奄美島唄の多くは、「薩摩藩時代に封建制度の圧迫と脅威とに苦しんだ彼ら被征服者としての島民が、その遺る瀬なき哀愁の情を訴えた血と涙の記録」であり、「島民の生ける唯一の忍苦の歴史」である。那覇世から大和世、大和世からアメリカ世、六百年余の圧政にあえぎながら、殆どすべて名もなき民によって遺された四千とも五千ともいわれる島唄の言霊世界―『奄美大島民謡大観』(昭和八年)『奄美民謡大観』(改訂増補版昭和四十一年) 文 英吉著はまさにその先駆的業績といえよう。現代文に改めました。

 

目 次  万葉歌を越えて 唄者と島唄

 

奄美の島唄

−歴史的・民俗学的・言語学的・芸術的価値−

 

 

                                   photo by Ryo

 

奄美大島民謡大観』

文 英吉著

 

序 文

  

 わが奄美大島に誇るべきものが一つある。それは哀切極まりなきその民謡である。奄美大島の民謡はただ単にこの島の郷土芸術であるばかりでなく、概してわが日本の豊富なる郷土芸術のなかでも最も特色的なものの一つである。それは奄美民謡が独り芸術的に優れているばかりでなく、歴史的にも、民俗学的にも、言語学的にも、特殊の価値と興味とを有するからである。

 今日わが国において古代文化の名残を比較的多く保存しているところといえば、琉球と奄美大島くらいのものであろう。尤も交通文化にめぐまれない遠隔の島嶼は、どこでも古い習慣の唯一の隠れ家には違いないが、そのなかでも特に薩南の島々は南方の辺涯に位置し、長いあいだ文化の中心を離れて交通が不便であっただけ、外来の影響や刺激を蒙ることが少なかったので、文化の原始的形態が比較的純粋に保たれているのである。現に神代から鎌倉時代にかけての言語、風俗、習慣、儀礼が、往々昔のままの形で保存されて、今でも南島人の日常生活の間に行われているのは一異観である。殊に言語のごとき、日本内地ではすでに死語となって、国文学者の間にすら意義がまったく解らなくなっている古代和詞が、奄美や琉球では現に生きて使われている。この方面では従来琉球には多くの篤学の士があって、郷土文化の紹介に志し、わが学界に寄与するところが多かったが、奄美ではこのような機会に恵まれなかったため、貴重な文化の名残りが今まで長い間秘められた宝庫のまま、まったく学会の処女地として、二三の文献を除いては何人にも手をつけられずに、あたかも取り残された宝玉の破片のように多くの島々に散在している。

 奄美大島はもと琉球の属島として長い間その支配下にあった関係上、琉球と同じ文化系統に属し、歌謡のごときは形式内容ともに琉歌の影響を多分に受けている。特に歌謡の形式は琉歌の八八八六音三十字を基調としている。といって、文化の内容がすべて琉球と同じだという訳ではない。地理上奄美は琉球よりも日本本土に近く、特に薩摩藩に配属してからは鹿児島と密接な交渉を持つようになり、自然日本内地文化の影響を受けるところが多かった。こうして古い琉球文化と新しい日本内地文化との興味ある接触融合がこの島で行われ、その結果として多くの異なった特色を有するに至ったのである。それと同時に南島文化は、一面環境の影響を受けて、南国特有の情熱的なロマンスを生み、それが海洋島独特の神秘的想像に彩られて、他にはみられない一種特異な文化系を構成し、一面には古くから琉球、中国、朝鮮、台湾、南洋諸島、南蛮との交通があったらしく、さらに南蛮を通してオランダ、ポルトガル、スペインなどの商船も時たま来訪したらしく、それによってますますエキゾティックな匂いを高めたのである。が、それにも拘らず、文化の内容はどこまでも奄美民族が幾度かの受難期を通じて周囲から虐げられた不断の孤島苦を深刻に物語っている。特にその民謡は、琉球時代の比較的平和な牧歌的なものの外はみな、薩摩藩時代に封建制度の圧迫と脅威とに苦しんだ彼ら被征服者としての島民が、その遺る瀬なき哀愁の情を訴えた血と涙の記録である。そして他になんらの慰安も娯楽も知らない彼らは、その全精神を民謡に打ち込んで、暇さえあればそれを愛蔵の蛇皮線にあわせて歌い、これによって自分たちの悲痛を美化し芸術化してみずから慰めたのである。されば奄美の民謡こそは、島民の秘められた過去を物語る、唯一の書かれざる生活記録であると言わなければならぬ。

