生徒指導と内観療法

 ただいま御紹介いただきました竹元でございます。大変過分な御紹介をいただきまして恐縮しております。実は昨日知覧に行き大変予想以上の方々がお集りいただきまして,いじめについてのお話をいたしました。私は精神科の医者でございまして,これまでアルコールの患者さんの治療を中心にやってきたわけであります。アルコールの患者さんの治療をするために「内観療法」というものを使ってやっています。「内観療法」とは一言でいいますと,自己反省の方法であります。けれども反省しなさいといってもなかなか反省しないのです。他者非難・責任転嫁になって,本当に自分をみるということをしない。そこでなにかよい方法はないかということで探し求めておりましたら,この内観療法に行きついたのです。これをアルコール依存症の患者さんに適用してみましたら,随分よい効果を得たのです。そこでこの方法を今度は,青少年に,適用してみました。一番最初にシンナーの子ども達に使ってみますと,まあ凡そ5割の確率でよくなるという成果がでました。そのうち不登校の子ども達が年々増加して参りました。その不登校の子ども達にこの方法を使ってみましたら大変よい結果がでました 。
 ところで,不登校といいますと,これまで人間関係だとか,その子の生い立ちや生活環境に原因があって問題を起こしてきたと思ってきました。そして中学・高校あたりで学校に行かなくなる,行けなくなるという子ども達が非常に多かったと思います。しかし,この十年ぐらい前から,(昭和60年あたり)少しいじめによる不登校がでてきたと思っております。最近の不登校は,ほとんどいじめ不登校だというぐらいになっているのが実感です。これまでは不登校の子どもの相談は「お父さんは,どうなの」,「お母さんは,どうなの」。というあたりや「幼稚園のころはどうだった」というあたりの話から始めていましたけれど,今ではもう不登校となると,いじめのことから探るという作業をしていると言っても過言ではありません。それほど今の不登校は殆どいしめが原因だと言ってもよい。しかし,過去において,学校の中での問題を精神科医の立場からずっと見ておりますと,これまで例えば校内暴力だとか,睡眠薬遊びなどのさまざまなフィ一バーがあったわけです。これら問題行動には流行があり,また対教師暴力まで及ぶといった行為等,いろんな現象が繰り返されてきていました。今は ,まさにいじめという感じがします。これがいつまで続くのかは全く予測できません。これの対応について,多くの先生方やあるいはつい最近では鹿児島のいじめシンポジュウムなどで,弁護士の先生方がシンポジュウムを開くという事態にさえなり,大きな社会問題となってきているわけであります。私ども精神科医もまたどういう役割を担っていけばよいかということになってきています。いじめる側の子は,私どもの病院にはやって来ないのです。いじめられる子どもが何らかの精神的な症状があって,相談にくる数は年々増加しているようであります。実はいじめられているということは先生にも親にも分かっていなくて,不登校という現象でおいでになるというのが殆どであります。子ども達の心の中をずっと探っていくと,いじめがその要因であることに行き当たります。それが高じてうつ状態になったということもあります。うつ病の状態は全く無気力になってしまい,非常に緊張が高まって,体もぶるぶると震えるような発作を起こすのです。また,中学校後半から,高校生に多く,特に女の子の場合など過換気症候群,過呼吸症候群のような発作を起こすまでになった子ども達もおります。注目 しなければならないのは,いじめる側の子ども達もいじめられたという経験に遭遇していることなのです。それは,いわゆる非行少年達であります。シンナーだとか問題行動の子ども達はおおかた学校でいじめをやっている子ども達であります。今まで私が非行の子ども達を預かって分かっていったことですが,十年前は,それほどいじめはなかった。しかし,今来院するシンナーの子どもだとか,万引きをした子どもや窃盗をした子ども等は,ある人に集中的に持続的にプレッシャーをかけています。それは,心理的にも物理的にもそうでありますが,そういったプレッシャーをかけて楽しんでいるというのでしょうか,楽しいって感じじゃないのかもしれませんけれども,ある意味ではストレス解消という形で自分の心のバランスを保つているという状況のようであります


