう。

1. 対人的相互反応(社会性)の質的な問題については、年齢相応の仲間関係がつくれなかったことは予想されます。その他の項目については、情報が少ないため判定困難ですが、社会的相互性に乏しかったことも、彼の行動の中の非社会的部分と放浪癖が示しています。しかし、成人してからは、絵を描くことを「仕事だから」と表現し、作風も描き方もより写実的に(作品のための作品に)変化していったこと(参考文献)を考えると、社会的相互性が欠如しているとは言い難いと思います。情緒的相互性の問題があったであろうことは、日記での母親との会話の描写と実際の母親の清への思い入れが解離しているような印象を受けること、また、日記の内容に相手の気持ちや感情に関する記載が乏しいことなどから推測されます。

2. コミュニケーションの障害は、話し言葉の発達の遅れに加え、「お前は毎日同じ事ばっかり云っているから、おばさんはもう返事しないよ」(p150-151)と言われたりしていますので、実際は、日記から予想されるよりもさらに常同的な言葉の使い方をしていたようです。

3. 常同的運動や儀式の記載はありませんが、こだわりとか習慣という点から言えば、放浪・逃げ出すことへのこだわり、機械のしくみ(p51)や言葉の意味(p170)に対するこだわり、選ぶことへのこだわり(p182)、飯を貰うための“うそ”のワンパターンなどたくさんあります。部分にこだわって全体を把握できない傾向はあるように思うのですが、彼の日記からは具体例は見つかりません。

以上がDSM-IVに沿った検討ですが、この他、彼の行動や言葉は、行為障害としての“うそつき癖”、どもり、恥ずかしがることの欠如(p145)などを含んでいます。

(結論)
DSM-IVを使った検討では、少なくとも、小児期までの山下清は、自閉症の診断基準を満たすとして問題なさそうです。


(参考文献)
山下清の絵本、式場俊三監修、ノーベル書房、昭和56年



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