「駅前商店街」     

私が小学生の頃、指宿駅前の現在の「ブッティク宝福さん」のところに住んでいました。家業は最初は「釘屋」次は「食堂」次は「金物店」といろいろ変わりました。
当時、両親は日の出で店を開け、日の入りで店を閉めていたそうです。昔の大工さんは日の出と共に仕事に出かけ、日の入りと共に仕事を終えていたそうです。両親は大工さんに合わせるため店を開け、かつ店をとじていたそうです。休みも殆どなく、忙しくて「血の小便」をしたこともあったそうです。今なら労働基準に引っかかる猛烈商売人でした。
店の前は「今の木の実」で奥さんの両親が食料品店をしていました。
私の記憶では野菜や果物が棚に大きく積まれていました。そこは近所のおばさんたちの集会所。当時はどんな話題を話していたのかなと、今想像してみます。
「今晩のおかずは?」とか「子供やご両親のこと」など今と代わらない話題で盛り上がっていたに違いありません。隣は「現在の文苑堂」
隣が空き地になっていて、近所の悪がきが集まって、土を盛り上げて山を作ったり、「3度がよ」といった陣地取りゲーム、メンコ、ビーだま遊びなどをして、暗くなるまで遊んでいました。
今の「木下外科」の前に「紙芝居のおじさん」がやって来て、一枚5円のするめかお菓子を買い、紙芝居に夢中になっていました。
渡瀬通りを下がると、今の「鹿児島信用金庫」の所に、「渡瀬キャンデー」があり、お店でも食べられたけど、当時はキャンデー売りの自転車が鈴を鳴らせながら、走っていて、その音を聞いたら、条件反射みたいにキャンデー屋さんのところをめがけて走っていました。今でいうなら「焼いもやさん」かな。小豆がたっぷり入ったキャンデー。夏のうだるような暑さで食べたキャンデーが忘れられない。
今の「スパー」の所は、地方事務所があり、空き地で「ゴム球でミニ野球」もしていました。
今考えると、子供の頃は何にも勉強していない、親にとっては頭の痛い子供だったにちがいない。当時、鹿児島交通は南鉄バスといい、バスの鼻先が伸びた、エンジンをかける時、金属の棒を鼻先に差し込み、運転手さんがそれをまわして、エンジンをかけるバスがまだ走っていました。お客さんは停留所以外でも、降りたり乗ったり出来ました。
最近、当時駅前商店の店主だった方々が、相次いでお亡くなりになりました。
今、私がその当時の店主の方の年齢より上になってきました。
最近、当時のお店はかなり減り、子供たちの数もめっきり減りました。
昼間でも、歩いている人は少なく、時代の流れかもしれませんが、さびしい気がします。
TMOとか行政も会議所も頑張ってくれていますが、又私が小さかった頃の駅前商店街が復活してくれることを夢見ています。