 先程錦江湾の校長先生の方から,子供たちの心を開くということはどうすればよいのか,というテーマがありました。子ども達の心を開くという場合に,心とは何かという問題があります。心というものは,実体は見えないものでありますが,心というものを私達人間は誰でも実感しています。嬉しいだとか,悲しいだとかというのがそれであります。じゃあ,心とは何ですか,という定義になると難しい。心はどこから出てくるのですか,ということに関しても答えは2つに分かれます。私は指宿の看護学校にも講義に行くのですが,その時に,最初に生徒達に聞いてみるのです。一人一人に「心はどこからでてきますか」という質問に2通り答えがでてきます。一つは「(胸をおさえながら)このへんです。」という答え。確か胸のところから出ているような気がします。もう一つは「頭だ。」という答えです。これはクラスをほぼ半分ぐらい分ける感じです。心は胸や心臓のあたりだと感じるのは,これは結果なのです。心の動きに影響されて,心臓がときめき,しめつけられるような思いがするのであります。心臓という字自体が心の臓器であります。あるいは英語のハートという文字も,心という意 味と心臓という意味を両方もち合わせております。洋の東西を問わず,心というのは心臓から出ていると思っていたのです。心臓を切り開き解剖してみると,中は空っぽです。血液を送り出すポンプですから。最近では,心というものは脳から出ているということが常識です。脳は脳味噌という言葉がありますように,非常によく味噌に似てます。やや白味噌の感じであり,スーパーあたりで,味噌をナイロンのパックに入れて売っております。ああいう感じだと思って下されば,間違いありません。
 その脳の働きを1,2,3と分け,電子顕微鏡で見て分かってきたことでありますけど,1番深いところは間脳といって自律神経の中枢で,私たちが眠っていても動いている臓器を管理しているのです。心臓だとか腸だとか胃も自分で動いている。それは自律神経のなせるわざです。ところで,自律神経をつかさどる領域ではありますが,心とは直接関係ないのです。しかし心に非常に影響を与えるところです。心と関係があるのは,2番,3番であり,2番は古い皮質と呼び,本能をつかさどる領域ということになります。これは犬猫も人間も一緒であります。ところが,第3の層は,これは人間にしかない領域なのです。新皮質は,人間にしかない。人間と他の動物との違いと言いますと,人間は言葉を使うとか,火を使うとか,その違いを何十も書き上げることができます。しかし,その最も基本となる原点は何か。それは新皮質があるということであります。他の動物にはない,これでその違いを言いきることができるのです。神様がなぜこんな違いを作ったのか分かりません。新皮質というのはどういう働きをするかと申しますと,記憶という働きであります。これは他の動物にはないのです。この 記憶の働きに似せて作ったのがコンピュータです。第3の新皮質は新しい知識をどんどん蓄え,新しい知識と新しい知識をかけあわせ,さらに新しい物を創造するという力が人間にはあるのです。新しい物を作れるということになりますと,もっとよいものやより良いものを追求することになります。言い換えれば新たな欲求を生み出します。このことで二つの欲求が生じることになります。先天的原始的欲求即ち本能に対して,第3の層は後天的社会的欲求ということになります。この二つの欲求が,心であるということです。心は欲求だと言つてしまえば95パーセント正しい答であると言っても過言ではありません。欲求というものが私達の行動を駆り立てるということになります。私達の行動はすべて欲求に基づいているということです。なぜあんなことをするのだろうかというのは,その奥に欲求があるからであります。しかしながら,人は欲求だけで行動するのでしょうか。心をただ一つの言葉で言い尽くせるのでしょうか。何も考えずにぶらぶら歩くことがありますが,それもちゃんと欲求があるんです。私達の生活は分刻み秒刻み で動いており,たまにはのんびりしたいという欲求があり,それがのんびりした行動を指示するのです。言い換えるとのんびりしたいという潜在意識に基づいて行動するわけです。例えば,予どもが病気になって親がうろたえてうろうろしている。それと欲求はどう関係があるかと言いますと,子供はいつも健やかであってほしいという欲求が潜在意識の中につねにあるんです。それを脅かされる時には私達の心はうろたえる。緊張し不安が起こるという現象が出てくるわけであります。しかし世の中は欲求したとおりに思うようにはいかない。思うことは殆どできないと言ってもいいです。私達の欲求は千も万もある。その千も万もある欲求の中で,すべてそれを行動に結び付けられない。例えば,明日ハワイにでも行きたいなあ等と思っても、まず先立つものが問題となります。時間も問題でありますし,そうたやすくいかない。そういう時に,すなわち欲求不満の状況が起こってきます。私達にはこの欲求不満が山ほど溜まるのです。ましてや子ども達にいたってはもっともっと溜まっているのです。大人はそれなりにお金も持っており,それなりに自分の思うことを少しは実現できるかもしれません。しか し,子ども達には色々と制限が多すぎる。そのために,思うことの何百分の一もできないという状況に追いつめられていくと言えます。桜島の古里に,林芙美子の文学碑があります。あの石碑に非常に有名な誰でも知つている句が書いてあります。「花の命は短かくて苦しきことのみ多かりき」であります。人生は短いのに何でこんなにも苦しいことばかりなのだろうかといって悩む,嘆くのであります。私達が欲求不満の状況を積み重ねるとき,それは苦しいという感情になります。この欲求が行動に結び付けられない時,それをストレスと言っても過言ではありません。暑ければ,涼しくあってほしいと思います。仕事が多ければ,もつと少なくあってほしいと思います。欲求不満はストレートにストレスという表現に変えてもよいと思います。私達の状況はまさにそのストレスの塊だと言ってもよい。中には何のストレスもないという人もおります。けれども,そういう人はよほどできた人か,よほど惚けた人です。
この欲求不満は,子ども達の方がはるかに多いということです。子ども達は,成長の盛りであります。例えば,ジェット機が上空に到達するまで,これが子ども達の教育の期間です。離陸する時は,危険です。ジェット機に乗って東京に行く時,風が南から吹いている時は,南に向かって飛び立ちます。北から吹いている時は,北に向けて飛びます。浮力をつけるために風に向かい,南に飛んでいったとしても,上空で旋回して東の方に飛んで行くということになるわけであります。離陸の時は,大変不安定であります。突風でも吹いたらパーツと飛ばされてしまいます。離陸の時,最大のエネルギ−を使って飛び立っていくのであります。これが,学生時代だということになります。全エネルギーを使って飛び立つことになります。しかし大変な決意制約があります。アテンションプリーズというわけです。すなわちシートベルトをはめて下さい。たばこはやめて下さい。そして携帯電話などはやめて下さい。トランジスタラジオなどもやめて下さい。席を立たないで下さい。トイレは使わないで下さい。さまざまな制約があるんです。これが 学生時代なんです。成長の早い時ほど不安定ですから,たくさんの制約が必要になってくるわけです。しかしそれらの制約は一時のことなんです。子ども達にもこれを声を大にして言いたいのです。「ほんの一時の制約なのですよ」と。飛行機が飛び立って5分か10分もしないうちに水平飛行に移ります。その時はどうぞシートベルトを外してもいいですよ,たばこ吸っていいです,トイレもご自由に,というサインが出ます。しかし,飛行機が水平飛行に移った時は,あとはグライダーみたいなもので,大してエネルギーも使わず,すいすい飛んで行きます。そのわずかな期間に事故が起こりやすいのです。この時子ども達は,この欲求を行動に結び付けるときにして善いことと悪いことを理性のフイルターにかけることが必要であります。つまりこの欲求を行動に結び付けていいのかどうかということ。また,して善いことと悪いことの,いわゆる判断であります。価値判断,言い換えると,理性の判断というのが働くフィルターが大切であります。そのフィルターの機能を高めていくことは社会性を培っていくことです。そのことをいま学習しているわけであります。学習中に間違いがあってもしかたがな いわけで,最初から立派な人間で生まれてくるなどということはないわけでありますから,色々な試行錯誤をし,失敗を繰り返しながら成長していくということになります。この理性の判断は,欲求不満が溜まり過ぎておりますと,疲れてくることになります。精神的な疲労,金属疲労という言葉がありますように,当然精神的な疲労が起こってくると,判断能力が低下してくるという怖さがあります。
そこでこのストレスをどう解消するかというと問題がいくつもありますが,大人の世界では幸い適当なものが揃っているようです。それはたばこや酒,キャバレーやバーなどがそれです。あるいはパチンコもあり,社会にはなんらかの遊び道具が揃っているようです。一方,子どものためには何もない。ところが子ども達がストレスを解消するのに大人のように飲みに行こうかという話になると,それは全部非行ということになります。大変困ったことです。保育園や幼稚園の子どもにとっては遊園地ぐらいでいいのかもしれません。けれども中学・高校生の子ども達のために何が準備されているのでしょうか。なんにも準備されていない。そこでこのストレスをどう解消するかという間題ですが,それが子どもにとっての大きな問題であります。私は,次のように考えます。ストレスを解消するのには二種類あります。それは高次元のものと低次元のものとがあります。低次元には酒・たばこ・パチンコ・マージャン等,憂さ晴らしの類で,これはなんの努力も要りません。そこにあるものを使えばいいのです。その上,すなわち非行と言われ るもので万引きだとか暴走などがあり,その中に暴力だとかいじめだとかが入ってくることになっている。一方,高次元にはスポーツだとか芸術だとか,あるいは色々な趣味です。あるいは旅行であるとか,ハイキングなどがあります。しかもその諸々のものは少し努力しなければいけない。少し練習しなければいけない。柔道をする時でも10回柔道して10回とも投げられるのでは,かえってストレスも溜まってきます。少し上手になって,まあ3回に1回くらい勝つと,スカッとするのです。こちらも少し努力が要ります。絵を書いたり,詩を書いたりも少し努力が要ります。しかし,少しそれが分かるようになるととても楽しいのです。例えば,美術館に行って,本当に感動して,そこに何時間座っていてもいいというような気持ちにめぐりあったりします。そういう世界があるということです。そういう世界の中でストレスを解消していけば,少し心のゆとりが出てくるのです。
 私はつい最近11月10日に先程紹介がありました鹿児島県詩人協会会員でありますので,指宿の”COCOはしむれ”という考古博物館を会場にして朗読会をいたしました。指宿の市民の方々も参加していただきました。その時に小学生,中学生のごく数少ない人達でしたけれど,生徒さん達にも発表していただきました。その詩の中にこういうのがありました。丹波小学校4年生の作品を紹介します。詩の題がいいです。”ムカツク”これは非常に感動的でした。

