の幸ちゃん

『長野県で旨い酒を見つけた』
 その酒は甘くも無く、辛くも無く、全ての料理に合いそうな味で有る。電話してカタログを取り寄せた。全ての商品が代引きだったので、直接、購入に行く事にした。(著者注:「代引」とは、商品が届いた時に代金を支払うシステム。最近では、この酒造会社もコンビニから振込送金できるので便利だ。)
 11月21日(日)に酒蔵まで走った。新潟県から県界を少し過ぎた中野市に、その酒蔵は有る。街の中に、古びた建物がパッと視界に入って来て、そこだけ明治、大正、昭和の時代か?店内に入り、色々と購入。建物の中程には和風庭園まで、しつらえて有る。約三時間近く、車を走らせて来た甲斐は有った。

『お別れ、新潟』
 この出張も来年2月で3年になるが、残念ながら、12月末日をもって、北海道へ引き上げる事になった。次の来年からの仕事は未定なので、まだハッキリ書けないが、決まったら、又、投稿しましょうか。
 来春の雪融けを見ないまま、誰にもお別れを言わないまま、苫小牧へのフェリーに乗ります。
 有り難う、 新潟。
 そこそこ、食と酒と、何かと楽しませて貰ったヨ。
―いづれ又、来る機会が有ったら、よろしく。
―雪が降り出す前に(?)雪一杯の北海道へ還ります。

『DVDショップ』
 懐かし東映映画の昔の「やくざ映画」もDVD化されて、次々と出て来ているのが判った。
 私が18歳の頃、印刷会社で、その当時の映画ポスターを担当していたので、更に懐かしい。
 以前は5枚で千円のDVDショップに通っていたが、最近は150円で2週間、借りられる所に通っている。―昔、見てないのも色々と有って、通いつづめている。10本から15本位は借りて来る。TVのバラエティは、「ウルさくて」、年齢的に合わないので、遂々、DVDを借りて来る。

『柏崎、居酒屋事情』
 仕事の班長と飲み歩く事が、増えて来た。「焼き鳥屋」だの「居酒屋」、フィリピン娘が居るカラオケ、スナック等。
 それぞれにおいしい処で有り、スナックでは女性(ホステス嬢)も居るので、楽しく、勧遊。―誘惑に負けない様、月に一回程に抑えている。

 ―さて、今年も押し迫って来ました。
 皆様に取って、良い年で有りましたか?!

