21号

 夏休みなので、大学3年生の長男が帰って来た。彼は中学生の時からバスケットを始めて今も頑張っている。
 巨人の勝ちゲームを見た後に走りに行き、気分よく4Km走った。風呂に入り、少しは落ち着いたと思ったがまだまだ喜びを押さえきれず、ビールを飲みたくなった。長男が中学のとき、バスケットの指導を受けた方が居酒屋をしていて、長男を連れて飲みに行くことを約束していたことを思い出して行くことにした。
 息子とは家では何度か一緒に飲んだことがあったが、外で飲むのは始めてである。学校のこととか就職のこととかをボソリボソリと聞きながら父親らしく飲んでいた。
 そのうちに何人かの知り合いが入ってきて、自然と知り合いたちとの会話が弾んできた。話題が世間話から野球、下ネタと定番のコースになっていた。『息子さんがいるから、まずいんじゃないの』と咎められたが『飲んで女の話ができないのは男じゃない』と、さらに大きな声を出しながら楽しく飲んだ。
 飲み疲れ、眠くなったのでお開きにすることにしたが、カウンターにビール瓶が8本も並んでいたのにはびっくりした。
 帰り道、「おとうさん、大分飲んでいたねー」
「うん…。そんな酔っていないけどなー」
 家に着いたら急に気分が悪くなりダウン。次の日は夕方まで二日酔いで寝ていた。でも父親という重い荷物を降ろしたようで肩が軽くなっていた。


22号

 おやじの七回忌とおふくろの三回忌の法事で実家に行った。
 仲の良い夫婦とは思っていなかったのだが、亡くなった月が一緒とはひょっとしたら仲が良かったのかも。いや、各地に散らばった子供達のことを思っておふくろがしぶしぶおやじに合わせたのかもしれない。定かではないが。一緒に法事がやれてよかったし助かった。
 お墓でお坊さんがお経を上げてくれた。お墓を前にしてお経を聞いていたら気になることを思い出した。それはお盆のときに息子が『僕が死んだら、何処のお墓に入るの?』だった。順番でいけば息子より自分のほうが先であるから、長兄にどうしたらいいのかを尋ねたら『お前の好きなようにしていい』とありがたい返事だった。回りを見渡すと、花を添えてある墓はなく、さみしい感じはするが自然でいい。草もぼうぼうと生えている。空き地のような所があったので、あそこに自然石を置いてわたしの墓にしていいかとお坊さんにお願いしたら、『お前の好きなようにしていい』とこれまたありがたい返事。
 宴会での長兄の挨拶に『…親。親交の場である…』とあった。言われて考えてみると、不謹慎ではあるがおやじの亡くなる前の20年間で一度くらいしか兄弟全部が顔を揃えたことがなかった。7人兄弟と多かったこともあるが、色々な面で淡白に育てられたようである。出席者に知らない人がいたので、こっそり誰かを聞いてみたらおばさんだった。そのおばさんに『大きくなったね』と言われてびっくりした。48才の人間を捕まえて『大きくなった』はないもんだと思ったが、叔母と甥の関係ってこんなものかもとも感じた。きっと、おばさんも淡白に育ったのだろう。
 帰りの夜行列車が九州に入ったときに静岡県の県民性は『淡白』ではとフッと思った。


