現スロヴェニア (旧ユーゴ) 出身のアメリカ移民作家ルイス・アダミック年譜

 

ルイス・アダミック年譜

 

 

 Louis Adamic
(1898-1951)

 

「…私たちは今日、黒人運動や他のマイノリィティグループの運動に注目することができたし、個々のエスニックグループがアメリカのユニークな多様性のなかで持つべき誇りと、社会構成全体における彼らの一集団としての統一および存在価値との間のバランスに、アダミックの信念を呼び戻すことができたであろう。接頭辞『アフロ』の出現は、もちろんアダミックが、“ハイフン付アメリカ人”以上にどこかよくあってほしいと望んでいた彼の記憶を呼び起こしてくれるものである。しかし読者は次のような言葉を『二つの道』(1941年)のなかで発見するとき、これが30年前に論じられていたとは、きっと疑うに違いない。 

一例を挙げれば、インディアンたちは次のような標示を掲げてワシントンに“侵入”してきた。--「いったいお前たちはどうして(自国)に戻らないのか?お前たちはよそ者じゃないのか?もう一度バッファローを放牧させろ」1971年 H・クリスチャン(ラトガーズ大学)

 

  

        1898年                 (明治31年)

3月23日、現在のスロヴェニア共和国のグロスップレ町に近いブラト村の農家に父アントン、母アンナの12人妹弟の第3子(長男)として生まれる。上の二人はすでに幼児期に死亡。本名はAloizij or “LojzeAdamic ロイゼ・アダミッチ。

 

        1910年                 (明治43年)

12月、スロヴェニア全国のワード・パズル大会で優勝。このころスロヴェニア語に翻訳されていたアメリカの五セント小説『アンクル・トムの小屋』や『モヒカン族最後の者』などに親しむ。

 

        1912年  (14歳)      (明治45年/大正元年)

農家の長男として父の後を継ぐことになっていたが、成績が優秀であったために町のギムナジウムに進学する。そのあとローマ神学校に進学することになっていたが、処罰の対象となっていた汎革命的な「南スラブ人国独立運動」の学生デモに参加し退学。実際に親戚の少年はオーストリア兵に射殺される。そして二度と正式の学校教育を受けることはなかった。12月6日、フランスのルアーブル港から移民船ナイアガラ号で単身「約束の土地」アメリカを目指し、同月28日、ニューヨーク港エリス島を通過、ルイス・アダミックと改名。遠い親戚の家に身を寄せながら、ニューヨーク市のスロヴェニア語系新聞社「グラス・ナローダ」で働きはじめる。たまたま国内や海外のニュースを翻訳する機会に恵まれる。しかし2年後、同社が倒産すると、放浪しながら工場労働者や「肉体労働」、船乗りなどさまざまな仕事につく。

 

        1916年  (18歳)           (大正5年)

12月、米国陸軍に志願入隊。パナマ、合州国、ハワイ、フランス(?)に従軍。祖国を敵国として闘わなければならなかったが、「わが祖国の同胞のように、小国の権利を守り、世界に平和をもたらすため」というウィルソンの思想を信奉して米軍に志願した、とのちに自叙伝で記している。

 

        1917年  (19歳)           (大正6年)

ルイジアナでアメリカ市民権を取得。「私はいつも何か書きたかったのだろう。軍隊にいるあいだ、書きなぐっていた。塹壕では泥でかたどっていた。...」20世紀作家辞典1956年刊.

 

        1921年  (23歳)          (大正10年)

匿名で初めてエッセイを「パーソンズ・マガジン」誌に発表。同郷の作家イヴァン・ツァンカルの「素朴なマーチン」を英訳し「リヴィング・エイジ」誌に掲載。昼は軍務に、夜は英文法と格闘しながら「リヴィング・エイジ」「ワールド・フィクション」「オーヴァーランド・マンスリー」などの雑誌に、25年頃まで主としてスラブ作家の作品を翻訳する。

 

        1922年  (24歳)          (大正11年)

「オープン・ロード」誌主催のエッセイコンテストに応募した「あるアマチュア競技者」が優勝。

 

        1923年  (25歳)          (大正12年)

1月、カリフォルニア州サンペドロのフォートマッカーサーで名誉除隊。その後アメリカ中を放浪する。『ユーゴスラヴィアの諺』を匿名で出版。

 

