の幸ちゃん

『カンパチ刺身が食べたかった
 前に食べたのは、いつだったろうか?新潟では回転寿司にもカンパチは回っていない。
 地元の人に聞いてみた。カンパチは高級魚で、当地で刺身や寿司で食べられないとの事。近所のスーパーで鹿児島産の物が1/4ブロックで800円位で売っていた。給料をもらった後だったので、つい買ってしまった。私は白身のプリプリ食感の刺身が大好きなのです。エンガワも大好きです。―赤身で柔らかい、ヌターッとした刺身系は、苦手です。―ちなみに、こちらの人は、カンパチを口にした事はないのか?売れずに残っていました。隣の在り来たりの刺身は完売だったけど。―口にした事ないから?買うのが恐かったのでしょうか?

『社員旅行→日光』
 18歳で東京での最初の社員旅行が栃木県の日光だった。東照宮だの、華厳の滝だの、中尊寺湖を回った。今、近い新潟に居るので、近々行ってみたい気がする。―もう中尊寺湖等思い出す事も出来ない。写真ではスマした顔で残っているけど。―一体、あの頃、私は何を考え、生きてたのだろうか?否、何も考えておらず、新しい状況にただ、心の中では、ウロたえていたのかも知れぬ。

『子供の時の家事当番』
 ひとつは庭掃除だった。特に内容を書く事も無い。もうひとつは風呂沸かしだった。当時、まだ五右衛門風呂で、色々な物を釜の下で火を点けながら、炎の動きをじっと見ていた。当時、人生がどうなるかも、先に夢が有った訳でもない。ただ、木や紙が燃えて風呂が沸くまでの間、自分だけの時間の様な気がしていた。沸けば、入った家族が喜ぶ。丁度、良い湯加減に沸いているから。冬は焼き芋を焼いたりして、オヤツ代わりになった。貧しい家庭だったけど、何か将来にいい事、有りそうなを詫していたのかも知れぬ。

『農協牛乳マークの事』
 鹿児島に居る頃、新潟の一般家庭のシーンが写り、食卓に県酪牛乳と同じマークの牛乳が並んでいた。新潟に来て判った。あのマークは日本全国共通の「農協牛乳」のまーく(牛乳のしずくが三方に立ち上がって冠みたいに見える物)なのだ。各県別にあとのデザインは若干、変っているようだ。(鹿)県酪牛乳と同じ、青と白のパッケージなので、スーパーで見ても、配送車が走っていても、(鹿)県酪牛乳を思い出してしまう。