23号

 『旅は道連れ』を経験した。
 電車(本当は汽車といいたいが)での旅が好きである。それも宿泊代を節約した夜行寝台車がいい。
 と、言うことで前回にも書いた法事で静岡の実家に行ったときのことである。西鹿児島発19:01の『なは』に乗る前にビールを飲んだ。時間があったので2本やっつけた。発車10分前くらいに喫煙可能な指定の寝台車に。前の席には少し年配の方がいた。タイミングよく目があったのでお互いに『よろしく』と挨拶を交わした。挨拶を交わせば後は簡単である。お互いの行き先を確かめ合う。行き先が同じであったりすれば話は軽くなり先へ進む。今回もそうである。仕事のこととか旅の目的とかで少し親しくなる。お互いの接点が出てきたりするとさらに親しさは増す。ふたりとも旅が好きで旅の話に花が咲いた。びっくりしたことがあった。父の従兄弟のRさんがその方(水島さん)の仕事関係の知人であった。そんなこんなで2時間以上話した。
 ビールの酔いでグッスリ寝れたのか、5時前に目が覚めた。煙草を吸うために通路に出たら、水島さんも起きていて煙草を吸っていた。旧来の友のように会話が始まった。通路では他の方に悪いからと、お互いに朝食を持ってロビーカーに移動した。結局新大坂に着くまで楽しく時間が過ぎた。水島さんは彦根の方だが、大津で用事があるからと大津で別れることになった。親子ほどの年の違う私にホームで直立不動の姿勢で送っていただいた…。
 縁ができたので、彦根で途中下車した。駅前で自転車を借りて彦根城を中心に市内をさっそうと走った。
 後日、ハガキを出し、手紙が来て、電話が来た。彦根が大好きになった。


24号

 二三日落ち込んでいた。原因ははっきり分かっていた。書くのが恥かしいが思いきって書くことにする。
 半年位前から川柳の会に入っている。川柳は俳句のようなもので、季語は入れなくてもいいし、思っていることを書け(読む?)ばいいので性にあっているような気がして入ったわけである。毎月一回の例会で、与えられた宿題(句の中で使う言葉)に対して各人が二句か三句自分の句を提出する。そこで選者がいいと思われる句を選出する。私など新米なので当然選出されない。でもたまには選出されることもあり、そのときは大変嬉しい。
 前回の例会は互選といって、提出された句をみんなの投票で選ぶ会であった。宿題が三題でそれぞれ二句ずつで十名だから合計六十の句が提出された。入選の合格率は、一題つき十二句が入選するから三十六句が入選で、六割である。単純に考えても半分は合格であるが、私のは一つも合格しなかった。さらにショックなことに一つも合格しなかったのは私だけである。これで落ち込まなかったら男じゃない。ということで落ち込んだ。
 そんなときのことである。
 息子と電話で小説の話をしていた。折角書くんだから、懸賞目当の応募でもという話に進んだ。でも彼は応募したい気持はあるが自信ないし、通らないからと言った。そんなにうまくいくわけはないと私も思っていたが、そこは親だから、そんなことを言うわけにはいかない。そこで勇気づけるために川柳の落選のことを、気落ちしていることがバレないように話した。そしたら彼は『誰にも認められなかったというのは大事なことかもよ』とやや大きな声を出した。
 息子の一言で救われた。

ちなみに落選の川柳を
・題を見て 今度はいけると 思ったが
・読み上げて 理解されずに 寂しいな


25号

 大晦日の風もなく穏かな夜。湊にある稲荷神社。
 地区の役員をしているので、稲荷神社に初詣に見えられる方々を迎えることをする。例年のことなので大体の要領は分かっている。紅白歌合戦が終わった頃から見え始めて、午前1時には人気もなくなるので片付ける。初詣に見えられる方も殆ど変わらない(年々減ってきているような気もするが…)。
 0時10分頃に「除夜の鐘を突きに行ったら込んでいたので、先にこっちに来たよ」と言って火に当たりに来た人がいた。暫くおしゃべりしてから「もうそろそろいいかもね」と、乗船寺に向かった。順序が逆のような気もしたが、本人は気にしていない風だし、こっちも気にならなかった。
『嫌な世の中になった』という人もいるが、日本はいい国だなと思ったし、今年はいい年だと確信した。


