「春通信」     皓以兆

玉利の山奥に居を構えて、もうすぐ4年になる。家の裏手が山なので、小鳥の数がとても多いところです。今年は例年にもまして数が多い気がします。今村さんから野鳥図鑑をかりて、鳥の名前を調べてみました。「メジロ」「ヒヨドリ」「ツクシ」「ハクセキレイ」がよく見られる鳥です。とくにメジロは10羽ぐらい遊びにやってきます。みかんを輪切りにして、枝につけたりしていると、すぐに見つけてみかんを食べにきます。その姿はとてもかわいいです。湊地区にいたころはあまり関心がなかったですが、玉利に引っ越してから、新たな楽しみが増えました。私は朝晩2回2匹のいぬと散歩に出かけますが、歩いていると季節の変化がよくわかります。梅がほころんできたり、寒非桜が鮮やかなピンクの花を咲かせていたりして、春の訪れが木々を通してわかります。いぶすき地方の名産「そらまめ」もだいぶ大きくなり、毎日変化しているように思えます。そらまめ畑のどてには「つくし」が顔を出していました。又。夕方散歩していると、だんだん日が長くなり、春に向かっているんだなと感じます。
先月は「ココはしむれ」の「菜の花畑」をデジタルカメラで撮りました。私の義兄が福岡と東京にすんでいますので、季節の変化を感じてほしいと思い、写真をつけて、メールで送っています。忙しい都会の生活にひと時の清涼剤になればと思っています。返信のメールには「次の春通信を楽しみにしている。」とありました。季節の変化に耳を澄ましたり、目を凝らしたり、すがすがしい空気を吸ったり、散歩の途中で楽しんでいます。又、わからないものを調べたり、人に聞いたりすることも、それも楽しみの一つになりました。

「千里の空も一つ家」というメールが来た。
 差出人は静岡の高校時代のテニス仲間である。卒業後、東京にいた頃は何度か会っていたが、指宿に来てからはそんなに会っていない。たしか4・5年前の年末にテニス仲間の7人(同級生3人と一つ後輩の4人だった)で指宿に来てくれた。その時は30年振りに会った後輩もいたが、30年経っていたなんて全然感じない時間を過せた事を思い出した。
 用もないから電話はしないし、手紙はおっくうだしと音信は年に一度の年賀状だけだった。その年賀状に近況とメールアドレスを書いたので、生まれ育った静岡の人達からのメールが増えた訳である。
 その晩は酔っていたのでキーを打つのが面倒だと電話した。相手も酔っていたようだったが、会話は直ぐ終わった。お互いに言いたいことの十に一つも言えなかったのではと思った。電話は要件を伝える道具という事がよく分かった。
 寝る時に、女房はよく長電話していた事を思い出した。そんなにたくさんの用事があったんだと、ちょっと不思議な気持になった。
 ちなみに電話の会話は冒頭の「千里…」は「遠く離れていても一つの家にいるようなものだ」と彼が恥かしそうに言ったことだけだった。


