の幸ちゃん

『三年振りの帰北』
 昨年12月27日にフェリーに車で乗って、帰北(北海道へ帰る)した。深夜2時頃迄、仕事仲間と酒を飲んだ。翌日は、朝風呂だの、ビデオシアターで、『がばいばあちゃん』と『引き出しの中のラヴレター』を観た。新潟もソコソコ寒かったが、更に寒い北海道へ、還る事になった。
『三年振りのアパート』
 出張へ出る時、元請けさんから(一ヶ月位)と聞いていた。バタバタとダンボール箱一個と、バッグ一つにまとめて、フェリー船着場へ行ったのは三年前の2月。(6月頃迄になるかも)と、人事担当者。―それが三年過ぎてしまった。
 アパート室内にダンボール箱で、棚を作っていたのだが、室内の湿気を吸ったのか、倒れくずれて物品が室内に散乱している。まるで泥棒が入ったみたいだ。ちょっと悲しくなった。人が棲んでない部屋が、こんなに荒れるとは。アパートの前は交通量が激しいので、隙間からハイガスの煙でも入ったのか、綿ボコリと黒いスス(?)が、微量に入っていて、帰ったトタン、室内大そうじに取り掛かった。大家さんに頼んであった、調味料や米の処分もしてなくて、三年もたって賞味期限を過ぎたものを大処分。本当に、三年前に戻って、三年間が一瞬に消えた。室内が、三年前の昨日の様だったのだ。
 炊飯器の中には忘れていたゴハンが残っており、カビが化石状になっていた。出張報告は2〜3日前だったので、私も大慌てだったのだろう。洗ってみたものの、カビの部分からテフロンがハゲてしまい、棄ててしまった。―何もかもが大損出。グラスや陶器物も黄ばんで使えそうもない。ラーメン、調味料、食材も全て棄てた。大損害だ。金も貯まらないし、一体、何の為の出張なのか…。
『三年振りの苫小牧』
 アパート付近の道は少しずつ記憶がよみがえったが、フェリー着場から、市街地への道は、何とか思い出して帰れた。2〜3日、車で走っていたら郵便局だの、コンビにだのと思い出して来た。残念ながら、女性似の男の子はコンビニをやめていた。(以前、「浮来亭」に執筆)―以前、借りていた駐車場も、車が増えて、やっと一台分、空いていた。月五千円が三千円になっていた。三年間の空白は物凄いと、ギャップを感じた。
『次の仕事は?』
 昨年末では次の仕事が決まっていなかったので、一旦帰北する事になった。一月十日に仕事がハッキリ決まる予定だったので。
 フェリーも発券して帰る事になったが、他の社員は福島へ出張中とか。年末・年始を迎えるので、北海道には帰って来ないとの女子事務員の弁。新潟から帰北したのに、社長と事務員だけの新年会か?一体、何の為に、帰北したのか…?アパートの大掃除しに戻って来た気がした。
『三年程前から』体のアチコチが痛かったのは気付いていた。疲れた体の部分が痛い。リウマチか、筋肉痛か?ピリピリ、針を刺す様な痛みが有ったり、高校の頃から指の関節をポキポキ、鳴らしていたので昨年から、その部分の関節が痛み出し、四苦八苦。電気風呂で、和らげると、一〜二日は良いが、元のモクアミだ。
『今年の車!!』
 新潟での寮の駐車場が無くなって来て、今回、もう車は持って来るナ!!との話だったが、12月30日に、電話が入って「OK」との事、フェリーの切符も取って有るとの話。作戦は急変した。室内の服、タオル他、出張先でも使える物は全て、ダンボール箱に詰めた。使えない物は、全て棄てた。昨年から左前の車軸はボコボコ言い出した。「発進」とか「段差」で音鳴りがする。昨年暮からは、左後ろタイヤ付近でカタカタと音がする。回転軸付近に何か、当たっているみたい。来年の車検時は買い換え時かも知れない。―愛着は有るけど、走らなくなって途中で周囲の人に迷惑かける訳にも行かない。来年は車検だろうが、買い換えだろうが、金を貯めなくては。その対策は、室内での酒飲みを止める。寮に帰ったら、即、夕食を食べて、すぐ寝るか、周辺に散歩に行く。体重も減るし、健康的!!か?
――さて、本年の原稿内容はガラリと変化するかも知れぬが、どうぞ又、まだまだ、お付き合い下さい。
――本年も皆様にとって、良い年で有りますように。


