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地元の薩摩街道を辿る

2006年2月14日

川内高校を迂回する

川内高校を迂回する裏道

明けて14日の朝10時、自転車を漕いで昨日の終了地点まで向かう。このあたりは歩行者と自転車以外は進入規制があったりするから、やはり自転車が便利。

まずは昨日見た案内看板のルートどおり、フェンスにそって反時計回りに川内高校の敷地を迂回する。道幅はかなり狭く、車同士での離合はまず無理。それでも時折車が前後から入ってくるから要注意だ。

踏切の手前を左に入り、裏門からぐるっと回って体育館のあるところまで行くと、昨日可愛小学校(えのしょうがっこう)からの入り口で見たのと同じ看板がフェンスの網に貼りつけてあった。そして正面の角には例の矢印看板も設置されている。この正面の筋へと入り、ふたたびまっすぐ住宅街を進む。


御陵下町(ごりょうしたちょう)川内高校付近

学校周辺の迂回路 看板Aのあった小学校の筋 川内高校の裏門を過ぎると 金網に同じ看板Bがある 角に矢印看板もある

看板Bと矢印看板 北緯31度49分48.2秒 東経130度17分54.2秒 標高18.5m (WGS84)


御陵下町を北進

川内高校を出発してからしばらく登りが続く。ここ御陵下町(ごりょうしたちょう)のまん中あたりに高い部分があって、R3も含めて周辺の道はそこへ向かってみんな坂になっているのだ。

R3から東の国分寺町へ連絡する市道と交差するところがちょうどピークの背の部分で、越えると道は一転下りとなる。ここで右側の石垣の上に、旧薩摩街道と彫り込まれた幅50センチほどの横長の御影石が埋め込まれているのを見つけた。今まで見てきた案内看板のたぐいとは趣を異にするもので、一見すると家の表札っぽい。路面から2メートルほどの少し高い位置にあるが、一段高くなっている表の車道からは見やすい。誰が作ったのかは書かれていないが、日付は平成八年八月吉日とあった。

御陵下町(ごりょうしたちょう)付近

交差点の右向かいに文字が 下から2メートルの高さに 御影石に彫られた表札のような文字

北緯31度49分54.7秒 東経130度17分45.0秒 標高24.8m (WGS84)

河童の女神の後ろ姿

ピークを過ぎて坂を下ると、右手に団地が見えてくる。その向かいに何やら怪しい塑像が建っている・・。一見するとたいまつを掲げる自由の女神風だが、首から上はどう見ても人間ではない。台座にある説明書きによれば、これは防火の守り神で「カッパの女神」という名前らしい。河童は河の神、イコール水の神だからなんだそうだ。しかし雨で石膏が流れたのか、中の骨組みがボロボロに見えてしまっているのが痛々しい。

当市は市街地の中央を流れる川内川という大きな川が身近にあるせいか、昔から河童(かっぱ)の伝説が数多くあり、水泳の達者な者を指して川内(せんで)ガラッパとも呼びならわす。ガラッパとは河童の事だ。ひいてはこれが地元民全体の気質を表す代名詞みたいになっているのだが、その結果良くも悪くも、何かというと河童とからめて地元をアピールしたがる癖がある。がらっぱカレーにがらっぱパイ、ゲームセンターや書店の入ったアミューズ施設はガラッパークで、中にあるボウリング場はもちろんガラッパボウルだ。
伝統を守るのはいいのだが、正直あまり語感がいい単語ではないと思うし、こう繰り返されるといささか鼻につかないではない。

だいたい今じゃ川泳ぎなんか学校単位でキッパリ禁止されているし、行ってみればわかるが肝心の川辺もまるで整備されておらず、昨年夏の大水で流れ着いたゴミが未だに大量に放置されていて、河川敷の状態はひどいものだ(※)。水のまちだの何だのと綺麗なキャッチコピーばかり考えているお偉いさん方も、たまには河川敷を自転車と自分の足で走って現実を見すえた方がいいと思う。

(※)この文を書いた直後、2月中旬になってようやく中心街付近での河川清掃作業が行われた模様。

田神と彫られた丸い石

この坂道を下りきったところに交差点があり、この右側の角に標柱が建っていた。しかしここから先どっちに進むべきかの指示はない。こういう場合はおとなしく地元の人に訊いてみるに限る。若い子はちょっと無理だが、年配の人なら旧街道はたいていよくご存じだ。