独り

 鮫島は中年のサラリーマンだった。家族は四人。持ち家ではなかったので、3DKの狭いアパートに住んでいた。家族の人間はこの狭い家が不満らしいが、普通のサラリーマンがどう頑張っても都心に家など持てるわけがない。これでも鮫島なりに頑張っているのだが、家族の人間はどうしても家がほしいと不満を漏らす。もちろん、鮫島に自分の部屋などない。台所でタバコを吸おうとしたら妻の怒りを買うし、洋間のテレビは妻と子供が占領している。小遣いは月に昼食込みで2万円だから、飲みにいくお金すらほとんどない。鮫島はほとほと疲れ果てていた。会社にも、家にも。
 鮫島の兄弟は6人いた。現在は亡くなっているが祖父母も同居していたので、父母もあわせると10人。それでも田舎の実家は広かったので、兄弟一人一人に自分の部屋があった。鮫島は長男だったので、一番広くて良い部屋が自分の部屋だった。しかし末っ子の耕太だけは自分の部屋がなかった。兄弟が多い場合、大抵は末っ子に不公平なことが多い。耕太は父と母と同じ部屋で寝ていた。小さいころはこれでも別にいいのだが、物心がついた年代になると、末っ子の立場を不満に思うらしい。「自分の部屋が欲しい」と言って駄々をこねる耕太の姿を鮫島はよく見ていた。
 鮫島がちょうど大学受験のころだろうか。学校から帰り、部屋で勉強をしようとドアの開けると、耕太がベッドに横たわり絵本を読んでいた。自分の部屋はプライベートの一つだから、誰であろうと勝手に部屋に入ることが気に食わなかった。鮫島はまだ幼稚園くらいの耕太の頭を叩いた。耕太は泣きながら、部屋を出て行った。それ以来、耕太が鮫島の部屋に入ることはなかった。
 鮫島はお風呂に入りながら、昔のことを思い出していた。あの頃は良かったと最近つくづく思うのだ。自分がそれだけ年をとったからだろうか。誰しも子供のころは良かったと回想に浸ることがあるだろう。その感覚だ。
『耕太も生きていれば、中堅サラリーマンくらいかな』
 鮫島は湯船に体を沈めながら、今は亡き、末っ子の耕太のことを考えていた。鮫島がちょうど大学生のころ、耕太は自動車事故で亡くなった。今思えば、鮫島は弟の耕太に何一つとして兄貴らしいことをしていなかった。とりわけ自分の行為に対して、怒りに思うことは、勝手に部屋に入っていただけで、小さな耕太の頭を殴ったこと。その一年後に耕太が亡くなった事実を考えると、どうにもならないくらいのもどかしさが胸中を渦巻く。
 鮫島は湯船に反射する自分の顔が、幼少のころの耕太にだぶって見えた。
『そういえば、耕太はお風呂が好きだったな』
 鮫島も含め、他の兄弟たちはすぐにお風呂から上がるのに耕太だけはいつまでもお風呂に入っていた。時はめぐり、今、いつまでもお風呂にいることが好きな鮫島がいる。そのとき、鮫島は意外なことを思った。耕太がお風呂に入ることが好きだった理由だ。
『ああ、耕太にとってのお風呂とは、自分が唯一、独りになれる空間だったんだ。他の兄弟には部屋があるのに、耕太だけは自分だけは部屋がない。だから、独りで遊んだり空想したりする場が欲しかったんだ』
 なぜ、鮫島がそう思ったのか。それは、今の鮫島と耕太の境遇が少し似ていたからだ。鮫島が唯一、安心してくつろげる場所が、何を隠そうお風呂だった。そう思うと、またもや自分自身が恥ずかしくなった。「耕太、はやくお風呂から上がれ」と怒鳴った自分自身が・・・。鮫島は湯船のお湯で、自分の顔を何度も何度もパシャパシャと洗った。しかし、いくら顔を洗っても、頬をつたう湯の滴はしょっぱかった。
「あなた、はやくお風呂から上がって」
 妻の苛立った声が浴場に響く。今度は心がしょっぱかった。


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南 寛悦さん


 湊の海岸から渡瀬通りを真っ直ぐ上がって行くと、線路の踏み切りの手前に南 寛悦商店がある。終戦直後父親がここに精米の店を開いてからもう57−8年になろうとしている。

 父上は戦前大阪で何十人と人を使い大きな鋳物工場を経営していた。その関係で生まれは大阪、育ちも大阪の寛悦さんは、B29の爆撃で工場が壊滅状態になるまで父母のふるさと指宿に帰って来ることなど夢にも思っていなかった。16歳で指宿に戻ったもののこっちの同級生はみな裸足。革靴など履いている生徒は自分ひとり。先輩たちにも敬礼をしなければならなかったが、帰ってきたばかりの頃は「誰が先輩で誰が後輩かわからんでやな」「今のいじめとは違うけどな」殴られてばかりいた。父上は大阪から最新の機械を入れて精米をするが、米はまだ少なく、小麦粉や芋の粉を作るのが多かった。しかし技術が未熟でお客さんがつかない。それでも「忙しく見せるために、機械は空回りさせとった」という。 芋の粉は芋んこっぱという。これは5馬力の高速粉砕機で、大きい輪切りの芋のまま作り、かすが出なかったので人気があった。

 旧制中学を卒業して本格的に精米業に取り組んだが、他2軒の店に追いつかない。飯盒の飯と味噌汁を食べながら、年中無休で働き通した。昭和20年代は仕入れのために自転車で長崎鼻まで一日3往復、あるいは11月の米の収穫時にはオートバイで池田まで5往復したこともあるという。昭和40年代になると列島改造論で好景気。観光客が指宿にも押しかけてホテルや旅館からの注文が殺到。「そうだね、一日に50−60箱の卵の注文がきた」「夜遅くや日曜日でも注文があればすぐ届けた」というほどの景気もその後のオイルショックで観光客が減り注文も減っていった。それでも寛悦さんは時間外でも何でも、年がら年中届け続けた。その後も独自のルートで入手困難な米を仕入れお客さんの要望に答え、価格変動が激しい卵も新鮮な卵を確保し続け今日に至っている。72歳になり腰や足が痛くなり思うように動けなくなった。今は息子にすべてを任せた。「朝7時に起きて飯を食べて、9時から砂蒸しに行く。それが日課。よかよ」「何か悪く言われてもすぐ答えない。言えば終わりだから、言いたいことは明日言う」 そう言って寛悦さんは傍らの焼酎をぐいと飲み干した。