26号

 机の上の一輪挿しに菜の花が可愛く咲いている。
 実を言うと、私は今までに花など育てたことがなかった。それが昨年の10月に、通り会のイベントで菜の花の苗を配ることになり、ついでに菜の花の種を自分のフラワーポットに撒いた。
 市内の至る所に咲いている菜の花は、お正月がピークだったようだが、我が家の菜の花は2月初めにやっと咲き始めた。これは私の判断だが、フラワーポットに撒いた種が多かったにもかかわらず間引きをしなかったことと、肥料を殆どやらなかったことが原因だと思う。
 間引き、肥料のことも友人から教えてもらったが、私にとって初めての子のような気がしたので間引きしたくなかった。それに自然に育ててみたかったので、肥料もやらないでいた。
 結果としては窮屈だったし、大きくならないし、咲くのが遅くなるしで、菜の花たちには可哀想なことをしたように思えた。
 でも親の愛情は分かってもらえたようだ。親孝行の菜の花たちで、いつ咲くのかなと心配させてくれたし、小さいけどきれいに可愛く咲いてくれた。
 今、目の前で笑っている。


27号

 朝6時に目が覚めた。昨日も6時だった。少し年を取ってきたのかと心配になってきた。もう2〜3日様子を見てみることにしよう。
 お茶を飲み、新聞を読み、風呂に入れば、もうすることがない。仕方がないから?店に行ってパソコンで遊ぶことにした。
 まだまだ若葉マークだが、結構おもしろい。名刺・便箋・絵葉書・メモ帳・カレンダー・メッセージカード・チラシとオリジナルのものが出来あがる。てづくり風の本まで挑戦した。そうこうしているうちに、出来たものを飾るものまで作りたくなってきて、棚とか額とか作ってみた。素人だから下手だと思うが、そんなことは気にしない。満足である。
 作る楽しさがこんな所にも隠れていた。
 楽しいことをして、金儲けが出来ればいいなと欲深くなり『てづくり蓮太』と屋号まで決めてしまった。
 『てづくり○○』とすれば、見た目は悪くても許してもらえるのではと考えたからである。でも今からコツコツ努力すれば、5年後くらいには『本物○○』と屋号を変えられるかもしれない。
 ますます楽しくなってきたし、間近に迫った定年後の仕事も見つかったわけである。
 でも、嫌なことに気付いた。来年は50になるということである。朝早く目が覚めるのも何となく納得せざるを得なかった。


28号

 外出先から帰ってきたら、机の上に切手の貼ってない手紙が乗っていた。中を見たら、広告の裏紙を利用した手紙だった。私と価値観のあう人の手紙だなと嬉しくなった。読んでみて、嬉しさが倍増。「浮来亭」への感謝と賞賛が述べられていたからである。それと(実を言うとこっちの方がもっと嬉しかった)私の人柄をほめて下さっていた。普通ならほめられたことを自分から言う人は少ないのではと思うが、そこが私は違っていて素直に喜び、表現したくなり倍以上で表現してしまう。この時も女房を筆頭に見せて回った。割りと反応は冷ややかだったように思ったがいいとしよう。寝る前にもう一度喜びをかみしめようとしたが、本当に素直に喜んでいいのかなとも思い始めた。自分のことは自分が一番分かっているわけだから、どうもほめられすぎのような気がするし、一番身近な女房もちょっと引っかかっていたようである。でもほめられるのはこんなに嬉しいことだと良く分かったので、もっとほめられるように努力すればいいんだとも思った。自分では70点、女房からは80点、他の人からは90点もらえるように頑張ってみようと心に決めた。


29号

 朝何気なくテレビのスイッチを入れたら、マスターズゴルフを生中継していた。今売出し中のタイガーウッズが画面を独占していた。ミーハー的生き方が好きな私は早速画面に見入った。彼は遠くに飛ばすし、小技もいい。2位以下を大きく引き離し完全に独走態勢で、勝負はもうとっくに着いているのにどうしても見ていたくて見ていた。強い者に憧れる心理なのだろうか?強くても好かれない人もいるし、逆に弱くても好かれる人もいる。話もした事がないわけだから人間性など分かりっこないのに、いい人とか嫌な人だとか思ってしまう。とにかく、彼はいい人だと思えた。ギャラリーの声援にも応じる場面も頻繁に見た。ギャラリーに答えないゴルファーもいる。きっとゴルフに専念しているから、周りをあまり見たくないのだろう。ゴルファーだから、ゴルフに専念するのは当たり前だと思えば、それはそれでいい。そう思うと人間のいい人とか悪い人とかはないのかもしれない。ただ、いい人という役柄をうまくこなす人がいい人と思われるのかもしれない。