        1925年  (27歳)          (大正14年)

サンペドロ市のロサンゼルス港水先案内所市職員となる。活動的なカリフォルニア文学会の、ケアリー・マックウィリアムズ(『ルイス・アダミックとアメリカの影』の著者で、生涯の友)、ジョージ・スターリング、イーディス・サマーズ・ケリー、ロビンソン・ジェファーズ、アプトン・シンクレア、ジェイク・ジェートリン、ローレンス・クラーク・パウエル、メアリー・オースティンなどの作家と交友を深め同文学会の一員となり、本格的に作家への道を歩み出す。また、「ハルデマン・ジュリアス」社の刊行物ブルー・ブック・シリーズや「ハルデマン・ジュリアス・マンスリー」誌の定期執筆者となり、これまでの翻訳ものから一転して、いわゆる「デバンク(暴露)」ものの旺盛な執筆を開始する。25年から28年までアダミックはしばしばそれらの雑誌の呼び物となる。

 

        1926年  (28歳)      (大正15年/昭和元年)

スロヴェニア共和国の代表的な作家・詩人イヴァン・ツァンカルの代表作、中編小説『イェルネイの正義』を英語に翻訳し、友人アプトン・シンクレアの助力で古典名著で知られるヴァンガード・プレス社から出版。『エミー・センプル・マクファーソン修道女についての真実』(共著)。宗教ビジネス・ペテン性を痛烈に告発したデバンクものの一例。その他の彼のターゲットになったカルト集団の教祖はイスラム教のマズダズランなど。一方、そのころチャイニーズ・シアターに通い、セシル・デミルなどの映画にひかれる。

 

        1927年  (29歳)            (昭和2年)

「巨大な村」と評した『ロサンゼルスについての真実』を出版。詩人ジョージ・スターリングを介して作家・弁護士でもあるケアリー・マックウィリアムズと生涯の友人となる。彼の主催する「サタデーナイト」誌上の「南カリフォルニアが書き始める」シリーズにアダミックを紹介。「ユーゴスラヴィアの言葉」をH・L・メンケン主宰の「アメリカン・マーキュリー」誌に掲載し、以来、よき理解者であるメンケンの激励を受けて、同誌に1930年「謎」まで9編の独立した短編や物語を発表する。また、ハルデマン・ジュリアス誌に「セオドア・ドライサー、一つの理解――彼は人生を正直に、冷静に、同情的に、救いようもなく見る」を、オープン・フォーラム誌には「アプトン・シンクレア――赤い夜明けの予言者」などを掲載。

 

        1928年  (30歳)            (昭和3年)

『カリフォルニアについて知るべき事実』(共著)出版。『聖書におけるサタンの世界』(共著)出版。

 

        1929年  (31歳)           (昭和4年)

『ロビンソン・ジェファーズ――ある肖像』を詩人の妻ウナ・ジェファーズの助力を得てワシントン大学出版部から出版。1910年のロサンゼルス・タイムズ社爆破事件の真相を知るべく調査を開始。この首謀者の中に社会主義者がいたのを発見する。これはのちに『ダイナマイト』に発展する。大恐慌直前、10年ほど住んだカリフォルニアを去り、ニューヨーク市に移る。

 

        1931年  (33歳)           (昭和6年)

6月15日、ニューヨーク出身のユダヤ系アメリカ人二世でハンター大学の学生、ステーラ・サンダースと結婚(二人には生涯子供にめぐまれなかった)。大不況の最中、出版社を駆け回ってバートン・ラスコーの助力でようやく出世作となった『ダイナマイト』を出版。アメリカ百年間の階級闘争史、ラディカルには必読書。全米図書館協会の「一九三一年度五十冊の名著」リストに収められ、高校教材として、またエール、ハーバード、コロンビアなど全米約八○校の大学のテキストとして使用される。アメリカ初のノーベル文学賞を受賞して帰国したばかりのシンクレア・ルイスに「持ち上げ」られ好評。セオドア・ドライサーの招きで、パートン・ラスコー、リンカン・ステファンズ、エドムンド・ウィルソン、ハートリ・グラタン、ベン・ストルバーグ...作家、アーティスト、「インテリ」などと共に大恐慌についてのミーティングに参加する。

