の幸ちゃん

『眠れない夜』or朝)
 深夜2時30分頃、トイレで目が覚める。
 朝の起床は5時だが、それ迄の間、頭がさえて、眠れない。寝ているのか、起きているのか判らないまま、体を横たわったまま、不思議な夢ばかり見る。―中学時代の同級生が出て来たり、鹿児島での水道屋の仕事がオーバーラップしたり、男女の下半身もロコツに登場して来る。しまいにはトイレ探しが始まって、人々が並んでいたり、やっと入れたと思えば、使えそうな代物ではない状況。
(私はどうすれば良いの?)と思いつつ、又、別のトイレを探す。これらが全てカラーで夢見るので楽しい天国なのか、地獄なのか判らないのだ。レム睡眠か、ノンレム
睡眠を漂っている様だが、混沌とした私の頭は60年近くになる。何が何だか判らぬ夢の連続である。
『有名人=芸能人が次々と死去』
 元「キャンディーズ」のスーちゃん等、我々と同世代を生きてた人々が次々と死去してしまって、2/3以上の人生を過ぎてしまった私に取っては哀しいモノが有る。
―いつか、自分もお迎えが来るのだナと考えたりして。
 一日生きたけど、一日“死”に近づいている気がして。でも、私は長生きしたいです。
 その時、どんな生活をしているか判らぬが、ホームレスでサバイバルしながらでも、生き抜いてみます。指宿の皆さんたちも連ちゃんも長生きしましょう。「浮来亭」が300号から500号位まで続くまで・・・。
『時々、鹿児島の地鶏刺を』食べたくなる。
 特に赤身部分が好きだ。新潟周辺では名古屋コーチンが有名なので、居酒屋で頼むと、ササ身が出て来る。やっぱり鹿児島の地鶏が旨いね。
 食べなれているせいも有るだろうが、コチラのサツマ揚げも食べられない。使っている魚、味つけ、練り方、揚げる油等のコラボレーションで鹿児島の物が旨いのだろ
うと考える。―スーパーで砂肝が新鮮だったので、薄切りにして、生姜醤油で食べ、地鶏刺と考えて食した。
『カレーライスが消えた日』
 新潟に出張に来て四軒目の宿だが、毎週土曜日はカレーライスだった。今のH町寮に来て男性の調理人だったが五ヵ月で女性2人に変わった。その一回目の土曜日にカ
レーライスは出なかった。(ちゃんとオカズは有ります)と言うオバちゃん達。今迄の土曜日は何だったのでしょうね。まずい宿のカレーは食べたくないので、スーパー
で別メニュー買って来たり、居酒屋へ出かける人も居たみたい。(因みに、土曜日のカレーは船員達が曜日が判らなくなるので、海洋でのアイデアとして始まったみたいです)
『TV“人生の楽園”に思う』
 脱サラしてソバ屋を経営しているとか、都会を脱出して田舎で畑暮らし、パン造りの生活とか中年の人々が残り人生に、新しい人生をスタートさせてイキイキ生きてる
夫婦達が出て来る日曜夕方のTV番組だ。
 私も老後は、こんな暮らしをと憧れるが、今まで若い頃の努力が報われないのか、資金も無いし、気力も無い人間になってしまった。
 時に流されるまま、生きてるって感じ。
 私のついの棲み家は、どこに有るのかナ?と考えながら、この番組を観ております。
『髪は長〜い友だち』
 北海道へ面接に行った時、電気シェーバーが壊れ、スーパー「イオン」で使っていた同じ物を新品で購入した。その品も七〜八年たって、遂に壊れた。充電が弱いのか、回転にパワーが無くて剃れなくなった。顔だけ、安全カミソリで剃って、2〜3日、頭の毛は剃れずにいた。
 突然、気付いた!!頭に毛が生え始めていたのだ。長年の電気シェーバーで、マッサージ効果でも有ったのか?密度は少ないけど、毛根復活か?は・え・て・き・た!!
『栃木県の川沿いの温度』をTVで九月に発見。野暮用を済ませて、行って見ようと出発したのは、AM9:30位。―途中、この前の台風で道路は寸断され、片側通行になっていたり、通行止めも。川沿いは山の道が特にヒドイ。