30号

 午前中と夜とで二回の総会があった。
 両方とも、議長の進行がうまかったのかスムーズに終わった。どちらかと言えば、執行部に属するのが多いので総会がスムーズに終わるとほっとする。そうすると、続いて行われる懇親会のビールがすこぶる美味しい。その日も大変美味しく飲めたので気持ちよく酔うことが出来た。
 次の日テレビを見ていたら、『総会屋が…』と盛んに出てきた。詳しい人に聞いてみたら、「総会屋」なる人とは総会の進行を妨害したり、スムーズにさせたりするらしい。たしかに執行部にしてみれば総会は『シャン、シャン』と済んでほしいことは良く解る。が、それほどまでになぜ「総会屋」を大事にするのか?と疑わざるを得ない。嫌だ、嫌だ。
 時間が長くかかる総会の方がいいように思えてきた。でも、そうなればビールが美味しく飲めないかもしれない。どうすればいいんだろうか?
 答は簡単に見つかった。
もし総会が早く済めばビールが美味しく飲めるわけだし、長くかかったとしたらそれだけ内容の濃い審議をしたことになり、これも又結構なことである。 これからは総会はもうそんなに多くはないかもしれないが、気が楽になった。


31号

 夕方5時になろうとしている。子供たちとのみこしで騒ぎすぎて声が潰れたようだ。ビールの飲み過ぎも原因しているようだ。でも、まだこれからはんや踊りもあるし、どうしようかと思っているときに目が覚めた。
 温泉祭まで、まだ一ヶ月もあるのに夢を見るなんてと、とても恥かしかった。


32号

 街おこしの会議が10時前に終わった。いい意見があり納得しつつ帰って来た。
 年間200日の目標があるので、走りに行った。暗闇の中を黙々と走っていたら、突然「こんばんは」と声を掛けられた。「こんばんは」とお返しをしたら、疲れが飛んでいってしまった。
 指宿っていい所だなと感じた。
 街おこしって何かをもう一度考えなくちゃと思った。


33号

 静岡の兄貴から「テレビ見たか?」とかなり慌てた電話が入った。
 何事が起こったのかとすぐにスイッチを入れたら、フィリッピンのマニラで誘拐事件があり、誘拐された人が無事に解放されたと報じていた。見たことのある人だ。それもそのはず、高校時代からの無二の親友である。ここ数年会っていなかったし、心身の疲れなのからかだいぶ老けて見えた。
 二〜三日は興奮していて、あれこれ考えさせられた。本人のこと、家族、会社、友人・知人といろいろの人のことを考えた。
 まず本人であるが、もちろん当事者であるから事件のことは最初から知っていて(?)、自分の身の安全、会社への迷惑、家族の不安とかかなりまいったに違いない。
 次に知ったのは会社の人だと思う。彼の身の安全、家族への知らせ方・知らせ時、犯人との交渉とこれまた大変だったと思う。
 家族はどうだろう。知らされてもどうすることもできなかったのではないか。ただひたすら彼の無事を願っていたことだろう。
 さて友人・知人である。私は自分では彼とは仲のいい友人であると思っている。なのに事件のことは知らず、無事解放された後に知ったので心配は全然しなかった。殆どの友人・知人はそうだったのではないか。どうもすっきりしないが事実である。
 今、情報の時代で世界で起こったことが瞬時に伝わってくる。でもどうも嫌なニュースが多すぎるような気がする。彼の事件を知らなかった方がいいとは言いたくないが、知らない方がよかったと思えるようなニュースが多すぎるようだ。
 ニュースに振り回されないためにはテレビを見る時間を少なくしなくてはと思った。