 旧藩時代には、征服者の被征服民に対する危惧心に基づく消極的政策の結果として、奄美に関する旧記古記録の類はしばしば藩庁の命によって、横暴なる島役人の手によって没収焼棄されたため、今日では島の貴重な歴史的資料はほとんど湮滅に帰して何ら記録の徴わすべきものがない。しかしいかに横暴なる役人も人間の生きた感情を左右することはできなかったので、民謡のみはすべての圧迫に抗して島民のために独り気を吐いている。すなわち島民は封建時下の圧制と重税とに喘ぎながら、その悶々の情を訴ふるにところなく、わずかに民謡に託して余憤を漏らしたのである。この点からみても、奄美の民謡は島民の生ける唯一の忍苦の歴史であるといってよい。

 奄美大島の民謡はこうした歴史的用件の下に発達したのであるから、その調子がほとんど悲哀に終始し詠嘆を生命としているのは当然であろう。月明りの夕、孤島の磯辺に、芭蕉葉の陰に、あるいは竹やぶの下に、切々として胸を打つものは、実にこの民謡の哀調である。明るい南国にこうした暗い芸術が生まれようとは何人も不思議に思うであろう。が、そこには歴史的用件のほかに運命の支配があった。それは自然の環境である。奄美民謡の哀調には、歴史的用件とともにこの自然の環境が影響していることを忘れてはならぬ。ああした絶海の孤島では、自然は特に絶大の威力をもって人間精神を支配する。四面海をめぐらしたその環境といい、南国的荘厳な天体といい、果て知れぬ悠久の地平線といい、犇々と胸に迫る孤島の寂寥感といい、殊に名物の台風といい、ここでは自然の力は想像以上である。人間がいくら反抗しても自然の力には到底叶うべくもない。自然は容赦なく人間の工夫を片っ端から打ち壊して、一向平気である。古来こうした苦い体験をたえず繰り返してきた島民は、自然と歴史的用件との二重の圧迫から、不知不識、消極的な「あきらめ」主義と暗い宿命観とに苛まれ、それが嵩じて自暴自棄に流れやすく、性格破産に陥りやすい民族となった。そしてついには悲哀そのものを享楽するような、デカダン的頽廃的な、悪くいえば亡国的な民謡を生み出すに至ったのである。

 しかしこうした哀調は主として藩政時代の民謡に多く、比較的気楽であった琉球時代の民謡にはそういう絶望的な調子は少なく、芸術的に優れたものが多い。尤もこの時代の民謡はたいてい湮滅して、今日残っているものはそう多くはないが、それだけに就いてみても、その芸術的価値は驚くべきものがある。例えばそれぞれの式日に謡われる祝い歌のごとき、記紀万葉の古調を伝えて、質朴高雅な気韻に富んでおり、なかには祝詞や神歌の面影を偲ばしめるものが多い。この点からしても、万葉その他の古典文学との比較研究は多大の興味があると思われる。

 とにかくいずれの方面からみても、わが奄美民謡は特色ある郷土芸術として深い意義を持っている。それが時の流れに従って多くの名曲とともに漸次湮滅していくのは、日本文化のために大なる損失でなければならぬ。

 編集者文(かざり)君が、このことを痛嘆するのあまり、過去数年間異常な苦心と努力を捧げて、何らまとまった記録もなく、空しく散逸しつつある郷土民謡を各島にわたって広く蒐集したことは、単にそれだけでも全島民の感謝に値すべき有意義な事業である。ところが著者の努力はそれに止まらず、難解の歌詞を一つひとつ検討して丁寧な解説を施し、重要な用語に対しては語源的憑據と古典との比較を付し、かつ歌謡の大部分にはその出生を説明すべき興味ある口碑を付して、いまだ何人にも手を着けられない民謡風土誌の基礎を置いた功績は多としなければならぬ。著者の総論も奄美民謡の史的ならびに芸術的価値を考察して肯綮にあたっており傾聴すべき節が多い。