   ランダム

 幸せそうな奴をみるとそれをぶっ壊す。砕いて、弾いて、弄る。自分が満たされていないのだから、満たされている奴から奪いとるのは当然だった。
 誰でもいいから、難癖をつけて暴力をふるう。殴っても蹴っても、何も満たされない。心の揺らぎはさらに揺らぐ。海面に広がる波紋のように…。
 物心ついたときには、両親はいなかった。そんな両親が遺してくれたたった一つの宝物が、シュラという名前だった。修羅だとか阿修羅だとか、何かしらの強さを連想させた。何も持っていないシュラにとって、強さや暴力こそがすべてだった。強ければ何でも手に入るとさえ思っていた。それにこの名前は、顔も知らない両親との唯一の繋がりといえば繋がりといえた。
 いつのころからだろう。シュラは頭痛持ちになった。頭痛があると頻繁に起こる現象がある。
 ランダム。
 記憶のランダムだ。シュラが忘れている物事がランダムにふっと思い出されるのだ。とぎれとぎれの砂嵐の中から、うっすらと浮かび上がる記憶のシルエット。それが恍惚にもなり、苦痛にもなり、時には吐き気さえももよおす。
 ランダムに周期はなく、眠っているときにもたびたび起きた。
 シュラはやがてお酒とドラッグに溺れるようになった。幻想とランダムに境がなくなり、やがて深い眠りとなる。
 シュラは道端で眠った。体をくの字に曲げて、目をつぶっていた。すると、どこからか声がした。
 シュラを蔑み、馬鹿にするような声が聞こえてくる気がした。やがてそれに耳を傾けると、幻想でもランダムでもない現実の声が聞こえた。女の声だった。
『チカヨッテハダメ』
 シュラは目を見開いた。そこには母親と幼子がいた。よちよち歩きの幼子がシュラに近づこうとしているのを、その母親が制していた。
 母親にとっての宝物は、その幼子であろう。
 宝物を奪うことがシュラにとっての日課であった。シュラは舌なめずりし、母親と幼子の手を引き、強引に裏路地に連れて行った。
 数々の悪事を重ねてきたが、人殺しだけはしたことはなかった。しかしその幼子を見ていると無性に憎くなった。どうしようもない衝動が胸を圧迫した。
 シュラは嫌がる母親から強引に幼子を奪い、その小さな首に手をかけた。
 女の顔が狂気と涙でゆがむ。シュラはその顔を見るのが楽しくてしょうがなかった。
 その時である。
 突然、ランダムが起きた。
 若い男と女が赤子を抱きかかえる映像だった。
 その若き夫婦は何度も何度も赤子を抱きかかえ、頬ずりをしていた。やがて男が口を開いた。「この子の名前は決まった」
「えっ、何にしたの」
「シュウだ」
「シュウ…。いい名前ね」
 若き夫婦は満面の笑みで、シュウと名付けられた赤子を抱いていた。
 記憶の狭間からランダムに浮かんだ原風景はその場面で消えた。シュラのおでこには大きなあざがある。その赤子にもついていた。
―シュウという赤子は俺だったのか―
 シュラという名前ではなく、本当はシュウという名前だということにも驚いたが、生まれたばかりの自分を嬉しそうに抱きかける両親の姿に戸惑いを感じていた。
シュラは幼子から手をはなした。母親は泣きながら幼子を抱きしめた。
 シュラは目をつぶった。そのシーンを何度も何度も思い返した。すると違うシーンがランダムに浮かび上がってきた。それは雪の降る夜の光景だった。名札を付けた幼き日のシュラが修道院の前で立っていた。修道院からでてきたシスターは、シュラの名札を見てにっこりとほほ笑んだ。
「シュラというお名前なのね。さぁ、いらっしゃい。今日からここがあなたのお家よ」
 シスターの言葉を最後にシーンは途切れた。
―『シュウ』とかかれた名札を、シスターが『シュラ』と見間違えたのか―
 シュラの育ての親はシスターだった。十歳の頃に修道院を飛び出して以来、会ってはいなかったが、少しだけ懐かしく思った。
 シュラは修道院を訪ねた。シスターは亡くなっていた。そこで、修道女からシスターが肌身離さずもっていたものがあると手渡されたものがあった。
 それはシュウと書かれた名札だった。


 東京花便り その二十八

                 斉田 万吉


子供の頃、40日以上もある夏休みはとても長く思えて、毎日遊んでばかりいました。
昼食後の一番暑い時分になると、昼寝をするように言われるのですがなかなか寝つけず、親や兄弟が寝入った隙にまた家を飛び出して、日が暮れるまで野球や川遊びなどをしていたものです。
長くて暑いと思っていた休みも、盆踊りが終わる頃になると夜の秋を感じられるようになり、残った休みの日数と宿題の量を比べて、にわかに辛い気分になったことが何度もありました。
東京では新暦でお盆の行事をやるところがありますが、夏休み前ではあまりそれらしい雰囲気が出ないように思います。明治5年12月3日が明治6年1月1日になっていますので、新暦と旧暦とでは、ほぼ1ヶ月の差があります。そういうことを考えると、やはりお盆の行事は月遅れの8月にやるほうが、季節感がマッチしていると思います。
立秋は新暦でいえば8月初旬、今年は8月8日です。日中はまだ炎天が続きますが、この頃から少しずつ朝夕の空気に秋の気配が感じられ、野山には秋の七草が咲きそろうようになります。
今年は七草の中でもナデシコの人気が高く、女子ワールドカップサッカーで「なでしこジャパン」が優勝し、国民栄誉賞も贈られるという快挙によるもので、花屋にもたくさん並んでいます。
大和撫子とは楚々として可憐な花を、しとやかな日本女性にたとえたものですが、彼女たちの戦いぶりからはとてもイメージできませんね。
正式にはカワラナデシコをさし、本来は日当たりのよい河原や山野のあちこちで見られましたが、近年自生地はごくわずかです。この夏、皇居東御苑で見たカワラナデシコ(もちろん植えられたものですが)は「なでしこジャパン」のユニフォームの胸元のショッキングピンクそのもので、とてもきれいでした。
「戦後強くなったものは靴下と女性」などといわれますが、大和撫子の意味も強くてたくましい日本女性を意味するようになるかもしれません。