ある回想 (二) その9 
           アイ・アイ

 駐在員勤務はインドネシアとシンガポールの二ヶ所です。ネシアには79年から4年余の駐在でした。この国は赤道直下にあり、ジャワ、スマトラ、カリマンタン、スラウェシの基幹の島を含む1万8千を数える島々に2億3千万人がすみ、統一国語はインドネシア語(マレー語系)ですが部族固有語は50以上と云われています。なかでもジャワ島に人口が集中しているのも問題で、政府はジャワ島から他の島々への移住を、助成金を出したりして奨励していますが効果はなかなかです。私の時期は、2代目のスハルト大統領[68年から約30年間)の時代でしたが、インフラ整備もこれからという時期でした。
 東南アジアはかつて欧米諸国の植民地としての歴史を持ちますが、戦前の日本が唱えた”大東亜共栄圏”構想下で高まった独立への気運が、皮肉にも日本の敗戦を機に各国の独立をもたらします。
 インドネシアもかつてはオランダの植民地で、初代大統領となったスカルノも若き日の独立運動家時代に日本留学の体験をもっております。大戦の終結を機に独立を宣言しますが、旧宗主国のオランダが戻ってきます。そこから5年に及ぶ独立戦争が始まりますが、旧日本軍からこの戦いにネシア側支援に加わった軍人も多くいたのです。(これらの方々で、後に日系企業に勤務された人もいました、我々の事務所にも2名いらっしゃいました)。このような背景から対日感情は良く、今や懐かしい”隣組制度”やこの隣組の早朝行進の慣わしが生きていました。社宅に入りまず為すべきことは”班長さんー日本語でハンチョウサンーへの御挨拶でした。このような対日感情に依るものでしょうが、対日賠償請求もゆるやかで、これに応えて日本政府も学生の留学を積極的にうけいれ(賠償留学)、この受入れ校の一つが鹿児島大学水産学部でした。私も鹿大を出て、ネシアの水産省の局長さんという方にお目に掛かったこともあります。また円借款も優先的な供与先とされてきました。
何分にも長大な島国ですから、その統治には軍隊(国軍)の役割は無視できません、ところがこの国軍が(ちょっと我々の理解を越えますが)ジャワ軍団、スマトラ軍団というように各地に根を張って、群雄割拠のじょうたいです。かつ、この軍団は独自に自分の兵隊さんの老後の面倒をみる福祉の役割も果たすのです。ですから軍団自身がその資金稼ぎに事業も展開しますし、我々と組んで仕事のパートナーとなることも多いのです。
 初代のスカルノ大統領がこの国軍を利用すると同時に、その巨大化を防ぐ目的でインドネシア共産党(大学生も多数を占めていました)に接近したのです。国軍と共産党と対峙させる方針だったのですが、国軍の反発をかい、容共派弾圧クーデターを起こし、スカルノを追放し政権の座に就いたのがスハルトです。軍を背景に強権的圧政を敷きましたが、インフラ整備を進めたことも事実です。
仕事遂行上で困るのは、強権政治ですので(議会はありますが、事前に割り当てられた職域代表、例えば国軍代表、が政党からの議員を上回りますので、有って無きが如し)、施策や仕組みが突然変わることで、この対応には泣かされました。長くなりますので今回は具体例は挙げません。
 インドネシアでは、ほとんどの人がイスラム教徒です、(バリ島はヒンドゥー教徒)。留意すべきことは、通常の法制度とは別に、一般の人々の生活にイスラムの教が生きていることです。集落(カンポンといいますが)内には長老会議があって、イスラムの教えのもとに生活の規範を定めています。集落と聞くと、日本では田舎を連想しがちですが、此処では都会の中に何箇所もカンポンが点在し、その住民が都市機能の舞台裏で雑務をこなしているのです。インフラ整備にともない都市開発が優先し、都会生活にあこがれる若者や、風来坊的生き方が出てきますと、かかる”跳ね返り者”は社会の悪である、と云うような論調が新聞等に見られるようになります。そこで長老会議の出番です、”この男は、我がカンポンには有害”と評決すると、軍から銃殺隊が派遣されて始末、翌日の新聞にはその成果(何人始末した)が発表される時期もありました。
 80年代初頭のジャカルタはまだマンション等は無く、平屋の一軒家が社宅でしたが、ここには女中さん2名、庭師と家庭車の運転手と最低4名の使用人を、仕来りとして、指図することになる奥様方にも苦労がありました。何しろ日本では女中さんのいるサラリーマン家庭等存在しませんのでね。尚、駐在員もその家族も現地では運転厳禁でした、交通事故を起こし現場でもたもたしていると、激昂した住民にリンチを受けるケースもあったからです。
 特異な案件として思い出すのは、大手3商社(伊藤忠、三井物産、三菱商事)に、ネシア政府から農園開発の要請を受け、20年に亘り農場開発経営に苦労したことです。我々もスマトラの東地域に、山手線の内側に相当するジャングルを伐採し、4等分した区画を一年毎順繰りに焼畑をしキャッサバ(芋)を植え、澱粉原料と家畜飼料として出荷する仕組みでしたが、私の代に20年目を迎え返還しましたが、先輩諸氏が苦労して開拓した農場が、今どうなっているのだろうか?と考えます。そうそう、この農場で例の銃殺隊事件もあったのです、ここの責任者であったT君の報告では、近所のカンポンからの労務者(農民)を、夕方農場のトラックで送り返す作業をしていたら、
 兵隊が来て”だれだれはいるか”と一人の青年を呼び出し、林の中に連行、ズドンで終わりだったそうです。この章も終わりに近づきました。
 80年代後半になりますと、ジャカルタ市内の発展は目覚しく、駐在員の生活の拠点もマンションとなり、なんら日本国内と変わらなくなりました。