 

        1932年  (34歳)           (昭和7年)

複数の同胞移民の伝記や物語などを合体させたユニークな自叙伝『ジャングルの中の笑い』で二度目に申請したグッゲンハイム財団研究助成金を獲得し、4月、妻をともなって一年間ユーゴスラヴィアの旅に出発。19年ぶりの家族との再会などの感動的な帰郷物語をハーパーズ誌に「オデッセイア ルイス・アダミック」として掲載し、大きな反響を呼ぶ。引き続き「カルニオーラの結婚式」「死がヤネス伯父を待っている」などを掲載。そして、ユーゴスラヴィア全土を旅し記録して回る。

 

        1933年  (35歳)            (昭和8年)

ユーゴスラヴィア滞在中『アメリカの危機』をスロヴェニア語で共同編集・出版。また、彼の滞在と彼の作品がスロヴェニア文化の文芸論争に巻き込まれ、伝統的な雑誌に廃刊をもたらし新しい雑誌が創刊されるなど大騒動を起こす。3月に帰国。あらゆる雑誌社から掲載を拒絶されたユーゴの独裁国王を攻撃する「バルカンの王様商売」をエール・レビュー誌に掲載する。(アダミックの次頁にはトロツキーによる論文が掲載)。この一撃によって独裁体制を震撼させる。また独裁国王アレクサンダルの暗殺を予見(翌年マルセイユで実際に暗殺され、これによって独裁体制は事実上崩壊する)。ドス・パソスらと「コモン・センス」誌を創刊。

 

        1934年  (36歳)            (昭和9年)

『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』が2月の月間図書選書に収められベストセラーとなり、さまざまな外国語新聞や雑誌に転載され、一部はラジオ放送される。作家協会によりルーズベルト大統領に寄贈される。この本でアダミックは「集散主義国家による共和国のバルカン連邦あるいは東欧連邦を建設し、そして、お互いが何らかの満足いく形で、ソビエト社会主義連邦共和国に帰属すべきだ」と提言。セルビアでは独裁国王を攻撃したことにより発禁。スウェーデン語に翻訳されるが、祖国スロヴェニアでも大論争を巻き起こし、結局、翻訳出版されたのは28年後の1962年。4月、「誰がアメリカをつくったか、<暴利をむさぼる奴>か、プロの愛国主義者か、それとも<卑しい>移民か」を「コモンセンス」誌に掲載。『苦闘』をロサンゼルスのホイップル社から限定350部、豪華版で出版。のちにトゥモロー・パプリッシャーから出版され、国際的な反響を得る。『バルカン半島における血に塗られたファシストの恐怖に関して――ゲオルギー・ディミトロフ、ピーア・ヴァン・パーサン、ルイス・アダミック編』を著わす。11月、「ハーパーズ・マガジン」誌に移民二世の問題について評論「三千万の新アメリカ人」を掲載し、全米各地の教育・文化・エスニック関係からかなりの反響を得る。改訂版『ダイナマイト』を出版。海外情報報道局(FLIS)の行政委員の地位に就く。「政治教育のための連盟」により後援された名誉会員となる。全米講演旅行をかねて、大恐慌下のアメリカの惨状をエネルギッシュにルポして回る。この頃から雑誌や新聞に洪水のごとくルポや物語、記事を掲載し始める。

 

        1935年  (37歳)           (昭和10年)

『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』の中でユーゴの独裁者アレクサンダル王を批判し暗殺を予見したためにアメリカ在住のセルビア人たちから脅迫・妨害をうけ、身の危険を感じてニューヨークの38階のホテルに一年ほど潜伏。「第二世代のアメリカ人たち、移民の子どもたちは彼らの両親を恥じ、民族的背景を拒否し、同胞から離れる傾向があり、第三世代のアメリカ人たちは彼らの民族的な血統に回帰、いやむしろ探し求め、その背景を発見しがちだった。」鋭い洞察でスロヴェニア移民の孫たちの心理を描いた『暗黒の草原』を出版。1951年にスロヴェニア語に翻訳される。フィリピンの先住民族を題材に民族の自律≠テーマとする短編物語、『バルーカス族の王 ルーカス』をロサンゼルスのホイップル社から限定350部、1ドルの豪華版で出版。

 

