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奄美を描いた異邦人 |
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一村の手紙 狂った狼 死神先生 これは近頃の私のアダ名です 「いま私の全神経は、絵に向いています。さわられても、叩かれたように驚きます。実に楽しく絵をかいています。絵が楽しくなると正反対に、私の言動は狂人に近くなります。オランダのゴッホも、フランスのセザンヌも、執筆中の夏目漱石も、画室に於ける横山大観先生も、狂人同様であったことを想起して下さい。 皆様は、私が一人ならば、何とか絵を売って、この南の島で生活して行くだろうと、簡単に考えていらっしゃる様ですが、未知の風景、植物、動物を調査し、写生し、絵に構成し、それを名画の水準まで高めた上にさらに自分で売る程の精力の余裕が、私にあると思し召されて居るのでしょうか。私には猿回しや旅芸人のような生活力はありません。 「先生の御書信、拝見致しました。私の手紙と先生のとすれ違いとなったらしいですね。前便にて申し述べ足らぬところを申し上げ、私の今の立場と気持ちを御諒察願いたいと存じます。 「東京で地位を獲得している画家は、皆資産家の師弟か、優れた外交手段の所有者です。絵の実力だけでは、決して世間の地位は得られません。学閥と金と外交手腕です。私にはその何れもありません、絵の実力だけです。」(三十四年三月、中島義貞氏あての手紙) 「御手紙有難うございました。拝見致しました。私の健康状態は、先生の想像なさるような元気な姿ではありません。折角の御申越ながら私は出かけることは出来ません。御送りくだされた弐万円は、同封して御返し申し上げます。御査収め下さい。 田中 孝 狂った狼 死神先生 これは近頃の私のアダ名です (昭和四十八年二月五日) ――――――――――――――――――――――――――――― 一 村 砂白く 潮は青く 百合香る 砂白く 潮は青く 千鳥鳴く 白砂の丘 千鳥たわむれ あざみ咲く 残月に パパイヤ黒し 筬の音 鬼へごは 老椎よりも 丈高し 小春日を 小夏と聞けり 奄美島 梅花なし 桃花またなし 島の春 鶯も ソテツを侶とす奄美島 黄に赤に もみじ葉ちりつ 桜咲く 若葉見えず 不如帰聞かず 鰹食う 銀河見ゆ フクロウ聞こゆ ねむの花 宝島 白あじさいの 乱れ咲く 千鳥なく サギは降り立つ 牛の背に 花は緑 萌ゆる緋の葉よ 名はクロトン 風強し 波は届くか 残月に 熱砂の浜 アダンの写生 吾一人 雛鳩を懐き 眠らず みみずくを聴く 病鳩を懐き 眠らず みみずくを聴く 引用 『アダンの画帳 田中一村伝』 南日本新聞社編 道の島社 参考図書 『田中一村の彼方へ』 加藤邦彦著 三一書房 代表作 「エンマ大王へのみやげ」「アダンの木」「クワズイモとソテツ」 |
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田中一村略年プロフィール |
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1908年 明治41年 |
7月22日、栃木県下都賀郡栃木町に田中弥吉、セイの六人兄弟の長男として生まれる。本名孝。父は稲村の号を持つ仏像彫刻家。 |
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1911年 大正一年 |
4歳。東京麹町に移住し、その後二十九年間東京で育つ。 |
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1921年 大正10年 |
13歳。芝中学に授業料免除の特待生として入学。学業のかたわら南画の研究に熱中した。根をつめすぎて結核を患い、房州小湊に転地療養。 |
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1926年 大正15年 |
18歳。東京美術学校日本画家に入学。同期生に東山魁夷、橋本明治、加藤栄三、山田伸吾らがいた。結核が再発し、また父の病気も重なりわずか三ヶ月で中退。 |
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1928年 昭和3年 |
母セイ(43歳)逝去。弟実(15歳)逝去。 |
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1931年 昭和6年 |
23歳。自分の進むべき画道をはっきりと示す作品に一人の賛成者もなく、支持者と絶縁する。生活費を稼ぐために帯留や根付、木魚など細工物を作る。 |
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1935年 昭和10年 |
父弥吉52歳逝去。弟明(20歳)逝去。 |
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1938年 昭和13年 |
30歳。東京を離れ、千葉市千葉寺に、姉喜美子、妹房子、祖母スエの4人で移住。農業で自給を図りながら絵に専念する。 |
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1947年 昭和21年 |
39歳。号を「米邨」から「柳一村」と改め、川端龍子の主催する第19回青龍展に「白い花」が公募展初入選。しかし翌年の20回展では、自信作の「曙光」より、参考作が入選という評価に、川端龍子と意見衝突し決別となる。 |
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1955年 昭和30年 |
四国、九州を旅行。種子島、トカラまで足を伸ばし、南海の自然に魅了される。 |
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1958年 昭和33年 |
50歳。12月13日、初めて奄美の地に第一歩をしるす。屋仁川の梅の屋に宿を借り、各地を回る。写生帖は数冊にものぼった。和光園では、患者の肉親の肖像画を写真をもとに誠意を込めて描き大変喜ばれた。 |
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1961年 昭和36年 |
千葉の友人、岡田藤助氏に依頼されて襖絵を政策、準備しながら奄美でのスケッチをもとに描いてる絵を見た岡田夫人はその絵の変化に驚いた。 |
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1962年 昭和37年 |
54歳。名瀬市有屋に借家し、生活費をかせぐために大熊の紬工場に摺り込み染色工として働き始める。 |
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1965年 昭和40年 |
姉喜美子(60歳)逝去。遺骨を抱いて奄美に帰る。 |
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1967年 昭和42年 |
59歳。5年間働いた紬工場をやめ、絵を描く生活に入る。 |
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1970年 昭和45年 |
62歳。再び紬工場で働き、2年後にはやめてまた絵に専念する。本茶峠で歩行中、めまいに襲われ3メートル下に転落。その後失神をくり返す。奄美焼窯元、宮崎鉄太郎と知り合う。 |
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1976年 昭和51年 |
68歳。夏、畑仕事中脳血栓で倒れ入院。妹房子連絡を受けて奄美へ来る。千葉の肉親に、奄美での作品を託す。 |
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1977年 昭和52年 |
体調がやや回復。宮崎氏からホテルのロビーで個展を提案。一村喜んで受け入れ、作品を集めるため千葉に行き、肉親や友人に奄美での作品を披露しまた持ち帰る。 |
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1979年 昭和54年 |
名瀬市中央公民館で「田中一村画伯遺作展」(11月30日〜12月2日)が開かれ、市民に大きな感動と驚きを与える。 |
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1984年 昭和59年 |
NHKテレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜−異端の画家田中一村」全国放映。 |
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1986年 昭和63年 |
笠利町立歴史民族資料館にて「田中一村展」(7月1012月16日)開催。これを機に、毎年メイジツのよ月11日に一村忌が有屋の終焉の地にて行われる。 |
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1993年 平成5年 |
中学校と高校の教科書に「エビ素描」と「クワズイモ」が採用される。 |
引用「奄美に残る田中一村遺作覧」平成5年11月20日−11月28日
奄美博物館(名瀬市)
2005年 田原正三記す
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