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 もっとかがやかせよう 奄美の教育改革者

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教育の原点 龍野定一

 

◆教育に捧げた生涯 龍野定一先生の足跡

◆龍野定一のことば 『奄美の人々』「序文」から引用

◆市民の師父 元市長 豊 永光 〈教え子〉

◆厳訓無処罰の教育

◆『話せば子供はわかる』龍野94歳のときの著書から

 

教育に捧げた生涯

 近来、中学生の教師に対する校内暴力、母校への家庭内暴力が深刻な社会問題となり、国をあげて教育の在り方の根本的見直しの気運が盛り上がってきている。今後、各界階層からの周知を結集して、教育改革への英断が下されることが期待される。龍野定一先生は、つとに現代教育の行きつく流れを洞察し、自ら荒馬乗り、くせ馬馴らしと称してもっぱら暴れん坊どもを相手にし、真の使命感に燃えて信念と愛情を吐露されてきた教育者である。

 明治22年3月6日、鹿児島県大島郡徳之島町亀津に生まれる。鹿児島県立2鹿児島中学(現・甲南高校)第2回卒業生として広島高等師範に入学し、大正2年同校卒業。旧制福岡県立東筑中学校教諭兼剣道教師となるや、善き教育者の指導を求めて自ら1校2年を1期と定め、鹿児島1中、広島1中、京都女子師範、同男子師範と歴任したが、悟るところあって東京深川の貧民地域改善の隣保事業に献身することになる。

 やがて関東大震災で東京は一変し、たまたま大正13年8月、郷里の旧制大島中学校連年の学校騒動で廃校の危機を迎えるに当り、請われて同校長となり、職員・生徒一同を前にして厳訓無処罰の独自の教育方針を宣言、県学務当局の横槍を押え、職員の反対を説得し、在職7年、終始、全校生徒と一体となって校風の純化に努め、同校の面目を新たにした。

 その後、福山中校長を経て上京、中野中学(現・明大中野高)、東亜商業(現・東亜学園高校)等の校長として自己の教育信念をますます深め、昭和15年4月、東京市立第4高女(現・都立竹台高)の創立を引き受け、ここに念願の無処罰無試験の教育を完全に実現せしめた。しかし、大東亜戦争のため、産業報国会錬成部長兼警視庁練成道場長に任ぜられ、敗戦に至る。

 戦後は祖国再建のため、社会教育に専心し、東京都北区公民館長となり、全国公民館連絡協議会長、東京都社会教育委員会議長、青年学級振興協議会長、社団法人善行会副会長、その他新生活運動、公明選挙等に尽力し、日本教育評論家協会理事長、同名誉会長。昭和61年29日死去。

 昭和29年5月、社会教育功労者として第1回文部大臣表彰をうけ、41年に受勲。郷里にては昭和6年、大島中学校長在職記念の胸像が校門に建立された。

徳之島町名誉町民、名瀬市名誉市民。
著書「日本教育の革新」「母に語る」「歴代詔勅謹解」「歴代天皇御制読本」「歴代皇后御歌読本」「樹徳深更」「厳訓無処罰の教育」「日本のこころ」「話せば子供はわかる」その他新聞、雑誌に多数の教育評論、随筆を書く。

 「広報なぜ−名誉市民 故・龍野定一先生を偲ぶ」昭和61年8月15日

 

 

龍野定一のことば

 ―『奄美の人々』の「序文」から引用―

「...重信君、今とは違って風まかせの小さな木造船に乗って鹿児島に往復した交通の不便な、貧窮のドン底にあった当年の大島に私たちが生れ、最も貧窮と好学を誇とした特異の伝統に生きた亀津の村(徳之島)で育ったことを、私はまことに幸福だったとさえ考えている。もちろん私も大島に生れたがゆえに、つまらない苦労をしたこともある。無念残念にたえなかったこともある。しかし、その苦労、その無念のゆえにこそ私たちの今日があるのである。私の現在の境遇、私の今日の物の考え方や暮らし方などは、すべてみな、私が大島に生れ、亀津で育ったおかげでできたのである。今の私はそれをありがたく思い、私の郷里を懐かしみ慕って感謝している。
 .........

