技芸にすぐれて名のある人を名人と世の中では言うのだそうですが、はたして私たちの周りでそのように呼べる人は何人いるでしょう。自称名人という方を除けば、隠れ名人は指宿の随所におられるはずです。これら名人を探し求めて旅に出ようと思います。どうぞ、ご期待ください。
 
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高峯 正義さん

 市の観光課公園係を平成6年に退職された高峯さんは、いぶすき菜の花マラソンを語るときには忘れてはならない方だと聞いた。ある晴れた午後指宿高校近くのご自宅を訪ねた。
 日焼けした誠実そうなお顔が、職務を忠実に黙々とこなしてきたことを物語っている。「どうぞおあがりください」奥さんも出迎えてくださった。静かで日当たりもよく、向こうに指高のグランドが見えた。
「資料も随分処分してしまって詳しいことはわからないと思いますが」と前置きされたが、高峯さんは記者の質問に昨日のことのようにすらすらと答えてくださった。
 高峯さんは岩本で6年ほど漁師をされていた。昭和29年4月1日今和泉は指宿と合併した。このとき縁あって今和泉小の用務員になった。21歳から29歳まで。その後昭和38年に指宿の観光課に入った。昭和45年新川市長のとき魚見岳に桜の植栽を始めた。
 6.6haの竹やぶと雑木だけの土地を整地し、日本桜の会から送られたソメイヨシノやオオシマザクラなど500本を植えた。その後個人からの寄付もあり桜は1000本ほどになった。しかし昭和57年の台風で多くの桜が倒れた。「掘り起こしたり植え直したりしました」人に言えない苦労があったに違いない。 その桜は現在も見事に咲いて多くの市民に親しまれている。
 昭和50年頃開聞山麓の菜の花の種を入手。少しずつ植えていた。昭和55年、指宿市は観光キャンペーンで大阪と福岡に菜の花を持って行った。その菜の花は池田湖と魚見岳で育てたものだった。昭和57年温泉マラソンが始まった。昭和59年の第3回大会から菜の花マラソンと名前が変わった。高峯さんは第1回から第13回まで菜の花を育てた。「9月の彼岸に植えて、池田湖の菜の花はマラソンに間に合うように。また2月には北海道に持っていけるようにですね。植えられる土地を探しながら増やしていきました」「そうやってきちんと間に合うようにしていくのは大変でしょう」「これは褒められることより、苦情を言われることのほうが多いんですよ」まっすぐ記者のほうを見ていた高峯さんの顔がほころんだ。
 現在公園係には専従職員が20人ほどいて、街路樹や公園の樹木の管理、菜の花をはじめとする花栽培や草刈など幅広く市の花と緑に関わっている。昔はツマベニチョウやコオロギを育てることも盛んにやっていたという。最近そのツマベニチョウがあまり見えないので心配らしい。「ツマベニチョウが卵を産み付けるギョボクの枝の剪定を間違うと、卵は越冬できなくなります。下の枝を切りすぎてはいけない。それとギョボクは根分けで増やすのが一番です。挿し木では難しい」今楽しみなのは月に何回かする碁と今年の正月から始めたテニス。それと「私たちが食べるだけの野菜作りでしょうか」 「もったいない。是非その経験と知恵を私たちにお貸しください」
 その場でいつものように写真を撮らせて頂いた。69歳になられた花と緑の名人が裏方に徹した両手を見せてくださった。


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