    ムカツク

今日,いとこのりょうくんにカードをもらいました。

そしてテレビを見ているとりょうくんのお母さんから
「帰るよ」と電話がきました。

りょうくんが「やっぱり返して」といいました。

僕はそれを聞いた時ムカツクと思いました。

そしてけりたいと思いました。

でもりょうくんのお母さんにおこられるから
けりませんでした。

 という詩なんです。ここでちょっと心の余裕がある。ここで少し自分をコントロールできていると思いました。普通はムカツク,けりという方向に行くんですが,そこでけりという行動をピタッと止めたんです,この心のゆとり,余裕というのは,やはり彼がこうして毎日のように日記に詩を書いていることと関係があるのではないかと思います。これは5月3日水曜日天気晴れと書いてあります。やはり情操教育,家庭のしつけ教育というものが,どこか心のゆとりを持たせている。そしてムカツク,けりをいれたいという時に,ここでピタッと自己制御して,自己コントロール,セルフコントロールができている。これがさまざまのストレスで疲れておりますと,この自己制御がきかなくなってくる。判断能力がだんだんきかなくなってくる。そして思い掛けない行動が出てまいります。ここで申し上げていいのかわかりませんが,大人でもそうです。かって5,6年前か,7,8年前でしたか,大隅半島のある小学校の教頭先生が子ども達が飼っていたうさぎを全部殺してしまった。これは全国に報道されました。あれが山のうさぎを捕まえて焼いて食べたという話なら,大したもんだなあという話にな ります。ところが同じうさぎでも子ども達が飼っているうさぎを殺してしまったということになりますと,判断能力がどうかしていたということになります。教頭先生は大学にいって一生懸命勉強して,そして学校で,校長先生を補佐する大切な仕事に就いておられます。その小学校ではうさぎが飼われていて,そのうさぎはweekdayは于供たちが餌をやりますが,日曜日は誰も餌をやらない。歴代教頭先生が日曜日に餌をやるということになっていたようです。教頭先生にしてみれば欲求不満です。日曜日ぐらい学校のことを忘れてのんびりしたいという気持ちがあります。それなのに毎週日曜日に学校に行って,うさぎに餌をやる。大変なストレスです。欲求不満です。うさぎがいなければいいのになあという欲求があったのでしょう。うさぎがいなければいいのになあという願望がうさぎを殺すという行動に結びついたのは,これはあまりにも短絡的すぎます。報道では,それから先は何も書いてなかったのですが.精神科の医者としては,何かあるはずだと考えるのです。判断が疲れ果てて、フィルターもボロボロになっている。そういう状況があったに違いない。それは何故かはわかりませんが, あるいはまあ自分の母親が痴呆化して毎晩うろうろして夜も眠れないという状況があったかもしれない。あるいは自分の奥さんが病気で下の世話までしながら,そして食事まで自分で作って奥さんに食べさせるというような理由があったかもしれない。あるいは自分の子供が非行化して暴走して,夜な夜な息子を捜し回るというような事情があったかもしれない。色々なプライベートな事情を皆さんもかかえているはずです。その事情が判断能力をボロボロに疲れさせるのです。教頭先生でさえそうなのです。であれば,子どもには時にそういう誤りが起こる危険性が高いということになります。そのボロボロに判断力が低下する前にサインがあるということを分かってほしいです。そのことについて精神医学的一般論で申し上げますと,自分の内面的な判断能力が低下してくる段階について,箇条書き的に申し上げます。まず自己不全感です。何をしても満足がない。何をしても面白くない。”やった”という実感がない。次に抑うつ感,気分が沈み,意欲がなくなり,何をしてもうまくいかない。次に挫折感,不平不満,そして不安緊張,疲労 感,やがて意欲の低下,そして自律神経失調症となってくる。体が震える,息が苦しくなる,静かにしているのに汗びっしょりになるといった自律神経失調症状,次には外から見ていて気づくこと。これは外面的に子ども達をチェックする一つのよい方法であります。まず能率の低下,スポーツにしても勉強にしても能率の低下即ち成績の低下につながっていくかもしれません。能率の低下によりミスの増加。作業や試験やスポーツで大変ミスが起こりやすい。次に事故が頻発する。この事故というのは大きい事故から小さい事故まであります。階段を踏み外す,これも事故の一つであります。よく鉛筆を折ってしまうことも事故の一つかもしれません。私の病院には沢山の看護婦がおりますが,その中に注射器を洗いながらよく割る人がいます。だいたい3人決まっています。つねにその人達は問題をかかえております。何をぼうっとしているのかと思います。きっと心の中に何か問題があって頭の回転がどうもうまくいかないのでしょう。力の入れ具合いの調整がうまくいかないのです。そのほか度重なる遅刻,早退,欠席などが出てきやすい。そして勉学意欲の低下,その次に対人関係がうまくいかない,些 細なことで暴力に出たり,判断力が落ちてくると,ちょっとしたことでムカツクのです。例えば,先生方から少し注意されただけで”こんちくしょう”となってきます。そして先生に攻撃してみたり,この攻撃のほこ先を他の弱い者に向けてしまうような現象が起こります。その他に,色々な病気が多発することになります。これは大きな病気でなく,よくかぜをひきやすいとか,肩がこりやすい,あるいは頭が痛い,お腹が痛いという訴えとなってくるのです。保健室にお腹が痛い,頭が痛いと言って駆け込んでいく,いじめられている子ども達は最近は非常に増えているようです。その時保健室の先生が腹痛の薬をくれて,それで終わってしまうことが日常的です。そういう子ども達が沢山いるので,養護教諭はそれから先に突っ込んでいかれないほどお忙しいのでしょう。その次には飲酒につながっていきます。アルコールを飲んだりするなどの問題行動になるのです。