 重信君、人間は十人十種、考え方もいろいろあるが、真の人間の価値、人としての生きがいというのは、この世で何になったか、どんな高位高官になったかということも大切だが、それよりも何をしたか、どんなことをしたかということがさらに肝要だと思う。大臣になるということも大切なことだが、それは親分のおかげでなることもできる。相当にウソもつけば、悪い事をしている男でもなれるが、学問の研究とかすぐれた芸術品をつくるとか、何かをするということは自分自身の力がなければできるものではない。私は人の世で最も貴いものは正しい人間だと思う。それで、私自身その正しい人間になろうと考えて勉め励んだ。そして、その正しい人間を多く育てあげることほど貴いことはないと考えて、私は教育という仕事をえらび、八十六才の今日もなお教育に精進しているつもりである。

 もちろん、私も世にいう一身の栄達を思わなかったのではない。壮年血気盛んな頃には先輩の勧奨も多く、友人の忠告などもあり、一身の栄達に思いなやんだこともあるが、幸い私は大島という特殊な環境に生れ育ったおかげで、極めて真剣に正しく物を見ることができ、考えることができたのである。そして、教育に志し、真の教育者として人類の理想とする平和で幸福な世の中をつくる人間を育てよう。それには、対立抗争をさせずに、いつも学友親しみあい助けあって学び働いて進んでゆく人間を育てあげねばならないと考え、敢えて文部省の教育方針などにさからい、この世で誰も実施したことのないような厳訓と自治の訓練による無試験の教育を実施し、その徹底につとめたのである。...」

 

 

市民の師父 元市長 豊 永光


 龍野定一先生は、去る一月二十九日朝、鎌倉市の病院で急性肺炎のため逝去されました。よわい、九十六歳の長寿を全うされた安らかな眠りであったと承っております。
 先生は大正十三年、旧制大島中学に赴任されました。大島中学では有名な「厳訓無処罰」の教育方針を貫き強力にこれを実践されました。生徒を厳しく訓育し、しかも処罰をしないという龍野教育の真髄は、生徒をたくましく育成しようという真摯な愛情に深く根ざしたものであったと思います。自らの教育理念のもとに、大島中学の校風を刷新し、勤労奉仕の精神によって「和親」と「自治」の安陵精神を生徒の胸底に深く刻してくださいました。
 先生は薫育のもと、大島中学に学び卒業した安陵健児の幾百の学徒は、先生を終生「大中の師父」と仰ぎ、先生の深い教育愛のいくつしみに感動し、敬慕の念を持ち続けております。
 先生は、また、戦後教育の荒廃に心を痛められ、新しい社会教育の確立に専念されました。全国公民館連絡協議会長など数多くの社会教育機関の要職に就かれ、力を尽されたのでありました。
 さらに多忙な教育の実践活動の中においても、常に著作を心がけられ、多くの著書を刊行されました。その著書の中には「歴代詔勅謹解」「樹徳深更」「日本教育の革新」「日本のこころ」など教育、特に倫理道徳に深い洞察を加えられた優れた著作が少くありませんし、教育評論家としても新聞や雑誌に評論や随想など数多くの健筆をふるわれました。
 先生を、名瀬市の名誉市民として推戴いたしましたのは以上のように先生が日本の、また奄美の子弟の教育に、あるいは社会教育の振興に偉大な足跡を残しておられるからであり、当然のことと考えるものです。
 今日、奄美が「教育熱心な島」、「人材の島」と呼ばれる所以は、郷土後進が龍野先生や諸先輩を師表と仰いで志を立て、勉学力行に勤める気風が脈々と伝わっているからであると私は確信しております。
 この稿を記すにつき、先生の温容かつ謹厳なお顔が偲ばれ感慨さらに無量であります。
 いまはただ、先生の歩んでこられた足跡をたどり、ご意志をくみとって私たちは勇気を奮って決意を新たにし、名瀬市の発展、豊かでうるわしい島づくりのため一層努力しなければならないと誓うところです。