 こうした意味において本書は単に奄美大島の唯一の文化的遺産を永久に生かしたばかりでなく、わが学会の古典研究に寄与するところが多いだろうと信じる。しかし著者も言っている通り、わが民謡の研究はけっしてこれで完結したものとは思われない。現に蒐集の量からいってもまだ不足しているようであるし、さらに民謡の語源的検討、憑據、年代記などのごとき広汎な考証的研究に至っては、著者の今後の貴重な努力に俟つものが多い。同時に曲譜の保存もまたもっとも必要である。だが、これは元来わが島歌にその基本となるべき音符がないかぎり、非常に困難な事業には相違ないが、島の当局ともはかって、何らかの適当な方法を講じて、以ってわが民謡保存の完璧を期せられんことを特に希望する次第である。

 

   昭和八年六月

             鎌倉に於いて     昇 曙夢 (ロシア文学者) 

 

――――――――――――――――――――

 

著者のまえがき

 

 わが奄美大島の民謡は、血燃える南国的情熱と、こまやかな人情美と、さらに暗き生活環境から醸成された深刻にして哀切、しかも幽妙高雅な気韻を湛えた古典的価値の高い郷土芸術である。
 しかるに、それがいまや生き残れる古老の運命とともに、永久に湮滅の墓の彼方に葬り去られんとする状態にあることは、何よりの遺憾事とされねばならぬ。
 私は、数多きわが民謡の名曲佳編が、年とともに一つひとつその姿を失って行く有様を見て、痛嘆に堪えぬものの一人である。
 もとより芸術がその社会相の反映である以上、社会進化の必然性に伴って、より朗らかな明日の芸術への転向を約束づけられていることはいうまでもないことで、従って過去の芸術そのままを以って直ちに未来永劫を律せんとする愚を敢えてせんとするものではない。ただ郷土の持つ絶対的特異性を無視し、あるいは久しきわが民族の過去の尊い忍苦の記録を無責任と怠慢から永遠の根絶に帰せしめ、それによって貴重な研究資料そのものを逸するがごときはけっして、郷土に対し、芸術に対し、また広く社会のよりよき将来に対して、忠実なる所以に非ざるを信ずるものである。
 ましてわが民謡の社会的、芸術的価値がようやく問題となりかけ、あらゆる人々によって熾烈な研究対象たらんとするの機運に遭遇しつつある今日に於いてをやである。
 いまやわが民謡の真諦を知らんとするの熱望は、あらゆる立場の人々によって深刻な要求となっており、しかも刻々として湮滅の過程を急刻に辿りつつある現在において、この要求に応えることは特に焦眉の急務であらねばならぬと信じる。
 私は、私自身がこの要求に応えるべき資格あるものであるか否かを知らない。しかし私は一郷土人としての義務責任感から、またみずからの持って生まれた趣味感から、ここ数年蒐集した歌詞の数と、これに伴う伝説や各種の付随した調査研究資料がかなりの量に達しているのに気づいた。そして同志先輩の切なる勧めに従いその刊行を思いたち、ついに上梓公けにしたのが即ち本書である。
 もとより学者でない私が、記者生活の寸暇々々をぬすんで編纂したるものなるゆえ、多くの欠漏と杜撰を免れず、これは何人よりも私自身が承知しているところである。
 言語学的、古文学的方面からの純学問的研究は、本書として他に然るべき専門学者もあろうし、筆者また将来の事業としてこれを他日に期して、今はただ不備不満のまま大方諸賢の示教を乞うべくこれを世に送り出すことにした。
 ただしかし、筆者は語句の難解と歌意不明のため折角貴重な価値を内包しながら、ややもすれば一般の興味と関心から遠ざからんとしつつあるわが民謡に対し、かなりの用意と努力を以って、その歌詞の解説と三十音詩の中に秘められた興味ある情和伝説の類の紹介に努めたつもりである。そしてまた、足りないながらも奄美民謡の全貌を、そのあるがままの姿で展開せしめたつもりである。
 幸いにして本誌がよく島の生ける歴史の声であり、同時に民族的情緒と地方的色彩を紹介せる一案内書たり得て、以って奄美の島々に関心を持つすべての人々に対し何らかの寄与をなし得るとともに、湮滅しつつあるわが民謡の食い止め策にいささかたりとも役立つところあらば、著者の望外の幸慶とするところである。
 終わりに臨み、私は本書を草するに際して、坂口徳太郎氏、滋野幽考氏、昇曙夢氏、喜野緑村氏、伊波普献氏などの著書を参考して非常にお陰を被った。
 また赤崎盛林氏、吉田三郎氏、仰直彰氏、泉長文氏、別府重雄氏、才田窪二氏、繁田孝二氏ほか多数の人々から貴重な資料を頂いて大いに助けを蒙った。ここに厚く謝意を表す。
 それから幾多の指導と援助を賜った多くの同志先輩諸氏、特に著者の乞を容れられてわが民謡の紹介の上に金玉の文字を以って序文を寄せられた昇曙夢先生と七高教授新屋敷幸繁氏に対し、厚く御礼を申し上げる。