 先ほどの教頭先生の問題もそうです。この問題行動が,いじめということで起こってきてもおかしくない状況であります。そこでいじめられている子ども達にいったいどうすればいいのかを必ず聞くことにしている。いじめられたこともない人間が考えてもたいした知恵はでてこないのです。それから沢山の本も読みました。それに関する話や講演,シンポジュウムなども聞きに行ったりしました。大方の先生方がおっしゃる対策は30年先かもしれない。非常に時間のかかるお話である。確かに地域のコミニティー,ふれあいを推進することも,今から始めても成果がでるのは20年30年先になればできるかもしれない。そういったお話が非常に多いです。今,何をするかということが非常に大切であります。それは私達が考えるより,いじめられている子どもに聞くと,ああしてもらいたい,こうしてももらいたい,という思いをいっぱい胸につめ込んでいるのです。その子どもから私は聞いているわけであります。まず,いじめ対策について少々述べてみます。その話は殆どいじめられている子ども達の気持ちの中に一杯つまっていた ものを聞き出しただけといってもいいのです。
 まず学校での道徳教育をきちんとやってほしいと言います。
例えば,人より上にならなきゃ気がすまない。人を蹴落としてでもというような風潮が一杯ある,相手の気持ちを理解して思いやる気持ちは少しもない,ましてや社会的マナーもメチャクチャだ,と言っているんです。道徳教育の時間に,弱い人や病気の人,障害を持っている人々を助けていくというような教育が必要ではないかと言うのです。逆に道徳教育の時間はどんなことをしているのかと聞いてみますと,小学校では,道徳教育のビデオを見て感想を述べるだけと話してくれます。中学では,自習の時間になっている。高校ではそんな科目はありませんと言います。もっとこの時間の充実をお願いしたいものです。
 ところでよくいじめの問題で話題にされるのは,いじめている子どもの価値観と,それをはやしたてる観衆の価値観とが殆ど一致している。いじめる子は1人でも,その周りにいる観衆と呼ばれる子ども達の価値観は一緒であり,まだ手をくだしていないだけで,思いは一緒だという人たちが十人か五人が取り巻いていて,その周りで傍観者といって,見て見ぬふりをしている人たちがいるのが現状であります。そういうことを教えてくれました。では一体どうすればいいかと聞いてみました。今日私は沢山の録音テープを持ってきているのですが,何本聞いてもらえるかわかりませんが,そのような録音テープを聞かせること。あるいは現にいじめられた人ですでに成人しているような人の話を聞いてもらうようなこと。私も,追跡調査をしてみましたが,中学2年生でいじめられ,その後高校でもいじめられた人ですけれど,そういう人の話を聞かせること。そういった人達を招いてクラスで話を聞いてみることもいいと思います。それから高校生でしたけど,心理劇のことを言っているんだと思ったんですが,いじめられている人が,い じめる役をして,いじめている人が,いじめられる役をして演劇をすると,相手の気持ちがよく分かる。本当にいじめられている人の気持ちの実感を体験する。そういうことも大変いい。この高校生はロールプレイのことを言っているのだなあ,また心理劇,サイコドラマですけど,そういうことを言っているのだなあ,と思いました。
 その次は,先ほども言いましたけど,障害者だとか,あるいは外国人とか,いろいろな動物だとか,ありとあらゆるものとの,共存という教育も必要だと思われます。いわゆる幅広い心の教育がこれからの子ども達には欲しいと思うわけです。また,子ども達の話には,戦争体験みたいな話をしてくれるといいと言います。戦争で,日本は被災者といってもいい。戦争の体験は,いじめに非常に近い。被災体験ですから,戦争の体験などを教室で聞かせてくれればいいと言っている。いじめる側も,いじめられる側も感覚が麻痺している,神経が麻痺しているので非常に視野が狭く,そして人間性が失われ,他に何も考えられなくなっていると言う。  それから面白い意見としては,いじめられている人同士の会を作るというものがあります。アルコールの患者さん達にはあるんですが,お互いに支え合って,心をオープンにして,その会の中では心が開かれる,どんなことを言っても,恥ずかしくない。いじめられている人の集団の中で,自分の心を開いて,そして一緒に勉強をしたり,一緒に運動をしたり することができる。ある子が。「もう,いらいらするものだから,やけ食いで太っちゃいました。」と言うのです。運動もしない,勉強もしない.そういう状況の中で,これじゃいけないと思い続けているのです。ですから,そういう会があればいいなあ。お互いに,慰め合えるような,そういう人が欲しいというわけであります。
 また,一方いじめられている人の最後のとりでは保健室。やはり,出席日数が足りなくなるから,出席日数を確保するため.保健室登校が普通に行われているんです。その保健室の養護の先生にとても問題があると訴える子どもがいるんです。私は,今月の20日,鹿屋で肝付地区の養護の先生達,90人ぐらいに講演をすることになっているのですが,この養護の先生達の対応について随分多くの人達の中に,まだ不満があるようすです。先生方も研修に出て勉強しているのですが,養護の先生達は体については.よく勉強している。歯を磨きましょうだとか,手を洗いましょうとか,うがいしましょうとかいうような体については知識が十分あります。ところが心に関しては勉強はしていない。私も一時期,純心短大の養護で精神保健の講義をしたのですが,やはり単位数が少いと思いました。単位数が少ないだけに,学生達からも,軽くみられています。確かに,採用試験の問題をみると,ほんの少ししか出ていないのですね。養護の先生が悪いと言ってるのじゃないのです。養護の先生方も大変であり ましょう。教育のシステムや精神保健的な心のカウンセリング的な訓練は何も教えられていないまま現場で仕事をなさっておられるのですから。
 そしてまた,ある人は言います。生徒会で,いじめをテーマにして,討議をしたらどうか。みんなで話し合うという必要があるのじゃないかと。これは,なかなか難しいことだと思います。発言すると,いじめられるのじゃないかと,みんな黙りこんで静かに座っているという現象が起こるのではと思います。つまり皆で考えてほしいという気持ちなのでしょう。そして,次に出てくるのは,そういった学校場面で,カウンセリングの必要性をどの子も言うのです。それは,いじめる側にもいじめられる側にも必要だということです。しかし,先生方のカウンセリングは説教じみていると言うのです。彼らはそれを説教と受けとります。カウンセリングと受けとらない。教育カウンセリングというのはどうしても説教じみてくるのですね。先生という職業は,教えるという感覚があって,あなたはこうしないといけないんだとか,あなたは,こうするべきだよとか,という指示・命令になりがちになります。カウンセリングは全くそうではありません。それを今日は認識してほしいのです。私も調停委員をしていますが,忙しい忙しいといいなが ら,駆り出されて調停委員の仕事をしております。指宿地区の調停委員の会長や,鹿児島県の理事の仕事をしたり,まあ,何をしているか分からない医者です。学校の先生,校長先生などをされた方が.定年になられ,調停委員になっておられる。そういう先生と一緒に二人で組んで調停をやりますが,例えば,離婚であっても何であってもいいのです。両方が,それでいいと言いさえすれば,もう調停成立なのです。極端なことを言えば,法的におかしいなあと思ってもそれでいいと両者が言えば,いいのです。調停はそれで成立するのです。ところがどうも,学校の先生あがりの方は,こうすべきです,こんなことでどうしますか,と人生を説かれるわけです。調停というのは何も言わないでいいのです。ただ両方がイエスと言いさえすれば,その問題のポイントは解決しようが,解決しまいが,どうでもいいのです。ところが,先生あがりの方は「それは人間として間違っている」とおっしゃるようなお説教をなさるわけです。そういう点では両親も同じです。なぜ,いじめられる子が親にサインを出せないかというのには,いろいろあって,ちょっと箇条書き的に言いますと,まず親に心配かけたくない。 親が忙しそうだ。真剣に受け止めてくれそうにない。そして,いしめられていることを知られるのは,自分でも恥ずかしい。そして,いつか,治まるのではないかと思って待っている。自分の力で頑張り通そう,少しは,見栄もある,自分で頑張ろう。という気持ちもある。そして,その辛い気持ちを分かってほしいという気持ちで,サインを出すんですが,答えは「頑張りなさい,そのくらいのことに負けてはいけません。人生はもっと厳しいんです。」と,励まされてしまいます。そうなるともう,小さいサインだったのですけど,もう二度と出せないとなる。「その時,どうしてほしいんですか」と聞くと,「慰めてほしかった。」と言います。ここなんですよ。精神医学の立場でいうと,カウンセリングというのは,ある意味で,慰めてあげるということです。「つらいんだね。」と言うことです。カウンセリングの極意は,簡単です。受容ということに徹すればいいんです。受容,受け止めてあげるということです。受容ということの極意はですね。昭和天皇様が何を聞いても「ああ,そう」と答えておりましたが,それです。これだけ覚 れば受容は全部いけます。例えば子どもが,お母さんに「誰ちゃんにちょっとイヤなことを言われたのよ。」と言います。そんな小さなことはお母さん達も一杯あったんだからと,パッパッとやってしまうんですね。これは受容じゃないわけであります。ですから,「こういうことがあったのよ」と言った時に,「ああ,そう」と言いながらまた仕事をやっておれば,それで受容になるわけであります。そこで,ちょっと受け止めてあげると,ホッとするんです。自分の悩みを分かってほしい,自分の悩みを受け止めてくれた。いじめがどうなるかということは,さておいて,今疲れ果てて,もうへとへとになってるころに,すっと受け止めてあげるということは,大変大事なことです。それが,母親,父親あるいは学校の先生の愛情を体験することになるのです。ここは非常に大事なところでありまして,このことが自分を支えてくれているという感じにふくらんでいくのです。その受容は夫婦の関係でも,職場の人間関係でも,すべてうまくいきます。何を言われても,「ああ,そう」と言っておれば,すべて受容でありますから,円満解決なのです。対人関係に非常に重要なところだと思います。いじめられ ている側にとっては,特にその受容は愛情表現であるということを覚えておいてほしいのです。その愛情表現が,ともすると,頑張りなさいとか,もっとこうしなさい,ああしなさいという指示・命令になってしまうということです。そうすると,子どもはもう二度と語れないなあとなるのです。小さいサインのところで芽を摘んでしまうということになります。大事なことは,小さなサインを出す時は,子どもはその時,ギリギリな状態だということです。もう矢は折れ,力尽き果てている状況で,子ども達は慰めを求めてくることを覚えておいてほしい。その他に子ども達が言うのは,家庭において愛のあるふれ合いが大事であるということです。これは親子の心の結びつきです。それは言い出しやすいことにもつながってくるのです。どうも,お父さんは忙しそうだし,話をしても受けとめてくれないという気持ちがあるのです。
 それから,その次は,地域のコミユニケーション,地域のふれ合い,近所付き合いと言う子ども達もおります。他の家の悪口をペラペラ言っているお母さん,これはいじめの見本を示しているようなものだと言います。近所付き合いがないために,悪いところは目に付くんです。いいところは目に付かない。ところが,付き合ってみると,ああ,あの人はこういう欠点もあるけど,いいところもあると気付くのです。付き合いが良いということは,コミュニケーションがよくなされているということでもあります。大人で男同士はいろいろ飲んだりして,コミュニケーションしながら,相手をよく理解し合えるという点があります。ともすると,最近は近所付き合いがなくて,悪いところだけが見えてくるというよくない点があります。ある例では,いじめられた子どもは,その子どものお母さんが,いじめている子どものお母さんに抗議を申し立てた。お願いに行った。いじめをしないで下さい,とお願いをしたところ,あんなバカ子を育てていてなどとおっしゃったというのです。それを,子どもが聞いた らしく,くやしくてくやしくてたまらない,と言っているのです。このような子どもが小さなサインを出す時,うつ状態だと思ってもいいんです。精神科の医者からみれば,うつ病とは言えないとしても,うつ状態の時は,激励は禁句です。これはもう定説です。自殺してしまいます。本人もこれじゃいけない,と分かっているのです。そこで,激励されるともうできない状況になって,サインを出しているのに,頑張りなさい,と言われると,ぐったりくるんです。ですから,私達がうつ病の患者さんを扱う時は,その家族にも注意します。「今は激励をやめて下さい。頑張りなさいとか,激励することは追いつめることになります。追いつめた状況に子どもを置かないということです。」と。いじめられる子ども達も,親に言えば.またいじめが強くなるんではないかというような負担が沢山ありますので,追いつめられた状態,よりいじめが強くなるような状態,あるいはせっぱつまった切迫感に追い込まないということが大変重要なことであります。
 次に先生方には耳が痛いような話ですけど,いじめられている子どもは意識としては被害意識が高まっておりますので,現実よりもややオーバ―に言っているのかも知れません。現実に私は現場をよく知らないわけですから,子ども達の言葉はこうです。先生方の愛情が感じられないということです。人間的でない,というようなことを言います。それから先生と生徒の心の結びつきが弱いということを言います。そしていじめられている小さいサインを出しても相手にしてくれない,あるいは無関心だ,あるいは先生が無視している,知らないふりをしている,というような子ども達の受け取り方があります。先生方は精一杯かも知れません。