 ―来年、「浮来亭」も、私も、皆、より良い年になります様に、祈願致します。


ある回想 (二)その8

         アイ・アイ


 いまひとつのアフリカはザンビアです。この時期(70年代半ば)中国は新興国親善外交を積極的に展開し始めますがこの地域でも、タンーザン鉄道(タンザニアーザンビア間)を敷設します。一方、日本も円借款を供与し空港整備や農業基盤整備を行っており、その一環として肥料(硫安)の導入がなされたのです。硫安メーカーから団長さん、それに商社から2名で行きました、タンザニア経由でザンビア入りしその日の夕刻、日本大使出席も出席して、農業省幹部を迎えでの親善パーティーも無事終わり、やれやれといった時刻から猛烈な腹痛に襲われ(団長を除く)、明け方までまんじりとも出来ません。駐在のS氏も責任を感じ抗生物質の手配(夜分で医者を呼べず)等で遅くまで大変でした。原因は昼食時出されたマヨネーズだろうということになったのですが、翌日はふらふらな状態で商談に臨みました。後日談ですが、団長は日本から醤油を持参しておられ”これは俺の用心勝ちだ”と自慢されました。ただ不思議だったのはS氏で、我々と同じ物を食しながら何ともないのです。もっともこのS氏は”ミスターアフリカ”と呼ばれ、アフリカ以外の駐在は拒否すると宣言した剛の者で、現地人並の胃袋の持ち主だったのでしょう、柔道5段でザンビア警察官の指導を行うなど、現地に溶け込んでいました。商談後、有名な”ンゴロゴロ”自然動物園を見学、広大なクレーター(カルデラ)の草原を檻付きのジープの中から観察するのですが、こっちは体力消耗でへたりこんでいました。さて、一説によるとエイズ(AIDS)がアジアに伝播したのは、このタンーザン鉄道建設に従事した中国の労働者からだ、という説もあります。何はさて置き、その後の中国は経済発展を背景に、エネルギー資源、レアアースの確保を目指しアフリカ諸国への進出は目覚しいものがあります。我が国も、安定政権と指導力をもったリーダー、長期的視野をもった施策でこれに対抗せねばなりません。
 ところで、TVニュースでしばしば報じられるアフガニスタン紛争ですが、ここには78,79年と訪れました。TVに映し出される光景は禿山と土くれと化した市街地等悲惨ですが、本来のアフガンは高原の軽井沢を想起させる美しい土地です。長野の人々が南アルプスの雪解け時期に現れる、いろいろな雪形を見てその年の作柄を占うのと同様に、カブール(現地ではカーブルと云うのですが)でも雪形を見て、雪解け水の量や作柄を推測するのです。79年の出張時も”よい雪形だ。就いては相当量の肥料需要が見込める”と報告書を郵送、イラン,バングラデシュと廻って帰着したその年の12月、ソ連のアフガン侵攻が始まったのです。ソ連も、ベトナムのアメリカ同様、数年間に1万5千の戦死者を出し、88年に撤退します。この戦乱と今日のアメリカ(多国籍軍とはいうものの)の侵攻作戦で、緑なす麗しい国土は無残な姿と成り果てました、大国、強国のエゴというべきか同じことを繰り返しています。このソ連侵攻に際しては、カブールの代理店の社長さんの”娘だけでも”との依頼により娘さんのロスアンゼルスへの脱出の手助けをしました。苦労させられるのは民間人ですね。
 閑話休題ーこのアフガンへは、パキスタンから入り、イランへ出てそこからバングラへ飛び、東京帰着というコースでした。カラチ(パキスタン)からの機上からは、半砂漠のなかに点々と干上がった塩湖が見えていかにもシルクロードといった感、かつてモンゴルが駆け抜けた証拠のように我々とそっくりな顔をみます。ホテルのボーイさんも日本人と知るや”ジュードー、ジュードー”と声を掛けます。イランは商談対象では有りませんが、支店がありますので一休みの場所です。イラン革命前のパーレビー王朝時代ですが、テヘランの国立銀行の地階に王室展示館(?)があって、展示ケース内の豪華なドレスやガウンの裾のところに、どうしてなのか、お皿が置いてありそれに宝石がてんこ盛りになっていたことを記憶しています。テヘラン土産はカスピ海のキャビアの缶詰が狙い目でした。キャビアといいますと中国の黒竜江でも採れますが、カスピ海とは化工方法が異なるのか、方や缶詰でこちらは瓶詰でした、しかも安く北京での朝食の定番の一つに、饅頭(マントウ)にキャビアとヨーグルトというのがありました。
 さてバングラですが、この国は大戦ご英領インドがらパキスタンとして分離独立(東、西パキスタン)しましたが、更に立地条件や民族問題が絡み、バングラデシュ(ベンガル人の国)として分離したのです。世界の最貧国と呼ばれるひとつです。このような国に対して、故ケネディー大統領が提唱した無償援助(ケネディーラウンド)があり、日本もこれに同調し肥料の無償供与を行っていました。70年後半のダッカはインフラ整備が遅れており、ホテルらしきホテルが無くここも支店長宅が出張者の宿泊所でした。
 バングラの国旗は緑の地に日の丸、なんとなく親近感を覚えますが、ベンガル湾に面し、ガンジスのデルタ地帯、毎年襲ってくるサイクロンと洪水に悩まされ国造りは多難ですが、国民の奮起を期待します。
 ここまで、各国の思い出を綴ってみました、まだ中南米やその他、触れていないところがありますが、次回は駐在員時代の、インドネシアとシンガポールに就いて触れてみたいと存じます。