 川沿いの温泉も途中、もっとヒドイのではと、思い諦めムードに。このまま向かって、辿り着きそうも無いので、昼頃、南魚沼でユーターンして帰って来た。来年、春頃にでも又、再挑戦してみます。その頃には道路も、補修されているのでは。新潟も、10月下旬から11月頃、雪が降り出すので、益々、行くのには困難の様子。
『加湿器?』
九月に急に寒くなった時、寮のエアコンで暖房は作動した。10月になって寒い夜、暖房にセットしたが、作動しない。大元請け会社に連絡し、電気店が修理に来て、食堂のオバちゃんに(直りました)と告げた様だ。どこが悪かったのか、何か部品でも換えたのか、その様子も無い。セットしても、やはり暖房は作動しない。寮長にも報告して有るが、次はいつ来るのか?修理屋さん。15日位たって、やっと来たのだから。大元請け会社も修理代金を払うでしょう。電気屋さんも直したと、料金貰うでしょう。でも、私の部屋のエアコンは暖房がない。寒い!!仕方なく、炊飯ジャーに水を入れ、炊飯にセットして湯を沸かした。
 加湿器みたいに湯気は出ている。心理的にも暖かい。雪が降る前に修理に来てくれるのだろうか。今年、凍死か・・・?
『宮城・福島・大阪・福井・・・』
 作業現場に日本全国からの人々が集まっているので、皆の言葉訛りが入ってしまって、私のしゃべるイントネーションは目茶苦茶です。
鹿児島弁は殆ど消えてしまいました。(朱に交われば赤くなる)でしょうか?
『今年、年末の漢字一文字は』
“災”だと思っている私です。
 地震、津波、原発問題、台風水害、そして、又、殺人事件の多かったこと。
『タバコ問題』
 次々と値段を上げて最終的には700円位になるらしいタバコ。愛煙家には辛い。因みに私は今、240円のエコーを吸っているが、プラス300円として540円になる。タバコは止めても、酒はやめられない。一応、タバコを持ち歩いて、どうしても吸いたい時まで、ガマン?―その時になってみなけりゃ、判らないか…?
『個人仕事VS団体作業』
 過去、私は一人作業の仕事ばかりしてきた気がする。――広告代理店では、事務所には社長を含め、六人位社員は居たものの、電車・バスを乗り継いで、広告を出して呉れる会社へ原稿、受け取りだ。会社を出て、戻る迄は、ずっと一人だった。
 牛乳配達も一人でした。工場から牛乳を積み込んで、各販売店へ降ろす。空箱を回収して…。家に帰れば又、一人。
 他の職種も新聞配達、机上での作業とか、一人仕事が多かった。水道や空調機作業は何人かが、現場に居たので団体作業だった。そして、今、仕事は集団作業だ。色々な人がおり、考えの違う人間が居る。過去も今も、そう、私はどうも団体作業に合わない様だ。何か、一人作業か、独立社長も考えていたけど、ズルズル60代近く迄、トシを取ってしまい。
 もっと早く、この事に気付いて、右・左の選択を間違えなければ、こんな事に・・・。
――時、すでに遅しですね。若い皆さんも、こんな私にならない様にネ。
『全国、お取り寄せモード』
 今の出張先には、ほぼ全国の人々が集まっている。この四年内で食した、お取り寄せモードの食品を書いてみたい。
●千葉県出身の人に頼んで、送料費込みの五千円で、茹でたピーナッツを頼んだ。酒のつまみに最高だった。あとで100円で、コンビニで売っている物を見つけた。
●大阪出身の人が、帰宅する度に、「雷おこし」だの、京都の「生八つ橋」等を貰っていた。
●私の勤務先会社が北海道なので、同郷の人々が帰北すると、北海道土産をGET出来るのだ。
●出身は宮崎だが、両親が鹿児島に引越した為、一年に一回は鹿児島に帰るNさん。Nさんに頼めば、鹿児島物産もGET可能。
●福島県いわき市のTさんは、冬になると、アンコウを送って来てくれる。鍋物が楽しみだ。
―そして、今、新潟に住んでいて、米・酒が旨い。ずっと働けるなら、ココに棲みましょうか・・・?!