 昨日,私は知覧で講演した時に,講演が終わってから出口の所でいろいろな質問もされました。その中に小学4年生ぐらいの男の子を持つ母親の話でしたけれども,いじめられているとお母さんに言った。先生に相談に行きました。そしたら先生のお話によると,少し小突かれている程度で心配いりませんよ,大丈夫ですよ,とおっしゃったそうです。それで安心してはいるのですけれど,このままでいいのでしょうか,とおっしゃるんです。先生方には子どもがいじめを告白する時すでに限界なんだ,という認識がないようです。そこで大丈夫ですよ,軽いですよ,小突かれている程度ですよ.というのはどこでどうやられているのか,先生の前で小突いているようならば,裏じゃもう大変な小突き方でしょう。先生方は熱心に取り組んでおられるのであろうけれども,子ども達の目には無関心,無視,そして知らないふりや軽くしか相手にしてくれないという欲求不満があります。そのうえ子ども達の中には,えこひいきという言葉がよく出てきます。そ れはまさに平等感のない感じなのです。いじめられている子どもにはそれが非常に辛いことのようです。ある先生は子ども達がいっぱい取り囲んでいる中で,その子どもに,昨日はなぜ休んだのかと言ってくる。なぜ休んだのかと言われても,そんな場所でその原因は言えやしないと言うのです。クラスの生徒がいる中でです。それも机の上に肘をついて,つばを飛ばしながら,昨日なんで学校を休んだのかって言うんです。友達もいっぱいそこにいるのに言えるものですか,と大変悲しそうな顔で言っていました。その他に非常に先生が感情的になってしまう。ヒステリックになり,カッとなりやすい先生がいる。またこれは耳が痛い話ですが,先生は勉強してない。ワンパターンで試験も問題集を写すだけだと。こんなひどいことを言わせてもいいのかと思いますが,もう少しカウンセリングの勉強もしてほしい。いじめ対策の勉強もしてほしいということを言います。しかしながら子ども達はやつぱり優しいのです。先生達も忙しいんです。先生達は雑用も多くて子ども達に接する時間がないんです。という気持ちで先生をかばうところもあるんです。親も先生に任せっきりなところがあるんです。 先生がしてくれる。だから先生が先生がという姿勢が強いのです。そう言って先生をかばってくれます。
 色々な対策というのがありますけれども,その中で,私はいじめられている予どもと非行の子どもの両方を扱ってみて分かることは、非行の子どもは大体いじめている側の子どもです。子ども達の内観療法を行ってみて言えることは,いじめる側のカウンセリングは説教じみたカウンセリングになりがちで,「そういうことはしてはいけない」ということです。例えば,ある先生と話をしましたところ,謹慎などというのは,1週間か10日,喜んで遊び回るだけであって意味をなさないということでした。そこで,私は内観療法を使って1週間実施してみたらいかがかと思う。謹慎という言葉を使わないで,少しカウンセリングめいたものとして,1週間内観を行ってみられることをすすめます。そういうふうな指導をして下さると,その1週間は非常に有効に使えると思っております。小さい頃からのお母さんについて。学生ですと,1番目に小学1年生の時に,お母さんからしてもらったこと,2番目にして返したこと,3番目に迷惑をかけたこと,この3つを調べるのです。私は子ども達が小さい頃,一緒におふろに入りながら,今日お母さんにしてもらったことは何があったかと聞くのです。そして なんか悪いことしたのじゃないかと聞くと,ちゃんと答えられます。3才の子供でもうまくリードすれば,内観というのはできる。そういうことを調べて,何がどうなるのかということですが,いじめられている子,いじめてる子もそうですが,母親,父親,あるいは先生やまわりの人たちからの愛情発見に役立ちます。愛情を自分が体験していなかったら心が小さくなるんです。ところが愛されている実感があるとのびのびとして自信が回復されます。愛情の発見のために内観は非常に素晴らしい力を発揮します。してもらったことを調べると,1年365日食事を作ってもらったこと,洗濯をしてもらって,運動会の時はおいしい弁当も作ってもらって,これほど愛されてきている,という実感を持ちます。反対に親にして返したことはなんにもないのですね。自分がいかに自己中心でわがままかということに気付いていきます。ある高校での話ですが,謹慎を受けて復学するためには内観を受けていらっしゃいと言われたので来たという事例がありました。そこで2日目でしたか「先生,親がしてくれるのは当たり前じゃないか.こんなこと調べてなんになるんですか。」こう言いました。そこで私もはたと 困つてしまいました。そこで,こう切り返してみたんです。「じゃあなたは息子として親に対して当たり前の息子でしたか。当たり前のことをしてきましたか。」と言いましたら,驚いていました。あれっという感じでした。それからぐっと内観が深くなりました。「してもらったこと,して返したこと,迷惑をかけたこと,」は単純なことなのですが,そういうことを調べていくと,これじゃあいけないという自己否定に結び付いていきます。そして,なんとかしようというエネルギーが出てきます。それがアルコールの人やシンナーの人であれば,アルコールをやめよう,シンナ−はやめなきやいかんという自分の内面からすごいエネルギーが出てきます。又一方いじめられている子どもは,周りからの愛情の発見ができて,非常に豊かな気持ちになります。そして,それまでの苦しい気持ちが癒やされていくということです。救われるという気持ちになります。そういうことを一週間続けるわけです。一週間しますと,随分変わります。一週間内観ができないというのであれば,日記形式でもよいのです。今日一日30分ぐらいかけてやるといいです。一日30分ぐらいで,「してもらったこと,して返した こと,迷惑をかけたこと」と分けてノートに記すわけです。1ケ月ぐらいすると随分気持が変ってくるんです。ですから,特にいじめている子どもに対してなにも手を施さないのはちょっと手落ちだと思います。謹慎という形ではなくて,あるいはそういう言葉ではなくて内観を使っていただけたらと思うのです。