の幸ちゃん

 先月、浮来亭へ原稿走稿後、ドカ雪に見舞われ、16年振りとか。しかし、16年前を思い出せない。昨日も想い出せない私は年の取り過ぎ?「若者のメッセージ」番組をNHKで観た。昔風にマイクの前で淡々と主張する人も居たが、ギター片手にメッセージする人もおり、時代が変わったナと感心。「キンモクセイ」の「二人のアカボシ」の演奏も観れて、新春初の感動だった。 「成人の日」に和服を着た女性。Kタイにタバコをプカプカ。ちょっと、がっくり。この後、銭湯へ。眼鏡を外せば近くの物も見えない。老人が体を洗う後ろ姿。上がって脱衣所で良く良く見たら茶髪の若者でした。ああ、カルチャーショック。 浮来亭も四月号で100号。私が浮来亭の存在を知り、寄稿し始めてから88本の原稿を書ける。その編集スタッフの苦労の方がもっと凄い!!これ又、ショック。→特別寄稿「想い出の街角」東京・巣鴨駅近くのハイツで同棲していた私も、色々なトラブルに巻き込まれ、彼女と別れ、しばらくハイツに棲んでいた。仕事帰り、駅からハイツまでの途中に焼鳥・中華・居酒屋が有り、殆ど毎日、交替で店に寄る生活。デザインの仕事もうまく行かない。自分の人生が見えない。先の事が判らない状況で、過去の家庭環境のせいか女性ともうまく行かない。帰鹿して自殺しようかと考えていた頃。大家さんに妻と別居中です。帰鹿するので部屋を出ますと。心残り的に次は千駄ケ谷を目指していたのだ。(以下次号) 「宝くじ」も末等のも。「視力」はおとろえ、夜間は標識も見えず、レンズを交換。肉眼が矯正されたのか。、室内ではTVも見える様になった。「母も姉も」病気がちで、手術したり入・退院を繰り返している。姉の三男は12月下旬、福岡から帰って来て、「幸ちゃん、お年玉頂だい!!」と来る。「お前、もう社会人じゃんか。それより、おじさんに土産は?」と言っても何かしら言って、帰って行くだけ。世間の御両親方、今の若者(子供)に世間一般的常識、社会人になったらを教えて上げて下さい。高卒で家庭の延長みたいで職場に居る人間が多いです。公私混同するナ!!と言いたい。次号から、この辺も書きましょうか……。 雪の後、又、少しずつ暖かくなって行くでしょう。春には浮来亭100号記念で、パッ!!と華咲けるでしょうか……▼付録・「笑ってこらえて」(1/22放映)を観ていたら、指宿駅〜山川が出て来ました。ビックリ!!ご覧になられましたか?…… オマケだ!!「金沢味めぐり」TVで金沢の魚介類の番組をやっていた。懐かしくなって旧友に連絡。タラバガニ、かぶら寿司、このわた等を取り寄せた。鹿児島では入手しにくい物。焼酎と共に舌鼓を打った…。次号をお楽しみに……。

■鹿児島のぶうめらんの幸ちゃんからタラバガニが送られてきました。みんなで美味しく頂きました。
幸ちゃん『ありがとうございました』
■縄文の森をつくろう会からのお知らせ
3月9日に今和泉校区の巨樹の測定をしに行きます。9時に今和泉小学校に集合の予定です。
興味の有る方又は行きたい方はご連絡下さい。
連絡先 永田(22−2327)今村(22−4255)
■3月末か4月に宮ヶ浜の湊川の探検を計画しています。詳しくは次号99号を楽しみに。
■5月10・11日にCOCCOはしむれで大島紬の作品展が開かれます。これも詳しくは次号99号を楽しみに。



 菜の花マラソン・マーチさらに県下一周駅伝も終わり、いよいよ春の訪れですね。何となくですが、気持が上に向かって行くように思いませんか。
 さて、浮来亭もいよいよ100号のカウントダウンです。気持が上に向かうようになれば良いですね。

浮来亭のホームページ http://www.synapse.ne.jp/rentarou/
原稿は rentarou@po.synapse.ne.jp
                                


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