「マリーゴールド」  皓以兆

市役所の正面に植えてあるマリーゴールド。黄色い花が花の少ない秋にひときわ目立っています。マリア様の祭日のとき、いつも花を咲かせていることから、マリアの黄金の花という意味から「マリーゴールド」と呼ばれるようになったらしい。
私の小さな菜園にマリーゴールドを植えてあります。今年はキャベツにあまり虫が来ない気がします。北海道の大根の産地で土壌に生息するセンチュウの被害が大きく、茎葉を枯らして、農民を苦しめたそうです。いろいろ対策を考えていたときにマリーゴールドを植えたところ、被害が劇的に減ったそうです。マリーゴールドを植えた後、土壌に漉き込んでやるとマリーゴールドから出る物質がセンチュウを殺すということで、北海道では農薬を減らした大根づくりが盛んになってきているそうです。私の菜園でもマリーゴールドの近くにピーマンを植えていましたが、今年は実のつきがよく大きくなりたくさん収穫できました。
秋の日本の大評的な風景で田んぼの稲の周りに赤い彼岸花が咲いています。
彼岸花の球根には毒があり、モグラなどの被害を防ぐために植えられたそうです。
赤い花が稲穂とマッチしていいコントラストをなしています。アメリカでは土壌に浸み込んだ農薬や化学物質を除去する研究がなされており、植物の持つ浄化作用が注目されています。日々口にする食品もできるだけ農薬に頼らない天敵の動物や植物を使ってほしいなと思います。私はニンニクと唐辛子(菜園で栽培したもの)を煮詰めて、木作酢に混ぜて、野菜やバラなどの虫のくるものに吹きかけています。今年はバラのピンクもひときわ濃い気がします。冬の作物の生育が楽しみです。



「赤伏目」


 (上)
 那須の与一
 私、小学校4年頃の話。兄は旧制中学3年頃。縁側を隔てて3メートルくらいのところにコスモスが咲き乱れていた。
 兄はパチンコの名手であった。私達が"何番目の花"と指すと見事にそれを打ち落として遊んでいた。父がそれを見て驚いた。「ほう、パチンコでもそんなことが出来るとはなあ」
 蒙古襲来(1274年)
 いよいよやって来た。900艘 蒙古(2万人)と高麗(6千人)プラス梢工(しょうこう=船の修理)水手(かこ=漕ぎ手)
 当時の日本での戦いは矢合わせ(鏑矢)に始まり、"我こそは"の個人プレー意識が強かった。外人から見れば珍奇な戦い方で、蒙古兵が船端叩いてドッと笑ったとある。
 それらの武士を取り囲んではハイエナのように集(たか)り、刈り取っていった連合軍。 
 長年、ヨーロッパまでも遠征し、色々の人種の戦いを見て、戦ってきた蒙古軍の前に、ケチョンケチョンにやられたとある。おまけに、火薬(手投げ弾)を使ったり、毒矢もあった。弓は馬上で有利で飛距離もある半弓が使われた。組織的な戦いに慣れた蒙古軍の前に敗退した。
 それまでは日本人相手の戦いしか知らずの日本軍、文字どおりの"井底の蛙(せいていのあ)大海を知らず"であった。