34号

 最近、店の暇な日が続いている。
 でも、それで楽しいことがあるから世の中うまくで来ている。実は昨年末に購入したパソコンで店番をしながら遊べるからである。購入して以来悪戦苦闘が続いているが、それだから楽しめている。階段を一歩一歩上がっているのがよく分かるのだが、残念ながら何段ある階段なのかは皆目見当がつかない。
 自慢じゃないが、今までで一番勉強をしている。解説書の20冊くらいを5回は読み直していると思う。勉強がこんなにたのしいとは全然知らなかった。

 息子たちは今大学生と高校生。学校の勉強はあまりしているようには見えない。自分の学生時代を思い出せば、納得せざるを得ない。50を目の前にして勉強のおもしろさと大切さがよくわかった気がする。
 息子たちに『勉強しろ』と言いたくなった。でも、私の考える勉強と息子たちが捉える勉強とは少し違うような気がする。
 やっぱり言わないで置こうと思った。


35号

 日曜日の午前中は何となく穏かである。
 午前10時に店を開け、コーヒーを飲みながらのんびりと新聞を読んでいた。普段の日も新聞を読むのだが、気持にゆとりがないせいか記事はただ通過していくだけのようである。
 この日の新聞の記事に目が止まった。
「無名の場所で無名の人間が、平凡に、しかし誠実に生きぬくことの意味を、地名はもっとも的確に反映している」ー人間の生活…続・宮崎の地名ー
 確かに指宿の地区の名前を見れば、湊・湯ノ里・摺が浜・小田・潟山・潟口・下里・中小路・高ノ原と地区名からどんな地区であったのか想像しやすい。
 今、指宿だけでなくどこも同じような町ができつつあるような気がする。それも時代の流れなのだと言えばそうなのかもしれない。町が変わることがいいとか、悪いとかはあまり考えないが、生き方だけはあまり変えたくないなと思った。


36号

 「よし、今度こそは良いに違いない」と心で叫びながら息子の部屋のドアを叩いた。
 昨年の12月9日に私の所にきたパソコンももうじき(これは静岡の方言かもしれない)1年になろうとしている。やり始めたら、性にあっているのか嵌ってしまった。おもしろい物だからいつでも触っていたいし、考えていたい。そこで店の一角を貰い、店番をしながら打っていた。楽しくてしょうがないので、まるで遊んでいるようである。これでは世間に申し訳ないと思い、利益につなげ、働いているように見えなくてはいけないのではと商品開発に励んだ。名刺に始まり、便箋・シール・メッセージカード・Tシャツプリント・絵葉書・メニュー・POPカード・チラシ・ミニコミ誌・小冊子・カレンダーと作り、そのたびに心を弾ませて息子の所に意見を聞きに行った。するといつでも決まった言葉が返ってくる。「うん、お父さんいいよ」である。よしいいかもと思ったし、自分でも気にいって作ったのだから、自信を持っていた。だが、結果につながらない。価値観が違うから仕方ないと自分を慰めていた。
 だが、今度は違う言葉が返ってきた。
「うん、お父さんいいよ」の後に「これならいいよ、後は知ってもらえればね」
 少し自信がわいてきたし、勇気づけられた。きっと今までは息子もそんなにいいとは思っていなかったのだろう。それでも親父を気遣った言葉で接してくれた息子に感謝してこれからも頑張ろうと思った。
 ちなみに今度の作品は「あんぐるちゃん」と名付けた。