        1936年  (38歳)           (昭和11年)

クロアチア人画家マホ・ヴァンカの人生をもとに30年代ユーゴスラヴィアの全状況を描いた小説『人生のゆりかご』を出版。10年後に現実化するグラス・ルーツの先見的な作品となる。12月半ばグァテマラへ航海。

 

        1937年  (39歳)           (昭和12年)

グァテマラに5月まで滞在予定であったが、「トロツキー擁護」の関係でビザがとれず、2月中旬、「半ば強制送還同然の身」で帰国。旅行記『アンティグアの館』を出版。ニュージャージー州ミルフォード近くのマウンテン・ビュー・ファームに小農場を購入。

 

        1938年  (40歳)           (昭和13年)

1928年から38年まで大恐慌に苦悩するアメリカを10万キロ旅し、戦争へ突き進む大戦間の1930年代を自伝風に、日記、評論、物語、スナップショット、そしてルポタージュの形式で「移民の国アメリカ」の社会、文化、政治を、移民つまり「アメリカ人」の視点からドラマティックに描いた大作『私のアメリカ』をロックフェラー財団の助成金をうけて出版。一般書4、5冊に相当する分量。『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』の中でソビエトよりの内容の入った最後の7ページほどの削除を編集者に指示する。(ソビエトではスターリン粛正が吹き荒れる。)

 

        1940年  (42歳)           (昭和15年)

移民やそのルーツにまつわる様々な問題を調査するために返答の予想されるあらゆる公共機関や団体、個人に約15万枚の質問事項を送付。ユダヤ人、日本人、メキシコ人、フィンランド人、オランダ人、ギリシャ人、アルメニア人、クロアチア人、スロヴェニア人等さまざまな民族の物語をオムニバス風に収めた文化多元主義の先駆的な作品ともいえる*『多くの国ぐにから』を出版し、「世界の人種関係において1940年度の最も重要な本」としてジョン・アニスフィールド賞を受賞。エスニック関係の作家や教育関係の重要な機関誌「コモン・グラウンド」誌の初代編集長(1940−42)となる。小冊子『アメリカと国籍離脱者たち』『この危機こそ好機だ』を著す。1930年代に全米で行なったアダミックの講演記録の要約『プリマスロックとエリス島』を出版。

 

        1941年  (43歳)           (昭和16年)

評論*『二つの道』を出版。戦争中のヨーロッパ系アメリカ人の使命を説く。スロヴェニア系アメリカ人国民会議(SANS)の名誉会長として米政府とローズヴェルト大統領にスロヴェニア民族解放闘争を請願。11月、ニューヨーク市で全米女性大学協会ニューヨーク支部会員六百名の前で「ヨーロッパ再建について」講演し、「貨幣、郵便制度、貿易、交通網….などの統一」された「欧州連邦」の必要性を提言する。ただしユーゴスラヴィアは別。これは『二つの道』で論じられた展望ある提言であったが、マスメディアは、ニューヨークタイムズ紙を除いて、アダミックを「左翼」のレッテルを張って無視し報じなかった。

 

        1942年  (44歳)           (昭和17年)

特に影響力のあった『二つの道』によってアダミック夫妻は、ローズヴェルト大統領夫妻によりチャーチル首相とともにホワイトハウスの晩餐に招待され、そこで日系アメリカ人、ユダヤ人など戦時下の苦境に立たされている国内のマイノリティの擁護を訴える。『二つの道』の改訂版『撤退』を出版。『インサイド・ユーゴスラヴィア』を出版。ニューズレター「二つの道≠ノついて」を刊行(以後、「戦争と戦後」、「今日と明日」、「思潮と潮流」と改題しつつ五○年春まで刊行)。移民の名前の問題などを扱った*『あなたの名前は?』を出版。

 

        1943年  (45歳)           (昭和18年)

アメリカで初めてパルティザンを支持する重要な記事を「サタデー・イブニング・ポスト」誌と新しく創刊された月刊誌「ユーゴスラヴィア」誌上に掲載。南スラブ系アメリカ人統一委員会議長に選出される。同委員会の機関誌「ブルティン」を自ら編集し創刊。第二次大戦下のユーゴ・パルチザン運動、各民族の苦難の歴史、エッセイなどを集めたユーゴ問題でもっとも影響力のあった*『わが祖国』を出版。この作品でユーゴスラヴ人民解放委員会から統一勲章を授与される。共著『外国生まれのアメリカ人と戦争』。翻訳『或る死せるパルチザンの遺書』を南スラブ系アメリカ人統一委員会から出版。小冊子『必要事項戦後問題へのアプローチ』を出版。