 (中)
 手負い猪の日本軍
 しかし、日本軍の個人戦は強かった。源平戦での美談などで士気は高揚していた時代である。平家討伐のキャリヤも残っていたに違いない。弘安の役では単独で敵船に切り込む勇猛な武士もあったという。
 とにかく自動小銃に立ち向かう竹槍部隊(60何年前は本気で訓練していた当時が思い出される(>_<))とまでは言わぬまでも、田舎戦法と言われようとも、がむしゃらに応戦した模様である。強い蒙古軍の先入観も災いし、ちょっと攻めれば逃げ廻る(?)宋軍よりは堅固であったらしい。
 肥後の菊地武房軍が数の上では少数(200人強)でも背後を襲う筈の高麗軍を撃退したという記録が残っている。仕方なく付いて来た高麗軍などとは士気の上で遥かに違いがあった。勝ったからってメリットない。
 蒙古軍の目の届かないところでは逃げ廻ればよいわけで、蒙古軍の生意気な奴はどさくさにまぎれ「後ろ弾も」
 少弐景資の率いる軍団は約8時間激戦の末、退却しながらもその日の夜  までは保(も)った。これが後に幸いした。「天は自ら助けるものを助ける」の諺を当ている人もいる。
 蒙古軍から見れば、得意の馬を使い野を駆け廻る戦いは馬(舟で運ぶため)数に限度があった。地形も広い平野でなかった。また元軍の軽装備に対して日本軍の鎧兜は散兵戦では役に立ったものと思われる。  
 とりわけ、弓は名人揃いで(文頭に述べたパチンコじゃないけれど、武士は子供のころから那須の与一や義経の武勇談をお手本に弓や剣術を徹底的に仕込まれていた)狙撃は優れており、敵兵にかなりの損傷を与えたことは想像出来る。  
 副元帥の劉復亨は矢で狙撃され重傷を負った。このことも、次の日の攻撃を止めた一つの理由と言う人もいる。
 史書では蒙古軍の半弓の威力ばかりが書かれているが、命中率の点は定かでない。数打ちゃ当たる方式?その証拠に、半弓が優れた武器ならばその後、日本でも使われても良さそうなものなのに、それがない。

 (下)
 幻の援軍
 予想外に歯向かって来る日本軍に辟易したのも事実であった。その夜は夜襲を恐れ夜営をせず、連合軍は船に引き揚げ将官の軍議がなされた。
 高麗の指揮官 金方慶は軍議で、翌日攻めることを強く主張したとある。
 NHKの大河ドラマでは蒙古軍の威嚇、此れだけ強いんだということを見せて来れば充分というフビライの作戦で、次の日、兵を引き揚げさせたとしているが、船上で軍議がなされたことが事実であれば辻褄(つじつま)が合わない。
 これまでは2回の神風で蒙古・高麗の連合軍は大敗したと子供の頃教えられ、日本は"神の国"鬼畜米英に負ける筈がない。神風が吹くんだと!
 フビライは使節者の数人の首を刎ねた日本人は"野蛮人"と怒り心頭状態で、2回目の時(弘安の役は南宋を滅ぼした後である)ほど余裕はなく、計画的戦略があったかどうか疑問である。 
 これをNHKが放映するとあれはフビライの作戦と記憶し、常識化する。したがって断りをいれるべきであろう。
 日本人軍団の勇猛果敢な戦い振りがフビライに報告され、次の弘安の役では14万(内10万人は南宋軍であったが)の大軍で襲わせたことでも分る。
 副元帥 劉復亨の重傷、予想を上回る日本軍の抗戦で矢弾の消耗、予想される日本側の援軍の懸念(報告が鎌倉に着くまで4〜5日はかかる。援軍が博多へ向かった話など手元の資料では見当たらない) 食料補給の目途など、元の元帥 欣都は兵を引いた。歴戦のキャリヤの判断が裏目に出た。
 玄海灘が荒れた。高麗人が蒙古人に尻を叩かれ叩かれ(実際にはもっとひどかった可能性も・・・井上靖の"風涛"参考)、厭いや造ったインスタント船。手抜き工事もあったろう。
博多湾を出航し、帰路についた船は時化(しけ)でその大半が玄海灘の藻屑と化した。
(連合軍が何故一日、それも勝ち戦で引き揚げたかは依然として謎が多いが、20数年前、私がこれを調べた頃とは違ってかなり分ってきている。)      完

