「ウ「ウェルズ商事」は一見したところ五階建ての普通のビルである。余裕のある敷地を持っている場合などによく目にする水色のフェンスが周囲に張り巡らされている。角々に立っている四つの照明灯。そこにはその付属品のようにしか見えない監視カメラが目立たないように設置されている。表玄関はどこにでもある普通の自動ドアである。しかしその内側には最新のセキュリティ機能をもつドアが二重に用意されていた。施設の存在はもちろん非公式であり、知っているのは政府の一部の官僚と数名のタイムマシンプロジェクトチームの関係者だけである。
建物の内部はワンフロアーであり、二階以降のフロアーは作られていなかった。つまりは建物は外壁でしかなく、一辺が十五メートルの箱である。
箱の内部は直径が十二メートルあまりの巨大なボール状の構造物が三メートルの台座の上に設置されている。ボールの内側は外部の電磁気的な〈揺れ〉の要素を排除するために数千枚もの磁場シートが隙間なく貼られ、ボールの外側は磁場シートに電力を供給する数千本のケーブルが突き出している。かくして、外界の影響をいっさい受けない完全な静磁場環境を地上に作り出していた。ボールの内部は宇宙線はもとより、建物内の機器から放射される微弱な電磁波でさえも完全に遮断していた。
磁場シートを稼働させる電力は地下から特別に設置されたラインで供給され、その規模は一般的な小都市を充分まかないきれる八万キロワットである。万一の場合を想定し、大規模容量の蓄電池と発電システムが地下に用意されている。
台座の下のわずかな空間に量子演算コンピュータが円形状に三十六基、さらにはユークリッド・スプライン方式の量子顕微鏡があった。ES量子顕微鏡の形状はパイプオルガンに似ている。ただしパイプは仮想のパイプを制限なく作ることができるので一つである。
作業員がES量子顕微鏡の下部中央にあるコンソールで演奏者のように手足を動かしている。左手は三段のジョグダイヤル、右手は三次元ポインタを巧みに操作している。左足と右足で量子の励起段階をスイッチングするペダルを踏み込んでいる姿は滑稽である。
作業員の目のまわりを緑色の光が照らしている。この光は静磁場の中心にあるES量子顕微鏡のプローブ先端がコヒーレント光を放出しているものだ。緑色のなかに不規則な波紋が浮かんでは消えていく。前方波紋は量子的な未来を表し、後方波紋は量子的な過去を意味する。量子演算コンピュータは過去と未来を紡ぐ機織り機である。マイクロ秒単位の変化をトレースして〈揺れ〉を紡いでいくのだ。ある〈揺れ〉が生み出した過去のマイクロ秒へのルートが量子演算され、そのつながりはさらに次の過去の〈揺れ〉のマイクロ秒へとルートが量子演算されていく。それを気の遠くなるほど繰り返していくと理論上は百年前であろうと数万年前であろうと時間を遡れるのだ。それは未来についても当てはめることができた。そして量子演算コンピュータは気の遠くなる仕事をある程度こなしてくれた。この施設の量子演算コンピュータの能力であれば一ミリ秒程度の範囲で過去と未来をのぞきみることができた。世界で最速の量子演算コンピュータを使えば一秒程度の範囲をカバーできるであろう。う。
おわり