 私自身が今まで内観で指導してきた子ども達の問題をちょっと取り上げてみたいと思います。どんないじめにあってきたかというのは聞いても仕方がありませんが,ここにテープを山ほど持って来ております。あまり時間がありませんので,内観をしてどうだったかということを聞いてみましょう。例えば中学2年生や中学3年生でいじめられる子が来ても,いじめは中学時代の問題ではないということであります。幼稚園からあります。小学の児童は幼稚園,保育園のころにいじめられたことがあります。ですから家庭訪問の時にちょっとチェックされた方がいいのじゃないかと思います。中学生ですと,小学のころにいじめられた体験,あるいはいじめた体験をチェックしておけば40人に対して同じような目で見ているより,いじめられた体験のある子がクラスの中に2人3人いるかもしれません。そういう子ども達には暖かい眼差しでマークしてサインを見落とさないように少しはしぼりこんでおかないといけません。40人を平等に同じような見方をしていると,これは見落としてしまう危険性があります。ですから,小学校の先生 は幼稚園保育園ころのことを聞いてみる。中学校の先生は幼稚園保育園から小学校のころを聞いてチェックしておく。ということが大切な作業ではないかと思います。さて,それではいじめられた子ども,この子は高校2年生で不登校ということで相談においでになった男の子です。調べてみると,なんと小学5年生のころからいじめられっ子だったというわけです。怖いことですが,ちょっと聞いてみましょうか。マットにくるまれてふんづけられてということもあったんです。鹿児島でもそんなことがあるのです。ちょっとそこだけ聞いてみましょう。