さっそく買い物途中のおばちゃんに尋ねたところ、ここを右に曲がって踏切の向こう側に続いているようだ。昔はこのまま直進だったそうだが、住宅や鉄道の駅が出来てつぶれてしまったらしい。

ふと足下を見ると、田神と彫られた丸い石が路肩に建っている。鹿児島地方では田んぼのそばによく見られる稲の収穫の神さまである田の神様(たのかんさぁ)なのだろうが、普通は人の姿を模した塑像なのに、ここではなぜか文字のみだった。さっきの河童ではないが、これも地元特有の信仰に根ざしたランドマークと言える。機会があったら各地の田の神さぁ像を巡ってみるのも面白いだろう。


踏切を越えるとすぐ向こう側に矢印看板が見つかった。ここから線路を左に見ながらまっすぐ進む。

御陵下町字後田(ごりょうしたちょう あざ うしろだ)付近

標柱から右へ折れる 標柱のプレート

北緯31度49分59.7秒 東経130度17分39.1秒 標高19.5m (WGS84)

御陵下町 上川内駅(ごりょうしたちょう かみせんだいえき)踏切付近

踏切を渡って左へ 踏切の向こう側の矢印看板 線路に沿って進む

北緯31度50分03.6秒 東経130度17分40.2秒 標高21.7m (WGS84)

上川内駅あたり

上川内駅から高城町へ

すぐ左手に見えるのは肥薩おれんじ鉄道上川内駅(かみせんだいえき)。ここからまっすぐ進むと御陵下町から高城町(たきちょう)に入る。

作者が小学生の頃にはここに竹竿の工場があって、出来損ないののべ竿を貰ってきてはグリップ部分にタコ糸を巻いて釣り竿に仕上げ、この道をずっと行ったところにある高城川(たきがわ)でアユやオイカワなんかを釣っていたものだ。当時は周囲に木立が鬱そうと茂り、道も細く傾斜もきつかった記憶があるが、今はトラックが余裕で行き交うくらい整備されている。

左手に森永石材店の工場、そして地区の白い広報掲示板があるところで道は分岐している。ここの右手に矢印看板があった。ここのは今までの1本柱やコンクリ壁直付け式ではなく、2本の短い支柱で民家の土手に刺してある珍しいタイプ。この矢印に従い、細い方の道に入ってゆく。


高城町(たきちょう)森永石材店付近

正面の細い筋を入る 土手の上に矢印看板 珍しい2本足の矢印看板

北緯31度50分22.7秒 東経130度17分30.0秒 標高21.4m (WGS84)

2006年6月14日追記 森永石材店は移転しました。

高城町の京セラあたり

咲き誇る梅の花

ここから道はぐっと狭くなり、右側はかなりの急傾斜地。民家へと上がる道はどこも急坂とつづら折れで、初心者ドライバーには悪夢のような場所だろう。しかし道の脇には梅の木があちこちに植わっていて、この時期奇麗な花で道行く人の目を楽しませてくれる。

しかし梅の花の香りはあまり感じられない・・それは、このすぐ向こう側にある京セラの工場から何やらゴムの焼けるような悪臭がいつも漂って来ているからだ。別に煙突があるわけでもないのに、一体何の臭いなのだろう。この裏道を進む限り、鼻のまがるような臭いとつき合わなくてはならないのだ・・。

やがて広い道に出たところで、右側の民家の壁に矢印看板を発見。右に向かって斜めに示してあるから、この坂道を上がれという意味だろう。道路の向こう側に渡ってから坂を上ると、ほんの何十メートルも行かないうちに今度は左方向への分岐があり、花壇のわきに標柱が建っていた。


高城町(たきちょう)京セラ白樺寮付近

坂を登る方向へ 角の塀にある矢印看板

北緯31度50分33.9秒 東経130度17分31.2秒 標高23.6m (WGS84)

高城町(たきちょう)字山元付近

次の筋を左に入る 角には花壇と標柱 標柱のプレート

北緯31度50分35.8秒 東経130度17分33.2秒 標高26.2m (WGS84)

京セラの裏の竹林

このあたりは完全に工場の裏手で、すぐ左のフェンス越しにいろんな建物や作業機械が見える。作者も電気工事という仕事柄、ずっと前だがこの工場内で作業をした事がある。この部分は当時確か第18工場と呼ばれていた建屋だった。中にはクリーンルームや自動メッキのラインなんかがあって、いかにも最先端のハイテク工場といった感があったのだが、そこからちょっと表に出れば江戸時代の旧街道が横切っていて、昼なお暗い孟宗竹の林がザワザワうなっているのだ。