 

        1944年  (46歳)           (昭和19年)

「南スラブ系アメリカ人」代表を降りる。小冊子『1944年…重大な年、移民グループのダイナミック≠ネ統一の必要』を南スラブ系アメリカ人統一委員会から出版。編集「ウィンストン・チャーチル他著『チトー将軍と彼の勇敢な部隊』(アダミックの「勇敢さの研究」収載)」。編集と序文「シュルツバーガー他著『チトーのユーゴスラヴ・パルチザン運動』」。編集と序文「チトー他著『ユーゴスラヴィアとイタリア』。小冊子『ユーゴ問題はアメリカ問題でもある』を出版。「ウーマンズ・デイ」誌に「彼らは自由を信じた−フランスからのアメリカ人」の連載を始める。オランダ、アイルランド、イタリア、ノルウェー、ポーランド、ロシア、スウェーデン、ニグロ、ユーゴスラヴィア…と発展し、『多民族国家』のもとになる。

 

        1945年  (47歳)           (昭和20年)

多民族共生、文化多元主義、多様性をテーマとする*『多民族国家』を出版。戦後ヨーロッパの再建に奔走。小冊子『アングロサクソンの血を引く旧血統のアメリカ人への手紙』を出版。編集「解放――ファシズムに死を! 人民に自由を!…」南スラブ系アメリカ人統一委員会。

                      *「多民族国家」シリーズ

 

        1946年  (48歳)           (昭和21年)

『ホワイトハウスでの晩餐』を出版。この本の一部脚注(バルカン紛争の責任に関して)がウィンストン・チャーチルにより文書誹謗の廉で訴えられ、ロンドンで敗訴、罰金1000ドル。翌年、プラハでチェコ語に翻訳出版される。「ザ・ピープルズ・オブ・アメリカン・シリーズ」誌の編集主幹。小冊子『アメリカとトリエステ――神とロシア人…』を出版。

 

        1947年  (49歳)           (昭和22年)

編集「ザ・ピープルズ・オブ・アメリカン・シリーズ」(一九四七―一九五〇年)。同シリーズに幾つかの序文を載せているが、その一つはブラッドフォード・スミス著『日本からのアメリカ人』に対する「寛容について」。(同シリーズの書にはオランダ、ハンガリー、英国、メキシコ、スウェーデン、ノルウェーなどからのアメリカ人や『アメリカ先住民の叙事詩』『彼らは鎖で繋がれてきた――アフリカからのアメリカ人』などがある。)彼の所属する組織と彼自身が非米活動委員会の嫌疑を受け、メディアから「コミュニスト」として叩かれ始める。

 

        1948年  (50歳)           (昭和23年)

「コミュニスト」の反証をどこの雑誌社も掲載させなかったので、自分のニューズレターで痛烈な口調で論じる。大統領選に出馬したヘンリー A・ウォーレスの進歩党綱領委員会の委員に任命され、一週間、夜を徹して進歩党綱領委員会草案の作成にとりかかる。ユーゴスラヴィアはモスクワ・コミンフォルムから追放されるが、アダミック自身これについて別に悩んではいなかった(元在米ユーゴ大使ヴィフランの言)。

 

        1949年  (51歳)           (昭和24年)

1932年のときと同様に、今回もスターリンのロシアのビザがとれず、ユーゴスラヴィア、フランスに1月から8月まで八カ月間滞在。チトーをはじめ新政府の高官らとユーゴ、ロシア、アメリカの問題について討議、そしてユーゴスラヴィア全土を旅し記録して回る。

 

        1950年  (52歳)           (昭和25年)

膨大な資料を持ち帰り、春までに自らの眼で見た現実のユーゴに関するドキュメント「鷲とルーツ」をようやく完成(総数3000ページ)。しかし、出版に対する妨害や脅迫など、身の危険のためにニューヨークのホテルに、その後妻ステーラの療養しているカリフォルニアに潜伏。また、10年がかりで準備していた新しい本「ミカエルの教育」の執筆のために出版社から前金をうけ執筆にとりかかる。