37号

 気になる言葉を発見した。
 年末、年始の休みを利用して高校時代の同級生の3人と一つ年下の4人がわざわざ静岡から私の顔を見に来てくれた。二泊三日して帰る時『ありがとう』と言って帰った。わたしも来てくれて嬉しかったので『ありがとう』と言った。
 紅白歌合戦の中で今年活躍した人たちをステージに迎える時『ありがとう』と歌っていた。確かに私たちを楽しくさせてくれた人たちで本当に『ありがとう』と思った。
 正月に浮来亭直方支部の伊藤さん御夫婦が指宿に見えられた。正月ということでなかなか時間も取れず、話をする時間も少なく申し訳ないと思っていたのだが、帰る時列車の中から全身で『ありがとう』と言って頂いた。
 思うに、今までさりげなく使っていたに違いない『ありがとう』がこんなに気持ちのいい言葉とは思わなかった。はたしてお店でこんな気持ちよく使っていたのか、はなはだ疑問である。
 こだわることは嫌いだが、今年は『ありがとう』にこだわってみようと思い、『ありがとう』という言葉を大事にしたいと思った。


38号

 領収証に日付を書き込んでいたときに、8年前に死んだ親父の誕生日だということに気がついた。親不孝者だと怒られそうである。
 親父のことでどんなことを思い出すかというと、父親と息子の関係である。現在私は二人の息子を持つ親父であるが、私の親父からみれば5人の息子の一人である。息子が小学生の頃は私が小学生だった頃の親父を思いだし、中学生の時は私が中学生だった頃の親父を思いだしてきた。
 ということで今回も考えてみた。長男は大学を終わり就職で、次男は大学進学で悩んでいる。共にこれからの人生にとっては大事な決断をするときである。人生の先輩としていろいろ助言をしたくなり、ついしてしまう。
 私の親父はどうだったかなというと、放任主義というのか無責任というのか、アドバイスは全然なかったような気がする。そんな親父でも、私は何とか育ってきたのだからそれでも良かったのだろう。
 親父になるために親父を思い出しながら生きてきた。いつ考えても、親父としての私は親父にはかなわない気がしていた。いずれ息子たちも親父になるために私を意識するのかと思うと怖くなってきた。できるものなら親父をやめたいがそうはいかないだろうから、開き直ることにした。
 開き直ったら気が付いたことがあった。
 年齢差である。私は親父の38歳の時の息子であり、私の息子たちは私の27歳と31歳の時の子であった。いつまでたってもこの年齢差は縮まらないわけである。気が楽になった。私は私の親父にはかなわないわけであった。
 


39号

 下の息子の卒業式に女房の代わりに出た。
 まず思ったことは、私も親としての卒業式だということ。
 次に思ったことは、厳粛な場面も味があるなということ。
 その次に思ったことは国旗である。国旗に向かって出席者全員で君が代を歌い胸が熱くなった。日本人であると再認識した。
 そこで先の長野を思い出した。もちろん日本チーム、日本人を応援したのだが、表彰の時の国旗は感激しなかった。何故だろう。
 最後に、しばらくはこのことを意識してみようと思った。


40号

『福岡はいいところである。 福岡はいいところでない。
 どっちでしょう?』
 二男が福岡の大学に行くことになったので、荷物を積んで高速を飛ばした。指宿から福岡の南区まで約4時間半で行けたのにはびっくりした。車に乗るのは目が痛くなるので余り好きではないがこんなに早く行けるのなら、たまには行ってもいいかなと思った。
 さて、いいところであるは都会であっても桜がきれいだったし、緑が多かった。都会独特の他人に干渉しないがいい。周りを気にしないでのびのびと買い物が出来た。
 でも、尋ねても冷たい返事の方が多かった。ひどい人は振り向いてもくれなかった。干渉しないと冷たいは微妙に違う。寂しい思いをした。 時間がないので次の日はもう帰らなくてはいけない。帰りの車は一人なのでしゃべることが出来ない。そこでいろいろ考える。指宿と福岡の比較などetc。住むのはどっちかなと考えたが両方良さそうだ。困った。
『指宿はいいところである。
 指宿はいいところでない。
 どっちでしょう?』
 えびのICを過ぎたときに結論が出た。
『どこも一緒でいいところはある』だった。
 一つ残念なことがあった。直方まで行けなかった。


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