 

         昭和八年七月     著者 文 潮光(英吉) しるす

                      

--------------------------------------------------

 

遺著『奄美民謡大観』改訂増補版によせて

 

島尾敏雄

 

 文 英吉(かざり えいきち)さんがなくなったとき私は次のような文章を書いた。「突然、文さんが亡くなった。それは全く突然といっていい亡くなり方なので私はひとしおこたえた。つい先日、その遺著の『奄美大島物語』の出版記念会が催されたばかりのところだ。その席上、文さんは大へんお元気で、息子さんのバイオリンと合奏の民謡をその愛用の三線(サンセン)でひかれた。私は文さんの、奄美の民謡の蒐集や解釈そして奄美群島の歴史や民族についての研究に関する仕事を甚だ貴重だと考えていたので、お祝いの言葉にそのことを言った。名瀬に住んでいる我々はあまり身近すぎてその仕事の意義を思わず忘れがちなのではないかとも言った。そして未だ頭の中にしまわれている未表現のものをもっと後輩の我々のために書き残してほしい希望を述べた。さいわい文さんは喜ばれ、それを文章にしてほしいと希望された。私はそのことを約してお別れした。その約束も果たさぬうちに忽えんとして逝かれた。私は奄美群島はその歴史や民族、言語、民謡に関して、学問の上でも文学の上でも珍重すべき宝庫のように感じているのに、それら各分野の研究成果の少ないことを残念に思っていた。文献は散逸して荒涼たるものだ。この荒地に鋤入れする者の困難は思いの外に違いない。私にはその数少ない孤独な開拓者の一人に文さんが見えた。中途で挫折した幾多の人の半ばの仕事を文さんは時には強引に集大成しようとされた。そのためにこじつけや不確かさが時に現われもした。しかしその文体に独特の個性があり、それはやはり奄美の土と血の中の、まぎれもなくその深い所からつちかわれ、にじみ出たものだということが強く感じられた。奄美のように文献史料の少ないところでは、文さんの持っていたようないわば民族学的な方法、又は生き辞引きのような存在の力を借りなければ、史料の不足をうめることができない。我々は今その貴重な文さんを失った。暗夜の道の前方を、かすかにひとつの提灯(ちょうちん)が歩いていた。今その明かりは消え、暗黒に呑まれてしまった寂寥を感ずる。我々は、まだまだ文さんの仕事の助けがほしかった。私は文さんの最近の仕事に円熟と彼自身の方法の確立を感じた。そして過去の仕事の整理を志しておられるようにも見えた。私は新たに刊行を準備されていた奄美の昔話と伝説とことわざに関する『続奄美大島物語』や、今は容易に見ることのできなくなった『奄美大島民謡大観』増補修正正本をどんなに待っていたか。しかし今や文さんはなく、すべては人間の外の力にゆだねられた。そして、文さんまでは流れてきていた奄美の伝統や昔の生活の生き生きした感受が、彼の死によって、その表現を得ないまま永久に失われた。私は文さんの死が惜しく、寂しくてかなわない。」