 虚像

 百獣の王ライオンと対峙するような威圧感があった。腰元まで伸びた立派な顎ひげ、二メートル超の見事な体躯、そしてあの右手に携えているのが、かの有名な青竜刀か。日本の剣道チャンピオンとなり、当代並ぶ者はなしと評されていた俺は、今、あの『三国志』に登場する関羽雲長と生きるか死ぬかの決闘を行おうとしている。もし、このことがばれたら世界タイムマシーン条例に違反するということで、俺はまちがいなく死刑を宣告されるだろう。
 ことの発端は、世界で初めての封切りされたフライデー観光の三国志ツアーだ。タイムマシーンで歴史を振り返るツアーは、今となっては当たり前のことだが、戦争、テロ、不況など観光に支障をきたす可能性が高い時代に行くことは禁止されていた。しかし日本の歴史家の調査により三国志時代の場合は、上空からの視察が特別に認められ、俺は晴れて後漢時代にタイムスリップしたというわけだ。
 実際に生の三国志はすごい迫力だった。上空からの見学とはいえ黄巾の乱、官渡の戦、長坂の戦などハリウッド映画の比ではないくらいおもしろかった。そしていよいよツアー最大のクライマックスともいえる赤壁の戦というところで、武人の悲しき性というべきか、自分も戦に参加したくなってしまった。董卓討伐の戦で三国志随一の猛将である呂布と劉備が義弟・関羽の一騎打ちを見て、俺はたちまち関羽に魅了されてしまったのだ。関羽と一緒に赤壁の戦で闘いたいと心底思った。
 そして俺はツアーから脱走を試みた。タイムマシーンが地面に一番近い距離に達したとき、いちかばちかタイムシーンから飛び降りた。幸い、近くに林があり、木にぶら下がって一命を取りとめたものの、本当の苦難はそこからだった。俺を捕まえようとするタイムコップから逃げることは熾烈を極めた。劉備軍の兵士になりすませば、奴らとて容易に捕まえることはできないだろうと考えた俺は、赤壁の戦で曹操の敗走を予測し、待ち伏せして駐屯している関羽軍にまぎれることに成功した。中国語はマスターしていたので、言葉の壁を乗り越えることはできたが、なかなか憧れの関羽と対面することはなかった。そこで俺は軍務違反を起こすことにした。何人かの兵卒たちに一騎打ち申し込み、そいつらをばったばったと倒していったのだ。真剣ではなかったから、兵卒たちの命を奪うことはなかったが、重傷を負う者もおり、軍務違反ということで関羽と謁見することになった。
 関羽との対面は緊張したが、俺はありったけの気を眼光にのせて、関羽を睨みつけた。
 そんな俺を見て、関羽は静かな口調で言った。「そんなに剣の腕に自信があるなら、ワシと勝負しろ。ワシに勝ったら処刑はしない。しかしワシが勝ったら、お主には死んでもらう。よいな」
「はい」
 そして俺の命をかけた一世一代の大勝負が始まった。
 俺の目の前にいる関羽は、謁見のときの静かな印象とは別人であった。気を抜くとすぐに殺されてしまいそうなほどの殺気をみなぎらせていた。
 対峙して数十分が経過した。俺は自分から打ち込むことができなかった。自分から行ったら負けるのは目に見えていた。レベルが違いすぎるのだ。俺が勝つチャンスがあるとすれば、関羽が切り込んできた瞬間のツバメ返ししかない。そう思った俺は、眼前の関羽の呼吸の際に焦点を合わせた。その瞬間、関羽の体が消えた。
 体が痺れる。電撃のような関羽の一撃を剣で受けた衝撃か。その一撃には本能が反応したが、体がこわばってそれ以上は動くことができなかった。おまけに恥ずかしいことだが、俺の股間は小便で濡れていた。
 そんな俺を見て関羽は後ろを振り返った。「勝負あったな」
「はい」俺は言った。「自分の負けです。処刑してください」
 関羽の動きが止まった。「誰がそんなこと言った。この勝負はお主の勝ちだ」
「いえ、自分の体は痺れています。次の一撃を関羽殿が打ち込んできたら、間違いなく自分の首はありませぬ」
「そんなことはわかっておる」関羽は大声で怒鳴った。「真剣勝負でワシに勝てる者はいない。肝心なことは、ワシの一撃を受け止めることのできる者が我が軍にはいないという事実だ。ワシはお主を認めた。よって、お主をワシの片腕に任命する」
「はい。ありがたき幸せ」
 俺は関羽にひれ伏した。
「しかし、お主の剣の腕は認めるが、お主には殺気が感じられん。ここから先の戦(赤壁の戦)は生きるか死ぬかの大戦だ。人を殺すことに躊躇しては自分が殺される。それだけは覚えておけ」
「はい」
 さすが、関羽だ。俺は関羽の言葉一つひとつに感動していた。
「ところで、名をまだ聞いておらなかったな」
「はい。自分は周坊倉一と申します」
「そうか」関羽は言った。「お主、今から周倉と名乗れ。そして我が関羽軍の中枢を担う人物になれ」
「はい」
 周坊倉一の名前と苗字の頭文字をとって、周倉。この名を聞いて、俺は羅貫中の書いた『三国志演義』を思い出した。関羽の片腕として活躍する周倉は俺だったのだ。となると俺の行く末は、関羽の死に殉じた自決ということになる。ああ、何たる悲劇か。自分の運命を知ることとは、何と残酷なことなのだろう。しかし、覚悟は決まった。『三国志演義』に描かれている周倉の名に恥じない周倉になってやろうではないか。陳寿の記した正当な歴史書『三国志』には、周倉の名はない。そこが何とも俺(周倉)らしい。なんていったって、俺はこの時代の人間ではないのだから。


  いぶすき巨樹巨木調査

 指宿校区を終わって  歯笛
 雨になるのではないかと心配された10月20日(日)は幸いなことに曇り時々晴れ。小学生6名を含め80歳近い方まで20数名の方が集まり、昼一時から予定の樹木調査が始まりました。湊川を遡って行く班と、大園原や中福良方面の班に分かれて出発。範囲が広いので半日では歩いて回れません。目的の樹木近くまでは車で行くことに。
信楽寺隣に大きさ全国4位のアコウがあります。この地区では飛びぬけた大きさです。幹周り11・9メートル、樹高20メートル。4-5人ではとても抱えきれないほど。つたや着生植物が幹にびっしり取り付いています。「きょうは珍しく大勢でどうしたんだ」300歳とも言われるアコウは威風堂々我々を迎えてくれました。今年多かった台風襲来にもびくともしていないアコウを皆仰ぎ見ました。
大園原の個人宅には樹齢300年と言われるケラマツツジがありました。40本ほどに枝分かれし、高さが4メートルもありました。昔島津の殿様が沖縄に行かれた時、一緒に行った人が持ち帰ったものだとのこと。あとで中福良にも同じ言い伝えのケラマツツジがあったと聞きました。ケラマとは沖縄県慶良間諸島のことを指しています。やはり実際に来てみると、その存在感に圧倒されます。
またある個人宅の一角にはすでに枯れてしまったイチョウがありました。幹周2・6メートル、樹高17メートル。原因は分かりませんが5-6年前に枯れたそうで、その幹の頂上付近にアコウが着生していました。樹齢200年はあろうかと思われました。
途中宮ノ前の旧宅の庭に全員集合し休憩。あと日没まで調査を続けました。指宿校区にはまだたくさんの樹木があり、今後も調査が必要です。この日はNHK取材班も同行し、縄文の森をつくろう会の活動をつぶさに見て行きました。
夜6時すき焼きと、しゃぶしゃぶで親睦会。樹木調査では最も熱心だった地元議員のMさんや公民館館長のUさんも来られにぎやかな会になりました。また隣り合わせた地元20日会の皆さんとも飲むほどに話が弾みました。外はいつの間にか大雨でした。
会が終わって30代の2人がまだ話したいことがあるとのこと。浮来亭に移動し話を聞きました。湊川流域の樹木調査をしてここが好きになったらしい。ここに自分たちの考える生活の場を築きたいという。浮来亭まで送って頂いたMさんUさんはもちろん、我々もその構想にいたく感激。ふるさとを見つめなおす意義ある一日になりました。