あなたは今何才ですか。 17才です。
高校2年生ですね。 はい。
あなたが学校に行かなくなったというのは高校2年の… 2学期ごろ。
2学期ごろからですね。すっかり行かなくなったのは。 ・・・
話によると,小学校のころからいじめられたということですけれども,
どんないじめでしたか
マットに巻き込まれて,上で跳びはねて。
何人ぐらいの人間が‥・ 2人ぐらいの人間が…
あの上で… はい。
マットにくるまれて… はい。
相当苦しいでしょう。 そうです,息ができない時もありました。

こういう非常に危険ないじめも,鹿児島でも結構あるわけです。この子どもが内観してくれたのです。小学校のころから高校2年生までいじめられていたのだと思うのです。その子が内観をしてくれたのです。で,この子はいじめで不登校になって半年ぐらいたつと,今度はそのイライラを家庭内暴力として発散しました。不登校が半年以上続くと,家庭内暴力でお母さん達が殴りとばされるという日々が続き始めた。そういう問題へと発展したのです。その子が内観をして随分変わったのです。ちよっと聞いて下さい。

あなたが内観をして,気持ちが変わったなあというのは
何日目ぐらいでしたか。
4日目です。
じゃ3日間位は「えいくそ」と思いながら。どういう気持ちで
3日間位過ごしましたか。
はやく時間が過ぎてほしいなあって思ったりしました。
1日1日が長かったわけですが,3日目ぐらいでやめたいと言って
やめる人も結構いるんですよ。よく頑張ったね。
そして4日目になるとどこがどう変わったのですか。
例えば,誰かに対して内観をしている時に気持ちが急に変わりましたか。
それとも徐々に変わりましたか。どんなふうでした。
兄弟に対して調べた時にすごく自分が変わりました。
私はお母さんが仕事だったので,小さい時によく兄弟2人で弟を保育園に連れていって兄弟3人仲良く帰った思い出があります。
それとかお母さんが仕事だったので,兄弟3人で家事を手伝ったり.洗濯物を取り入れたり,たたんだり,おふろの掃除をしたりしました。そういう思い出があります。
そういうことを思い出した時にどういう気持ちになったのですか。 自分は昔は兄弟3人仲良く暮していたのに今の自分はわがままで,自分勝手で自分の意見が尊重されないと,すぐ人に手を出す。本当に自分が一番上じゃないといけないし,
なんか主義者的な感じで,嫌になってきました。
自分の思い通りにいかないと暴力をふるってみたり,学校にも行かないという自分がいかにわがままだったかということに気付いたんですね。 はい。
じゃ内観をする前はそれはもう当たり前というか,
いじめられるのだから当然だとかいう気持ちでしたか。
どういう気持ちでしたか。
いじめられてるから当然だと。
そういう気持ちだった。 はい。
それが内観をしたら… すごく気分が爽やかになって,本当に自分がまちがった道を歩いてきてしまったなあと,すごく自分でも自分が悪くて泣けてきて泣きました。
あなたの内観が深くなったきっかけは,弟たちとあれほどちっちゃい頃は一緒に,協力して,お母さんが一生懸命働いていたわけだから,力を合わせていろんなことをしていた。
兄弟愛ですね。
はい。
兄弟愛で力を合わせてやっていたのに,近頃の自分は兄弟に怪我をさせるような暴力をふるってみたり,お母さんに暴力をふるったり。 ・・・
それではお母さんにちょっと聞きますけど。 はい。
いまさっきちょっと息子さんに会ったんですよね。 はい。
待合室で。 はい。
その時のお母さんの感想はどうでしたか。 変わりました。ビクビクして,いつもお母さんお母さんと言っていたのが,目をはっきりと見て,ああ来てたの。僕の部屋へおいで,と言って随分しっかりしてきたような気がします。
ああそう。 はい。
いつもはちいさくなっていた感じだったんですね。 はい。いつも私になんでも聞いて自分では判断しないで全部私に聞くって感じで,ビクビクしてたんですけど。
お母さんが顔を見られた時ああ変わったと感じられるような変化だったんですね。 ・・・

 わずか1週間なんですけどこういう変化が起こりました。一方いじめる側ですが,いじめる側は非常にエネルギーがありますので,やはり一時入院して治療することもあります。次は中学2年生の女の子です。どんなことをしていたか聞いてみましょう。

この時間,あなたは今どういうことを内観してくださいましたか。 中学2年生になってからの母に対する自分を調べました。
今現在あなたは中学2年生ですね。 はい。
どういうことがございましたか。 2年生になってから悪くなって,家出を2回したり,あと学校をさぼったり,授業をさぼったり,いろいろ遊んでばかりいて,母に心配をかけたりしたのですけれども。母はいつも学校に行ってお詫びをしたりして,母も父も2人していつも私をよくしようといろいろ言ってくれたりするんだけど,全部反抗的にとって逆らってばっかりいて,母を悲しませたりしました。お世話になったことはいろいろ私に対してよくなるようにってしてくれたことで,して返したことは全然ありません。