 そのときから二年が経過した。文英吉さんを考えるとき私はどうしても泉芳朗(詩人/政治家・いずみほうろう)さんのことを思い出さないわけにはいかない。あの『奄美大島物語』の出版記念会の席上で私が文さんの仕事の意義をいくらか高い調子で話したとき、私の視野の中に黙って静かにきいている泉さんの横顔が位置を占めていた。又文さんの告別式のあとで、「お互いにからだをいたわり合わないといけませんなあ」と、はだかのこころを与えるふうに言って別れて行った泉さんのうしろすがたも眼に残っている。その泉さんも今は既に亡い。一つの時期の奄美の文芸を、文さんや泉さんがにぎやかに支えていたことは今は過去のことになった。私と文さんのつきあいはごく短い。だから文さんのお仕事に大へん興味があった。しかもその文章には、図式化し乾燥した近代のかげりが投射されていないので、郷土の学問のためには、より資料的な貴重な記録の性格をもっているものだと私は考えていた。それは泉さんの近代詩をくぐってきたまなざしを考えたときに、一層きわ立って私には見えた。文さんが亡くなる二ヶ月ばかり前に、詩人の菅原杜子雄さんがひょっこり名瀬にやってきて、ひとばんを文さんの家でおそくまで遊んだ。西田功さんや私の妻もその席にいたが、それは全く「あそんだ」と言うにふさわしい珍しくたのしい集まりであった。そして私ははじめて文さんが自らさんしんをひきながらうたうしまうたをきいたのだ。私は多分そのとき奄美の精神の具現にふれたのだと思う。私は自分の気持ちが文さんにぐっと近づいたのを感じた。私は文さんからもっといろいろの奄美のこころとすがたとをひきださなければならないと思った。幸いなことに文さんはたとえば蚕がまゆの糸をはき出すように、それらをそのままのすがたで文章に生み出された。私は文さんの青春などもちらりと聞いたように思う。そこには南島のいわば孤島苦的な投影を背負った立体的なすがたがうつし出されていたはずであった。それらの期待が次第にふくらんできたとき、だしぬけのように文さんは亡くなった。

 さてこのたび、文さんの仕事を大事に思う人たちの努力で、この『奄美民謡大観』が刊行された。奄美のいわゆる「しまうた」は、日本の他の地方ではあまり例を見ることができないほど、この土地の自然と歴史に密着しているように思う。言わば「しまうた」は奄美のこころでありからだだ。言いかえるなら奄美の精神であり又その宿命の結晶と言えなくもない。学芸文献の上で不毛たらざるを得なかった奄美の、おそろしく素朴な叫びに似たクリティクと言ってよいかもしれない。おそらく、奄美を研究するときに民謡をかえりみないではその真実の姿を知ることはできないだろうが、それにもかかわらず、奄美はその民謡についての研究書は言わずもがなその記録集成書さえ全く持っていなかったのはどういうわけだろう。実は幾人かの人たちがその集成を志したはずであった。しかしそれが結実する機会をかちとるに至らないで埋もれてしまったのは残念至極であった。ただ文さんひとりが、今から二十七年も前にその仕事をなしとげたことを例外としては、それが今回の著書の前身である『奄美大島民謡大観』であった。だからその初版本は甚だ貴重な書物と言わなければならなかった。もちろん集められた歌の歌数の点や又解釈について、多くの異なった見解が存在しなければならないが、何と言っても最初の道程標をうちたてた栄誉はその著書が背負わなければならないだろう。そのあとのどんな類書もこの著書を素通りするわけにはいかないような性格を持つものだ。言うまでもなく文さんの著書のほかに奄美の民謡に関する多く集成本や尚一歩を進めた解釈や研究の書が更に度々発行されることが望ましいが、この文さんの『奄美大島民謡大観』が今では容易に入手することも又見ることさえできなくなっていることは、何と言っても不便なことであった。文さんの生前、その最初の著書に、その後新たに採集された歌詞や又新しい解釈や研究に加えて改めて刊行し直される計画のあることを伝えきいて、どんなにその実現を待っていただろう。そして文さんの死に遭遇した。しかしとにかくいったん文さんの死によってたち消えのかたちになったその改訂版が、今こうして陽の目を見ることになったのは、われわれの大きなよろこびである。それは又きっと文さんの霊魂へ、この上ないなぐさめを捧げることになるだろう。われわれはこの文さんの遺著を基礎にしてより完全なところへ研究を進めて行くことができるにちがいない。私はこの著書の発刊を甚だ喜ぶと共に、尚原稿のまま御遺族によって保存されている、奄美の昔話と伝説と諺に関する『続奄美大島物語』が一日も早く刊行される日の来ることを祈っている。