「日本の森林」   皓以兆

 日本の森林が密かに外国人に買われていることを知っていますか?日本の森林が木材価格の下落と後継者不足などの要因で森林が荒れているというニュースはたびたび流れます。もちろん国や県もだまって見過ごしているとは思えませんが、日本の森林が虫食いされたように外国人の所有になるのは大変なことです。ご存知のように森林は保水、資源、水道水や工業用水の水源として私達日本人に豊な恵みを提供してきました。わが指宿市も周りを山の緑で囲まれているせいか、あたりまえのように思っています。しかし世界を見渡せばこれほどまでに緑豊な国はありません。日本の水はおいしい。それを外国人もわかっています。これからの資源は「きれいな、おいしい水」なのです。昔、友人と高隈岳登山の途中で飲んだ水のおいしさが忘れられません。照葉樹林がはぐくむ豊なミネラルいっぱい含まれている水。垂水はうまい焼酎やミネラル水で有名です。唐船峡の水は日本の名水百選にも選ばれています。このまま外国人のものに山の所有がなってしまったら、おいしい水の恩恵も受けられなくなってしまうかもしれません。国に早急の方策を検討してもらいたいと思います。私達ひとりひとりもまわりの自然に目を向けて、だいじな山の緑を守っていかなくてはならないと思います。魚見岳市民の森にたくさんの人がやってきて、森の中ですごしてもらいたい。何かを感じてもらいたい。森に目を向けてもらいたいと思います。



 東京花便り その二十一
                斉田 万吉


 福岡の太宰府天満宮に京都は北野天満宮、東京では湯島天神に亀戸天神など、天神様に付き物といえば梅の花。
それら各地で2月上旬から3月にかけて梅まつりが行なわれ、菅公にあやかって合格祈願の絵馬を奉納する受験生の姿をよく見かけます。
梅まつりにはまだ早い昨年の1月25日、湯島の初天神に出かけた日のことです。
俗に、高い所にある神社や仏閣などに通じる道が二つあった場合、勾配が急でまっすぐな方を男坂と呼び、緩やかで曲がっている道を女坂といいます。
湯島の天神様には男坂と女坂とは別に、春日通から上る石段がもう一つあって、夫婦坂と呼ばれています。江戸の粋を感じさせて、何とも憎いネーミングです。
その夫婦坂を上りきって境内に入ると、左手前方に早咲きの白梅が目に入ります。
参拝客はさほど多くありませんでしたが、数人がその白梅の上のほうの枝をじっと覗き込んでいました。そのうちの一人はカメラを構えて、ずっと何かを追っています。
私も傍へ寄って枝を見上げてみましたら、何とまあ可愛いメジロが数羽いて、花々の蜜をしきりに吸っているではありませんか。
湯島天神には梅園が2ヵ所ありますが、その頃はまだ他の梅はせいぜい蕾で、開花している枝はほとんど見当たりません。メジロたちはその1本だけが早咲きなので、他の木に移ることもなく、ずっとその白梅に留まっていました。
ちなみに「梅にウグイス」という言葉をよく耳にしますが、梅の枝にウグイスが飛んできている様を言ったものではありません。春を待つ人々の心を和やかにするもののたとえとして、目には梅の花、耳にはウグイスの声であるという意味なのです。
実際、梅の花がほころぶ頃と、ウグイスの初音の時季にはずれがあります。
たしかにウグイスの声はよく耳にしますが、鳴いているところを間近で見たという経験は私もありません。絵図としては「梅にウグイス」ではなく「梅にメジロ」のほうが様になっているようです。
今年も湯島の初天神で、可愛い目をしたメジロたちに会えることを楽しみにしています。
友逝きて浮き寝の鳥に語りかけ 竹帚 






  
 
 年も押し迫り、後一週間もない日に引越しが始まった。まるで夜逃げをするような感じで終わった。
 引越しが終わったと思ったら、直ぐにビルの解体が始まった。建物の見た目は今までのままだが、中は殆ど無くなった。まるで我々の生き方を否定されているようなあっけなさだった。
 33年間住んだ(途中6年抜けたが)のだから、愛着があって当たり前だ。新しい家に慣れないのも重なって、やや元気なく年が終わった。
 新年になり、仕事も始まり、家にも慣れたのか、知らない間に元気になっていた。
 二週間も経ったら、何も無かったようになった。
 寝る時に思った。私が薄情なのか?それとも人間って、そんなものなのかも、と。
 明日からは人生も深く考える必要ないなと思い、直ぐに寝られた。



 
縄文の森をつくろう会より
■ 1月30日(日)午前10時〜12時に
御領ガ池で野鳥観察会があります。



   新しい年が始まりました。今年もよろしくお願いします。原稿もお願いします。


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