の幸ちゃん

 うずいた「旅心」は私を高千穂渓谷へと駆り立てた。鹿児島では仕事も買物も同じ処を回る日常生活から、ちょっと逃れたくて。 早朝七時出発。高速道路で松橋インター迄。20代前半に行って25年振りか。ホテルやコンビニが出来ており、当時の様子も記憶が薄く、(こんな処だったっけ?)と思案。ツアーに組み込まれて折おり、観光客の多い事。 田楽店も満員で熊本の旅館も断わられ、再び高速で日帰り。次回、もっとゆっくりした旅を…。 「浮来亭」100号記念・特別寄稿C 「私が直接出会った有名人」 @幼少時、母に手を引かれ歩いて吉野町寺山下の道へ。昭和天皇御両陛下が通過なされると…。 A高校時、ダニエル・ビダルのコンサートを鴨池体育館で。「オー!シャンゼリゼ」等のヒット曲があった。 B東京・上野のデパートでミニライブをしていたのは「黄色い麦わら帽子」の松崎しげる。 C「はとバスツアー」で昼食の時、日本庭園内で月の家円鏡とすれ違う。(現在、襲名して名前は違う) D会社の旅行中、山梨県辺りで休憩中、井上順がバスから降りて来て、サインぜめに合っていた。 E新宿・東口で「笑っていいとも」ロケの帰りだったのか、ビートたけしとすれ違う。目線が合ったが凄いド迫力でした。 FG現在、解体されたが日劇で「小柳ルミ子ショー」兄家族と「ザ・ドリフターズショー」を鑑賞。 H東京・五反田に棲んでいたオバと「バーブ佐竹ショー」を鑑賞。 I東京・新宿のディスコに行ったら、ステージに当時流行していた「サンチャゴ・ラバー」の米国が歌い出して、びっくり。(名前は忘れた) J鹿児島へ帰って来てから、再上京し「アバ」のコンサートを鑑賞。 K会ってはいないのだが、「ロッドスチュアート福岡公演」の券が当たったのに、前夜、飲みすぎて行けずじまい。 L確認した訳ではないが、母と二人でアメリカ「ディズニーランド」へ行った時、ディオンヌ・ワーウィックと会う。お孫さんか女児と連れ添い、母は「可愛い」と言いつつ、女児の手を握ってた。私は目が点になってた。今、思うと英語で質問し、サインでももらっとけば良かったかナ?… M鹿児島でバイトしている頃、鶴田浩二、「ヒデとロザンナ」の出門英、久保浩等を見た。(文章を短縮化する為、皆様の敬称は略しました。「浮来亭」100号は来春四月号) ええッ!!蓮ちゃんが「仏の道」へ?一体、何故そんな心境に?蓮ちゃん、自分の心の思いを「浮来亭」に書いて下さい。バザーは?「浮来亭」はどうなるのでしょうか?疑問の秋です……。


「連ちゃん!お坊さんになるんだって?」と声をかけられた。
「…?!」
 そう言えば、先月号の浮来亭に坊さんなりたいと書いたんだった。
 75才まで生きるとして、まだ20年ある。死ぬまでにあと2〜3の職業(人間)をしてみたいと思っている。だから、「坊さんになりたい」を気楽に考えてもらいたい。でも、こんな気持だったら修業させてもらえないかもしれないし、お坊さんに怒られるかもしれない。
「教祖になるしかないな」と寝る時に思った。




■25日の浮来亭にNHKの美人アナウンサーが来てくれるかもとのこと。
■27日10時なのはな館でどんぐりコマまわし大会があります。
■11月23日(土) 指宿市民会館で中国の琵琶の演奏があります。入場料千円の予定







 浮来亭のHPを見られましたか。比べてみると、私はやっぱりこっちのほうがいいなと思いました。でもHPの良さもありますので続けます。