            (昭和三十四年六月二十八日、名瀬にて/原文のまま)

 

 

遺著 改訂増補版 『奄美民謡大観』(昭和四十一年発行)

文 英吉 著

「緒言」著者から抜粋

 .....

 さて、文化の中心から取り残されながら清純な黒潮にかこまれ、忍苦と鍛錬の歴史を経過して強靭かつ旺盛な生活力と生命力を内包しつつ、歌に生き歌に死んでいった民族である。遠祖のおもかげをその感覚に生かし、古俗のなかに明け暮れしたとはいうものの、やはり新しき時代を迎えてその伝統はある程度の新陳代謝を繰り返さずにはおかなかったであろう。一面からいえば、古き文化の形体に固定して一歩の前進のないことは、真の意味の伝統ではないはずである。それは現在の新しさは五百年後、千年後の古典となるのであって、問題は表現の底に流れる永遠的生命であり民俗精神である。

 以下紹介するこの地の民謡が、その文学的な表現の面において案外近代調を持っているのではないか、と問われる人に対し、私は右のような考えで応えたいと思っている。ただ一つ遺憾に堪えないことは、われわれの民謡の母体であり、南島文化の象徴である祝女=ノロの祝詞(おもり)が、一人の祝女で五百種ほどを暗誦していたとのことであるが、それが何ら記録に遺されることなく墓の彼方に葬り去られたことである。

 それは祝女の頑固さと禁忌から俗人の採録は不可能であったという事情もあろうが、しかし機会はあったはずだ。すなわち、首里王府の権力と努力によって彼らの「オモロ」を集めたごとく、この地のそれをも沖縄本島同様に蒐集の手が延ばせるはずであったが、それがなされなかったことである。(「オモロ」のなかに二三奄美出自のものが採録されてはいる)。薩摩藩時代の悪意によるこの地の古記録、古文書の没収焼却は別として、首里官府が文化的措置として多少なりともこの島に親切であったならば、われわれはもっと古代色を照らし見る光がわれわれの手に保持されたのではなかったか、との憾みを深くする次第である。
 それでも絶望ではない。相当の量はわれわれの手にも保持されている。...

 

文 英吉(かざり えいきち) 奄美民俗研究家
明治二十三年 奄美大島に生まれる。
「大島朝日新聞」編集長。昭和八年『奄美大島民謡大観』を公刊。雑誌「南島」を創刊。奄美博物館主事。奄美図書館長。奄美大島復帰協議会副議長。昭和二十九年『奄美大島民謡曲譜集』を長男紀雄と共著公刊。奄美日米文化会館長。「野茶坊物語」「神父さん群像」を南日本新聞に連載。昭和三十二年『奄美大島物語』公刊。同年に死去。遺著 昭和四十一年 改訂増補版『奄美民謡大観』 続『奄美大島物語』未刊行。

 

戻る

------------------------------------
Copyright 2000-2009 : All rights reserved.
Shouzou Tahara (Japan)
Louis Adamic In Japan 
Guide of Noted Slovene-American Immigrant Author Louis Adamic 
Blog–Immigrant Download Ebook for World Diversity!