少し行くと、今度は上から降りてきた下り坂の道と合流する。そこにも矢印看板があった。道はまだこのまま直進のようだ。


高城町(たきちょう)京セラ裏・鹿児島オキシトン川内工場付近

合流してさらに直進 合流点の矢印看板

北緯31度50分48.0秒 東経130度17分32.5秒 標高27.2m (WGS84)

京セラ裏から高城川を渡る

祇園神社の跡らしき場所

祇園温泉の裏手を抜け、いっそう狭くなった道を進むと、唐突に左への直角カーブに出くわす。ここの角の小さな空き地に黒い立て看板があり、ここは祇園神社の跡である、と書かれていた。祭神はスサノオノミコトと奥さんのクシナダ姫で、ここいらは昔、野町と呼ばれる薩摩藩公認の商業街だったそうで、焼酎の蔵元や人形屋、宿屋などが多くあった。その関係で商売の神さまのスサノオを祭ったという事らしい。

しかしこの看板、かなり無造作に建ててあるのでちょっとさわるだけでグラグラとかしいで、何だかえらく頼りない。辺りには遺構らしき石積みも特に見あたらないし、これでは本当にこの場所にあったのか疑わしい気がするのだが、すぐ近くの温泉が祇園と名乗っているくらいだから、少なくともこの周辺にあったのは間違いなさそうだ。

柱に書かれた銘によればこの看板を建てたのは高来校区生涯学習振興会という団体。見ると通りのあちこちにも同じような黒地に白文字の看板が建っている。薩摩街道保存会に続き、また新たな看板設置グループの参入というわけだ。

ところでこの先の薩摩街道はどっちだろう?直角カーブの後に十文字がいくつかあるが、どれにも矢印看板はない。このすぐ先には高城川という中くらいの川が流れていて、川向こうにはお寺がある。旧街道という響きからすればお寺のある方向に向かっている気がするから、直角カーブまでの道筋をまっすぐ延長する方向になるのかもしれないが・・。

例によって道に迷ったら誰かに訊け!という事で、近くの民家の庭先にいたおじさんに尋ねてみた。結果、さっきの推測は不正解で、このまま道なりに進むのが正しいルートらしい。しかもこのおじさん、薩摩街道にはちょっと詳しい風で、作者が木場茶屋からずっと走ってきたと言うとニコニコしながらこの先のルートについてもいろいろ教えてくれた。そこで、この先この自転車に乗ってどこまで行けるでしょうか?と訊いてみたら、

「いや、私もまだそんな先まで行った事ないんだけどね・・」

と、最後にちょっと頼りない返事が返ってきたが、まずはお礼を述べて、ペダルを踏んだ。

この細い道から表の県道341号に突き当たるT字交差点で、なんと左右に矢印看板を2枚発見!このように1箇所にペアになって設置されている例は初めて見た。しかもすぐ近くの橋のわきには標柱も建っていて、さっきの黒地に白文字看板群とも合わせ、さしずめ薩摩街道筋の道標銀座といった様相である。

ルートはこの後右に折れ、妹背橋(いもせばし)で高城川を向こう側に渡り、直進する。


高城町(たきちょう)郵便局付近

県道に出る所の矢印看板2つ 一つ目 二つ目

北緯31度50分58.1秒 東経130度17分21.3秒 標高27.4m (WGS84)

高城町字川原(たきちょう あざ かわはら)通称・妹背橋(いもせばし)

橋のわきにある標柱 標柱のプレート

高城町の急坂を上る

妹背橋の説明看板

郵便局のある向こう側から妹背橋を渡ると、今度は左手の消防団の建物の横に妹背橋の歴史を書いた大きな案内看板があった。

これによると、かつて薩摩街道が通っていたこの橋、2代目の石組2連アーチ橋はかの肥後の石工として名高い岩永三五郎の設計で、しかも群奉行座書役(工事監督みたいなもの)を当時若干二十歳だった西郷隆盛が努めたという。現在の橋は鉄筋コンクリ製の4代目だが、2代目に使われた石柱が今もこの看板の裏側に建ててあり、往時を偲ばせる。

ひそかに石橋愛好者でもある作者としては、せめて横っちょのあたりに移築しておいて欲しかったと思うが、何しろ架け替えられたのが昭和35年というから日本の高度成長期のまっただ中、岩戸景気と謳われた時代の話だから、古い物をじっくり保存しようという発想自体なかったのかもしれない。