 

厳訓無処罰の教育

 

 龍野が初めて校長を引き受けたのは、郷里の鹿児島県立大島中学校(名瀬市)で、時に三十六歳の若さであった。この中学は九州の三大ストライキ校の一つにかぞえられ、相次ぐ不祥事件に校長のなり手がなく、遂に龍野に白羽の矢が立ったのであるが、その就任前の二年間だけで放校五名、退学七名、無期停学四名、停学六名(「更生の大島中学校」(交友会編)による)の生徒を出すという、大変な学校であった。そして新校長の第一声が「今後如何なることがあっても、処罰は一切行わない、だから、案じて己の言わんと欲する所を言い、行わんと欲する所を行ってみるがよい」という無処罰宣言であった。これは彼が大島中学を引き受けるに当って考え出した窮余の策などというものではない。実は初めて教師となった東筑中学でカンニング問題からストライキ騒動となり、多数の放退校者を出し、去り行く生徒に限りない寂しさを味わって発心決意し、以来、十数年にわたってその実現を追求してきた、いわば彼にとって根本的な教育方針であった。もちろん驚愕したのは、同僚であるべき筈の諸先生方で、現実無視も甚だしい、若い校長の理想論・空論にすぎない、果ては、我々の身が危ない等々、猛烈な反対の火の手が上がった。龍野校長は機会ある毎に、噛んで含めるようにその意ある所を説いたが、容易に協力を得られず、就任早々、次々に起った山羊を殺して食った事件、屋根裏での酒盛り事件、輪姦事件、教師排斥事件などの難問題を独力で、しかもすべて一人の処罰生徒をも出すことなく解決したのである。その一例を簡単にみてみよう。

 それは寄宿舎で級長Aが同室の級友Bと口論し、相手の下腹部にナイフを突き刺した事件である。教頭初め幹部職員は、校長に連絡するどころか、負傷者を医者に診させることすらせず、ひたすら外部に洩れることのみ恐れて、むしろ校長の無処罰撤回の好機とさえ密議していた。これを知った龍野校長は、自ら医者に電話して直ちにB を病院に運ばせ、また警察に報告連絡して、一切の処置を学校に一任するよう頼み込み、諒解をとりつけた。そして、刺したAに、Bの入院中は学校を休んでよいから病室に付き添うよう命じたのである。校長自身も、時間の許す限り付き添い、共に看護に当たりながら、Aにいろいろと教え諭した。級友の痛み苦しむ様子を目の当りにして改めて自分の行為を深く反省したAは、誠心誠意の看護を来る日も来る日も続け、またBは、級友が学校を休んでまで自分の世話をしてくれることに感激し、退院時には二人は無二の友となった。最初は反目し合った双方の親も、これを見て、一方が怪我をさせた詫びを述べれば、他方は献身的な看護に感謝するという、事件の発端では想像も出来ないような光景が展開された。そしてさしもの職員会議でも、ついにA に対する厳罰要求の声は鳴りをひそめたのであった。禍転じて福となすとは、まさにこのことであろう。

 こうして無処罰教育が根を下ろして行ったのであるが、一方で龍野教育の厳しさもまた峻烈を極めたものであった。それが飽くまでも生徒を逞しい人間に育て上げたいという、深い愛情に根差すものであったことはいうまでもあるまい。それかあらぬか、全校生徒一人の落ちこぼれがなかったというのが、龍野校長の自慢でもあり、誇りでもあるのだが、当時の生徒であった卒業生たちは、老教師を訪れては、数十年前の辛さをいまだ忘れず、あれこれと思い出しては、笑顔で今更の如く告げ口をするのである。
     「厳訓無処罰を教育の信念として貫き通した愛の実践者」から引用。

 

つづく 田原正三 2000年

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