秋刀魚の食べ方

 

マイク・宝・道人

 

 孔子の言葉に「道に志し、徳に依り、藝に游ぶ」(論語述而第七)というのがある。
「子曰く」の論語は、君子の道を説いた、などという偏った見方から脱れて自由な世界でこの言を検証すると、孔子様、なかなか捨ておきがたい先生だったことがわかる。ここにあるのは人の道そのものではないか。

 藝とは今日の遊興に興じる「芸」ではなく、礼楽の文、射御書数の法など、当時でいえば「学」の道を求める諸芸のことで、孔子はただ一人、この道に入り、この道を極め、この道を游んだのだった。そこが当時の一般の儒士たちの「学」とは違う孔子の偉いところであった。人の生きるに大切な「仁義礼智」の心情と芸術的心情があい並んで進み、合一するまで、自己を昇華させることこそ、自由な人士のなせる善の道である、ということだろう。

 藝にはもう一つの意味がある。音楽はそうした善なる道の形而下的表現の世界だった。孔子はかつて(官)笛を翆子に学び、琴を師襄に学んだ。楽を嗜み、素養にも磨きがかかっていた。冒頭の言は、孔子の中年期、魯国から斉国へ流寓していた三ヶ月のあいだに、韶 の楽を聞いて心が満たされ、思わず求学のこの言葉が口をついて出たことになっている。

 この孔子の言に出会うたびに、筆者には幼年期のある情景が鮮やかによみがえってくる。祖父はごくありふれた侠客の人だった。旧中仙道を枝分かれして走る峠越えの道を筆者を肩車し、ときには通りがかりの馬車のうしろに乗せてしもの町に出て、親戚筋や仲間筋の軒下の框にわらじを脱いだ。秋なら秋刀魚を二つに切って焼いた御馳走が片方ずつ食膳に出る。このとき絶対に守らねばならない礼儀がある。皿の魚の腹わた、骨すべて一切を残してはならないという「仁義」である。腹わたは何とかなるが、骨はかじりついても子供の口ではつらい。祖父は懐紙をとり出して、骨を包み、「ありがとうさんでした」と両の手を合わせて礼をいう。ごはん茶碗はお茶で注いでタクワンできれいに洗って口に流しこんであるからぴかぴかであった。
 骨はどうするか。再び峠越えの山道で昼めしどき、火を起こして昨夜の家で握ってもらったにぎり飯を食う、その燠であぶってきれいにたいらげるのだ。けっして残さず捨てないところに「仁義」があった。

 祖父はそんな折、よくこんなことを口にして筆者を諭したものだ。大人になったら絵描きなんぞになるな、文字を書く人間なれ、と。絵描きはヤクザみたいなものだが字書きは偉い学者先生だ、と。この言葉が妙に頭にこびりつき、もう孔子様があの言をものにしたと同じ年齢になった今でも、ひょいとすると表に躍り出てくる。孔子様は官や琴、韶を好み、たゆたゆと藝の道に游んだが、祖父の音楽はただ一つ、「小諸馬子唄」しかなかった。小節のきいた長い長い喉声が山道を吹き抜ける風に乗って杉林の奥深くに響いた。「小諸馬子唄」など、今、東京のどこを歩いたってめったに聴くことはないが、それでもふっと街中のどこかから流れ出る風のような音を耳にするとき、大きくなって、絵描きにも学者にもなれなかった自分が素裸にされたような錯覚に襲われ、重ねて孔子様の言が琴の弦に乗って流れ出るのである。

 孔子はまた、こんなことを言っている。
 「束修を行う以上より、吾未だ嘗て誨うること無くんばあらず」(論語述而第七)
 これは、人が師について礼楽射御書数の諸芸を学ぶのは、今日的にいえば一流会社に入って出世するためで、そのために良き師に仕え、謝礼を払う。束修とは一束の乾肉のことで師への払いとしてはまことに薄いものであったが、お礼などというものはそれぞれの経済事情によって束修でも儀礼をつくせば厚い感謝となる、従って、わずかの束修でよいから気持ちのこもったお礼で私は生活しよう、わずらわしい出仕はやめよう、自由で独立した世界で私は師としての道を歩む、というのである。そして、その点で私は何ら憶するところがない、というのである。
 現代人は、よくよく自分の胸に手をあてて反省したとき、「吾未だ嘗て誨うること無くんばあらず」と自ら言えるところが残っているだろうか。
 一見、礼楽射御書数をよくし学を極めた人でも、よくよく見ると金銭のガリガリ妄者だったり、およそ仁義礼智とかけ離れた鬼畜人士だったりする。他人の書を盗んだり、外国の理論を剽窃したり、義理を欠いたりしていないか、机上でばかり物を切りきざんでいないか。その意味で、木曽の山中で諭した祖父は間違っていたのか、夢を見ていたのかしたのだろう。文字書きもまた、ヤクザに堕した稼業だということが、慶応時代生まれのほとんど文盲に近い一介の渡世の人には見えなかったのだ。
 それが口惜しい。と思うと同時に、妙にうれしくなる。師には何人かついたが、ついぞ祖父ほどの師はいなかったから。秋刀魚の食べ方を教えてくれただけで、そして正調「小諸馬子唄」を完璧に歌えることを教えてくれただけで、祖父こそは大いなる人生の師であり、真の意味で文字を書く人であったとつくづく思われてくるのである。

引用 季刊「汎」14号 国家を超えて人と文化を考える 1898年9月

  

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