信号のある交差点を過ぎると、さっきのおじさんの説明どおり、すぐ向こうに分岐の矢印看板が見えてきた。この看板は黒地に白文字の高来校区会製で、矢印看板としては今までの白いのや木版ベースのものとは意匠が異なる。きっとこの先のエリアはしばらくこのデザインなのだろう。
ここの筋から左に入ってゆく。


高城町(たきちょう)高来小学校手前

矢印看板を左へ 黒い矢印看板 住宅街を奥へ進む

北緯31度51分03.9秒 東経130度17分20.6秒 標高27.4m (WGS84)

西郷どんの手水鉢

周辺は住宅街で、左手の高台にはまだ新しいアパートもある。路面の舗装もまだ奇麗なので、整備されて間もないようだ。入って数十メートルほどの所に、西郷どんの手水鉢(ちょうずばち)というのがある。先ほどの石橋建設のくだりに由来するもののようだ。上の鉢の部分は石造りでいかにもそれっぽいが、土台は明らかにコンクリートで固めてある。

このあたりから傾斜がきつくなり始め、正面のカーブには何やらまた看板が見える。看板というよりモニュメントに近い規模で、薩摩街道の簡単な説明と薩摩藩の紋章が5本の丸太で組まれたタワーにあしらってある。旧街道をアピールするのはいいが、ここまで来るとちょっとイヤミに感じてしまう。どうせならこんな隅っこではなく県道沿いの表から見えるよう建てればいいのに・・。

まあそれはともかく、この急坂には梶倉坂(かじくらんざか)という名前が付いているらしく、こちらはいかにも手作りっぽい素朴な丸太組みの看板(もはやではないが)に浮き彫りと派手なペンキで書かれていた。通り名が付くくらいだから傾斜も相当なもので、とてもじゃないがこの安物自転車で漕いで上がれるレベルではない。たぶん今まで通ってきた旧街道の中では最強のキツさだろう。


高城町(たきちょう)梶倉坂

急な坂の入り口 丸に十の字のモニュメント 急傾斜を横から見る

北緯31度51分04.7秒 東経130度17分15.1秒 標高37.8m (WGS84)

謎の山道へ進入

梶倉坂を押して歩く作者

坂の上で別の道と合流するが、頂上はまだ見えない。自転車を押しつつ、歩いて坂を上がる。

このあたりは表の県道341号でもちょっと先で1箇所だけボトルネック状に狭くなっている峠部分があるのだが、この坂を含めた丘陵部分と連動しているような気がする。重機で削れば平らに出来て住宅地にも使えるだろうに、それをしないのは地主さんが頑張っているからか、それとも地代が安くて元が取れそうにないからか・・。

急坂をどうにか越えて、ようやくサドルにまたがり下りにかかった。自転車のハンドルに取り付けたハンディGPSに残っていた軌跡データによれば、240メートル進むうちに約30メートルも高度が上がっていたから平均12%以上の勾配があった事になる。文句なしに今までで最強の上り坂だった。

周囲は住宅地からだんだん雑木林の目立つ山間部の雰囲気になってきた。木々のすき間から下の方にある道や集落がチラチラ見えるからそれほど孤立感はないが、確実に人気のない場所に入っていくのがわかる。

杉の枝が散乱するコンクリ舗装路面をいっとき下ると、何本かの道に分岐している踊り場のような部分に出た。ここで右側に例の矢印看板が建っているのを見つけた。さっきのような黒地に白文字ではなく、おなじみ薩摩街道保存会の白い柱式のやつだ。

矢印の指す方向には2本の道がある。一方はコンクリ舗装の上り坂、もう一方はどう見ても山中のヤブに分け入る薄暗い未舗装路で、少なくとも後者の道には何か特別な理由でもない限り、自転車どころか歩きでだって入ろうという気にはならない。でも上りの方は明らかに民家に通じる行き止まり道だし、街道を進むならやっぱりこの荒れた方の道に入らなくてはならないらしい・・。

時刻は午前11時だから、午前中休みの今日のリミットまではあと2時間ほどある。ここは腹をくくって、自転車をヤブに向かって押し出した。


高城町西迫(たきちょう にしさこ)付近

矢印看板の前で一考 山中へと向かう道 道の中は薄暗い

北緯31度51分12.7秒 東経130度17分03.4秒 標高37.0m (WGS84)