 次は内観の最後の面接です。聞いて下さい。

けんかなどをここでふり返った時はどんな気持ちになりますか。 ばかみたいで。
なにをしていたんだろうと思うね。自分はなんだったんだろう。そういう気持ちですか。 自分は全然偉くもなんともないのに,なんかその時期はきどっていて。
最初あなたがここにおいでになった時は,なんかこう厳しい顔をして,なんかつっけんどんな顔をしてましたけど,今,とってもにこやかな,穏やかな顔ですね。とってもかわいい顔になりましたよ。自分でもそう思うのではないですか。なんかこう肩の力がとれたというか,ゆったりしたというか。 寝る時に母とならんで寝てたんだけど,一人きりの時とかすごく甘えたくなって,今までだったら隣にいられたら嫌で何言われても無視した感じだったんだけど。なんかすごく甘えたくなって。
じゃお母さんの蒲団にでももぐりこんだかな。 手をつないで寝たり。
ああそうですか。いままでは顔を見るのもいや,そばにおられるのもいや。もうお母さんがそばにいると身の毛がよだつって感じだったわけね。それがなんだか妙に甘えたいような気持ちになってお母さんの手をにぎって寝ていた。 はい。

 こういう親子関係ができてきますと,子どもは親の言うことを非常に柔順に聞いてくれます。今までいじめてきたことがばかみたいだ。自分は偉くもないのにばかなことをしていたなという事に気付きます。決して説得や説諭などはしてません。過去の自分がしてもらったこと,して返したこと,迷惑をかけたこと,この3つを調べていくうちに,こういう心境に到達したわけです。最後の最後になりましたので,もう1人いじめる側の子どものテープでお別かれいたしたいのです。これは中学2年生からシンナーを使っていた生徒のものですが,自分が悪いことをしているという意識が少しもないです。いじめもしたり色々やっているんですけれども,あなたは大変な非行少女だね,といいますと,そうじゃありません,と言います。ちょっと面白いところがありますので聞いて下さい。

シンナーのことを聞きますけど,あなたがシンナ−を一番最初に吸ったのはいつですか? 中学校2年の時ですね。
で,その中学2年生の時どういうふうな状況でどういうふうにして吸うことができたのですか? 教室で男子の人が吸っていて,やっぱり私も興味半分で一緒に吸わしてって。
それは放課後ですか? いえ,休み時間に
そして最初吸ってみてどんな感じでしたか? やっぱりクラッときて,いい気持ちに。
中学校2年の時そうやって学校で吸って,そして中学校時代はあまり吸わなかったのですか? はい。
何回くらい吸ったのですか?10回20回くらいですか? はい,そのくらい。
じゃ,まぁ遊び半分ですか? そう
中学2年の頃シンナ−を吸ったり…
非行少女というほどはなかったんですか。ちょっとはそうだった?
イヤそんななかったですね。
万引きなんかは…? 万引きなんか,もう毎日のようにしてました。
中学校の時? はい。
それじゃ非行少女だよ。ハハハハ… ・・・

 こういうふうに罪の意識がなんにもないんです。盗るときなんか怖いでしょうと言いましたらコワクなんかないというんです。やってる時はまったく罪の意識も,人に迷惑かけ親に心配かけてるという意識もまったくないんですね。そこで内観をして,一週間たってもう一度インタビューしてみたのです。

あなたがね,内観で,こういう具合に気持ちが変わってきたのは何日目くらいですか,内観らしくなったと思うのは? えっとまあ2日目か3日目くらいですね
どんなことを内観した時ですか。 兄弟でした
兄弟のことを内観したんですね? はい。
兄弟の何歳の頃の誰に対して? えっと小学校の頃の兄に対して。
お兄さんからしてもらったことは? 塾に行ってないのに,単車で迎えに来てくれたり,誕生日だからと小学校の時に,何か作ってたんですね,私にくれるために。で,手をケガしてしまって,血だらけになって,誕生日プレゼントは貰えなかったんですけど,その兄の気持ちだけが嬉しくて…
お兄さんが妹に対しての愛情ですね? はい。
そういう愛情とか家族の愛とか親の愛とか,そんなものが見えなくなってたんだね? はい,もう忘れてました,全部遊んでいる頃は。
内観をしていてお兄さんがけがをしながらも,あなたへのプレゼントを作ってた。 はい。
その気持ちが思い出されたのだね? はい。
なのにお兄さんが自分のことをかわいがってくれていたのに。 はい。
お兄さんの気持ちとかお父さんの気持ちとか考えずに,自分の勝手に行動してたんですね? はい。
自分という人間をどんな人間だと感じましたか,内観してみて? 自分勝手な女だった。他人のことをなにも考えないで。
今,お母さんに対してはどんな気持ちですか? お母さんに対しては,できるだけ,母がね,希望してることをしてあげたいです。
そう,それで,一番最大のことは何ですか? 学校に行ってほしいということですね。
シンナーやめて学校に行ってほしいということが最大のお母さんへのプレゼントですね? はい。

 この子は,町をほっつき歩いてばっかりいました。そして,約1ヶ月半くらい入院して.その中間あたりに内観をいれてみました,これで学校に行ってくれましたね。そして学校の校長先生から電話がきて、「出てきた,出てきた。」と言って,「どういうふうにつきあえばいいでしようか。」と担任の先生からも電話がきて「まあ普通のこころに戻ってきたんですから,普通の扱い方でいいですよ。」と答えました。この子の場合には,校長先生達の研修会があった時に,私が少し内観の話をしました。終わった後で自分の学校にもやっかいなのがいる,何とかなりませんかというご相談を受けて,この内観を行ったのです。先生がご紹介して下さった事例です。こうして意外に内観は効果的なのです。しかもわずか一週間です。学校からの紹介であれば内観の料金を3割引きで引受けましょう。そういうことを2,3の先生にもお話をしておりました。今ここではっきりと学校からの紹介の場合は3割引きにすると約束します。本人が熱心になってくれれば,グイグイよくなっていきます。そこへの導入が非常に大切なことで,百発百中とはいかなくても,しないよりはましで,十分変わります。いじめが まったくなくなったというふうにはいかないとしても,いじめの度合がやわらかくなったとか,頻度がへったり,先生に対する態度が変わってきたとか,いろんないい面がみられるようです。今日は前段の話が非常に長くなってしまいましたがこれで終わらせていただきます。御静聴まことにありがとうございました。


出典:鹿児島県生活指導研究協議会平成8年度研究紀要第31号「生徒指導と内観療法」 1996年11月15日第33回鹿児島県生活指導研究協議会研究大会での講演を記録しました。