 

        1951年  (53歳)           (昭和26年)

9月4日、マウンテン・ビュー・ファームの農場で死体で発見される。書斎とガレージはすでに焼き尽くされ、頭部には銃弾が貫通。しかし腕に抱えたライフル銃から指紋は検出されなかった。葬儀は本人の遺志により宗教に関係なく埋葬された。アダミック作品の自伝的なエッセンスを集めた『二つの祖国から』がスロヴェニア語に翻訳されリュブリャーナで出版される。また、生家の壁に「この家から世界に旅立った我等が忘れがたきルイス・アダミック。勇敢に、立派に、己の任務を全うし、かつ人間の権利のための闘いに犠牲を払った。」とスロヴェニア語と英語で刻み込まれる。

 

        1952年                  (昭和26年)

マッカーシズム吹き荒れる中、アメリカ、ユーゴスラヴィア、ロシアなどからのさまざまな妨害と脅迫をうけ死の引き金ともなった遺稿の一部、『鷲とそのルーツ』が妻ステーラと編集者ティモシー・セルデスの編集でダブルデイ社から出版される。ユーゴスラヴィアでは発禁。スロヴェニア語版は20年後に出版される。しかし残りの膨大な量の、そして最も重要な「激震の中のチェスゲーム」( A Game of Chess in a Earthquake)など、マッカーシズム、朝鮮戦争、軍事、外交...米政府に対する徹底的な批判や国際的な展望については、時代状況から削除され依然として未刊行。さらにその最も重要な部分とされる原稿がいまも行方知れず。明らかにユーゴスラヴィア政府の検閲が入ったとされている。

自ら宣言していたとおり、己の良心と闘いながら、一作家として、「自由に、正直」に書いた。

 

        1981年                  (昭和56年)

没後30年にあたって、アメリカ・セントポール大学、ミネソタ大学移民研究所、スロヴェニアのエドヴァルド・カルデリ大学で国際会議・シンポジウムが開催される。アメリカではエスニック・リバイバルのなかで、エスニック・スタディーズ、エスニック文学のパイオニアとして再発見され、1930−40年代の歴史・文化・政治・外交政策など作家の思想と行動が注目され、またユーゴスラヴィアでは国民的悲劇にあった時代の証言者として再評価される。

 

        1991年                  (平成2年)

6月25日、祖国スロヴェニアがアダミックの予見どおりユーゴスラヴィアから独立を宣言。

 

  • 上記の著作以外に、編集ものや、新聞雑誌に掲載された記事、翻訳、エッセイ数はタイトルが500余を越える膨大な量。また、アダミックの著作はスロヴェニア語、セルボ・クロアチア語をはじめ、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、チェコ語、スウェーデン語、日本語など様々な言語に翻訳出版され、今日もリプリントされ読み継がれている。作家、ジャーナリスト、評論家、翻訳者、思想者、編集者、パンフレッター、ポレミスト、社会・政治変革者、アメリカ移民のシンボル、1940年代のアメリカにおけるユーゴスラヴィアのスポークスマン...と多彩な顔を持つコスモポリタン作家ルイス・アダミック、作家歴わずか25年間にすさまじい情熱で、しかも外国語で山のような原稿を書いたが、その資料の大半は主にプリンストン大学(The Papers of Louis Adamic and Supplementary Materials )、スロヴェニア共和国リュブリャーナ市のUniverzitetna Knjiznica大学ナロードナの「ルイス・アダミック コレクション」(The Louis Adamic Collection of World and University Library)、ミネソタ大学移民研究所「IHRCコレクション」(Immigration History Reseach Center-University of Minnesota)*そして故郷のルイス・アダミック記念館(Louis Adamic Memorial Home )に保管されている。まだ没後50年足らずであり、正当な国際的評価を得るにはかなりの時間を要するであろう。本文は少しでも多くの方にアダミックの存在を知っていただきたく掲載した。

*現在、新たに故ヘンリーA・クリスチャン教授寄贈によるアダミック・コレクションの整理が行われている。

*1940年代以降はDr.Janja Zitnikの新しい研究著作をもとにもっと具体的に加筆したい。(2000年12月)

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