  引退す贔屓力士や雲の峰 竹帚                                    


       連太郎     

 一週間の休みを貰えたので、又静岡に行った。今度の一番は祭りであったが、それ以外も色々あった。
17日・午後5時の高速バスで鹿児島を出発。途中渋滞があったので福岡の乗り換えには時間が殆ど無く、お腹が空いた。
18日・朝の8時に京都に着く。今日の予定は名古屋ドームでの巨人戦だったので時間は余りあるほどある。仕方ないので近鉄で奈良経由を考えた。都会のはずだがなんとなく風景がのんびりしていて私に合わせてくれているようだった。名古屋に1時過ぎに入り、今夜泊まるカプセルホテルにチェックイン。一風呂浴びて、地下鉄で名古屋ドームへ。やっぱり生が良いとやや興奮。巨人は負けたが納得。カプセルに戻り。サウナに入り。やっぱり生が良いとビールを。
19日・いよいよ静岡入りの興奮で7時前に起き朝食を。10時前に出発して高校のテニスの仲間に会うために磐田へ。迎えの車に満足してから、4年前に60歳にならないで亡くなった友の墓参りへ。自分らしくなかったが気持ちは落ち着いた。そして今日のメインのテニス仲間とマージャンと飲み方が夕方4時に始まった。15人以上は集まっってかなり煩かった。ビールを飲みながらだったので勝敗は定かではなかったがお金は払った。飲み足らなかったのとまだ10時頃で早かったので4人で二次会へ。指宿では下手な私が一番上手かったので磐田のレベルがわかった。
20日・11時のバスで事故のあった天竜へ。テレビに映っていた鉄橋は中学時代の通学路であった。でも威張れなかった。2時に小学時代に引っ越して行った大阪の友と落ち会う。二人とも懐かしいので、歩いて祭り一色とは行かない街の中を歩いたが知った人はそんなに居なかった。でも街はあまり変わっていなくて懐かしかった。夕方、幼馴染と昔を語り満足。日が暮れてお囃子が聞こえてきたら血が騒ぎ出した。これは止められない血だと思ったら兄嫁が法被を持って来てくれ助かった。気持ちを抑えて屋台を引張ったが、終わった時は心臓が止まるかもと思い、これで死んでも良いかとも思った。でも隣の同級生が漢方薬を持って来てくれたので助かった。今日は二度助けられたが、声は潰れていた。  (二俣祭り
21日・今日も祭りなので興奮しているのか早く目が覚め、大阪の友と二人で自転車で小学校の時の恩師を訪ねた。もう80歳は超えていたが元気で何よりだった。午後は実家の店の前で小同窓会になった。何人か亡くなっているのを知った。中の一人に健康を聞いたら「病院に行かないから病気にならない」と聞かされ、私も真似しようと思った。友が写してくれた昨夜の私の法被姿の写真を見て、人間はそんなに変わるものではないと確信した。夜、小雨が降っていたが祭りには関係なかった。声は出し辛かったが出して、騒いだ。昨夜の失敗はいけないと思い90%の力で屋台を引いた。周りの若者の心配も理解できたが、祭りの為に帰ってきたのだからと無視して騒いだ。終わった。声は殆ど出なくなったが満足。隣の同級生はまた漢方薬を持って来てくれた。お陰で考えもせずぐっすり寝られた。
22日・再び高校のテニスの仲間に会うために磐田に向かう。大阪の友とは磐田で別れた。夕方から7人で食事会。一つ下が3人。昔話に花が咲いた。知らない花もあってびっくり。酒の好きな3人で二次会へ。あまり歌わないで石川さゆりの「風の盆・恋歌」をしんみり聞いた。
23日・奈良に帰る友の車で、再び奈良経由で大阪へ。行きも帰りも奈良に縁があったので私には奈良のルーツがあるのかもしれないと思った。高速バスの時間までインターネットカフェで考えた。日常の生活から離れられる旅は良いものだし、するべきだと。
24日・午後1時過ぎに指宿に着いた。長いような短いような一週間だった。


 高校野球も終わり、夏も、まだ暑いですが終わりに近づいてきました。くれぐれもお体に気をつけて下さい。


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