 文永の役 追加
 当時(私が調べていた頃)は日本の『八幡愚童訓』『兼仲卿記』などで得たものが中心であった。その後の中国や韓国などの日本との交流の改善などもあって蒙古、高麗側の資料も分って来た。
「官軍(元軍)整わず、また矢尽く。ただ四境を虜掠して帰る。」 元史。文永のその夜の話しである。
 また高麗側の「東国通鑑」「高麗史」などにも関連の話しが出ていることが分って来て、それらを照らし合わせることによって当時の史実もぐっと鮮明になって来た。
 日本軍の勇猛さや敵の副元帥 劉復享が矢で重傷を負ったのは事実で双方(若干の違いはあるが)の資料にそれが出ている。日本側では総指揮官の息子少弐景資が狙って放った矢(向さんは流れ矢と書いている)が命中したもので、数人の証言もあり80%以上の確立で正しいようである。これを敵の大将と云って少弐軍は周りに鼓舞し、奮起したことも分るような気がする。もちろん当時は敵将の名前までは分らなかった。
 その夜の船上の軍議で高麗の金方慶が"背水の陣"の言葉を使って、翌日再度攻めることを主張したとある。元史にある前述のフビライへの報告とともに日本軍の善戦を裏付けるに充分である。
 つまり、一部には兵も居たのであろうが俄か仕立ての高麗軍は戦のプロ(鎌倉武士)の前では数の上では勝っていても、所詮は烏合の衆であったらしい。 
 この情けない戦い振りを金方慶は意識して、軍議の中で蒙古の元帥忻都や洪茶丘(朝鮮人でありながらフビライの腰巾着で、いやと云うほど高麗人を苛めた)を前にして云わさせた、実にその場の雰囲気までも感じさせる価値ある"この一言"であったと私には思われる。


  東京花便り その三十一
               斉田 万吉


 子供の頃は福岡や北九州の小倉で、学生時代は京都で、チンチン電車によく乗りました。
昭和の高度成長期、マイカーの急増で路面電車は邪魔者扱いされ、次々と消えていきました。しかし環境問題や高齢化社会への対応が叫ばれるようになって、近年にわかに見直されているというから皮肉なものです。
九州では鹿児島、熊本、長崎で今でも路面電車が市民の足として活躍していますし、富山市では平成19年に新路線を開業させているほどです。
東京でも明治から昭和まで都内各所を都電が走っていましたが、昭和47年までにほとんどの路線が廃止になり、今は一路線だけが残っています。
都電荒川線は早稲田(新宿区)から三ノ輪橋(荒川区)までの約12q、30の駅を結んでのんびりと走ります。運賃は全区間一律大人160円で、1日乗車券は400円という安さです。
もう一つおススメのポイントは、沿線や電停のいたるところに植えられたバラの花です。
バラの花は総じて高貴で華麗なるものの形容に使われ、花の女王ともいわれます。下町をのんびり走るチンチン電車とバラの花の組み合わせ・・・これが意外にマッチしているから不思議です。
写真撮影がてらに女房と二人の孫を連れて、久しぶりに都電荒川線に乗ってきましたが、王子から終点の三ノ輪橋までずっと満員状態でした。
チンチンと鳴って、ゆっくり走り出すときのゴトンゴトンという音がやけに懐かしく、平均時速40qというスピードに安らぎを感じました。
沿線では、線路脇の狭いところにバラの花がたくさん咲いています。終点の三ノ輪橋駅にはたくさんの種類のバラがあって、まるでミニバラ園のようです。
駅の傍には昔のままの商店街があって、まさに「3丁目の夕日」の世界そのままです。
電車も駅も町も、いつまでもそのままであってほしいと思いました。

  
柿落葉ゴッホに勝る色使い 竹帚
  


         
  夜中に目が覚めた。寝不足だから寝なくてはと思っても寝られない。
 昨夜もだった。年を取ったのだからと・・・。
 昼寝は30分位でもすっきりするのだから、「夜寝」とすれば、3時間も寝たのだから寝過ぎかもと思ったら、いつの間にか寝てしまった。














■「指宿温泉MTB時間耐久レースIn休暇村指宿」が12月4日に行われます。楽しみなレースのようですから、是非行かれて下さい。













 いよいよ、あと1号。頑張ります。







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