 東京花便り その二十

                   斉田 万吉

 今年も慌しい師走となりました。円高、株安に就職難・・・不景気な話ばかりで、吹く風が余計に冷たく感じられます。
 しかし東京は各所で槌音高く大きなビルの工事が進められ、まるで街は生き物のように刻々と変貌を遂げています。墨田区押上では再来年に完成する東京スカイツリーの建設が着々と進んでいて、すでにその高さは500mを超えました。
 私が愛する東京はそれとは全く逆で、今でも昭和や大正・・・できれば江戸の風情が楽しめる・・・レトロな景色や建物が見られるところを訪ねて回っています。
現在81歳ながらも元気に芸能活動を続けている小沢昭一さんは大田区蒲田の生れで、「ふるさとは東京だ」と自負しています。
 2004年に発売された「小沢昭一しみじみ〜夢淡きふるさと〜」というCDは、彼独特の上手い語りと、自ら歌う古き良き東京の歌で構成されていて実に秀逸です。
 その中に彼の母親がよく歌っていたという「♪山王のお猿さんは赤いおべべが大お好き・・・」と、永田町に程近い日枝神社にまつわる童歌が紹介されています。
 小春日の過日、そのお猿さんに逢いたくなって日枝神社に足を運びました。
 外堀通りの鳥居からは130余の石段を登らなければならないのですが、上りはエスカレーターが設置されていて、何だか神社らしくありません。
 近代的で無機質な高層ビルに囲まれていますが、さほど広くない境内に入ると、周囲の喧騒とはかけ離れた厳かな空気が漂っています。
 無料で拝観できる宝物殿には、国宝級の刀剣や錦絵など徳川将軍家ゆかりのものが展示されていて、これらを見られただけでも得をした気分になりました。
 本殿の前には、少し赤茶けたおべべを着た狛犬ならぬ神猿がちゃんと一対並んでいました。脇から末社のほうに行くと更に静かな空間があり、木の葉を落として冬枯れた木立の中でヒヨドリの鳴声が喧(かまびす)しく響いています。
 朱の鳥居と真っ赤な幟がたくさん並んでいる場所で、足許には一際輝いて黄色いツワブキの花が咲いていました。
 花々が少なくなるこの時季、ほんの少しでも彩りがあるのは嬉しいものです。

  小春日や男一人の女坂 竹帚 



                    

 引越の準備で忙しい。
 溜まった書類等を整理していたら、平成4年に商工会議所の青年部の全国大会で山形に行った時の「旅行記」が出て来た。
 懐かしく想い、作業を一時中断して読んでみた。
 11月5日に夜行で指宿を立ち、山形・宮城・岩手・秋田・青森と回り、11月10日の朝に指宿に着いた。5県を歩いたが泊まったのは3泊であった。9日の朝に青森を出て、その日は丸一日電車の中だった。
 分と写真が残っているので割りと思い出しやすかった。
 指宿に着く20分前に書いた文を紹介します。

…宮沢賢治の詩集P.129より「わたくしはどこまでも孤独を愛し 熱く湿った感情を嫌いますので」…
…あと20分弱となる。いよいよ今回の旅の終わりに来た。山形・天童・山寺・仙台・花巻・盛岡・田沢湖・角館・秋田・青森と回って来たわけだ。
 いろいろな処に逢い、いろいろな人に逢い、いろいろな味と出逢ったわけである。皆それぞれ味わいのある出遭いであった。
 人の親切―皆、淋しいから親切になるみたい。孤独であることを自覚できるから、人を求めるし、人に優しくできるのではないだろうか。
 さらりとした人間のからみを築けるのなら、孤独を愛さなくてもいいんじゃないですか?賢治さん。
 たとえ親子・夫婦・兄弟であっても、さらりとしたからみを持ちたいものだ。…
…旅をするなら一人がいい。それが無理なら四人がいい。…

 寝る時に思った。
 旅はするべきだ。と。





●菜の花マラソンがあります。私は最終ランナーを迎えることが、今回は出来そうもありません。もし、行ける方がいましたら行って頂けないでしょうか。









縄文の森をつくろう会より
◆ いぶすき「御領ヶ池」で、1月30日(日)午前10:00〜12:00に、鹿児島県環境学習アドバイザー・盛山治美さんの説明で行います。お友達や、家族を誘って参加して下さい。

「いぶすき御領ヶ池」で見られる野鳥達
◎昔この辺一体は、島津の殿様が、野鳥の狩場としており「御領ヶ丘」と呼ばれていたそうです。そこで、「いぶすき御領ヶ池」と名前を付けました。したがって歴史的にも大切な場所です。                                                                           
 *現在ここの地名は、「五郎ヶ岡」となっています。
◎住宅地近くに、カモ類やサギ類など20種類近くの野鳥が、安定的に観察できる場所は、県内でも希少である。この大切な水辺の環境を守りたい。
◎この池では、水鳥の「カイツブリ」が、繁殖する事から1年を通して、生態の調査及び研究が出来る事は、学術的にも価値の高い場所です。
◎野鳥や水生昆虫等の観察が出来る貴重な場所であり、また次世代の子供達に 水辺・池・湿地の大切さを学習する場に活用できる。
◎自然体験学習の場として、また指宿の観光の一つにもなり得る。
◎「いぶすき御領ヶ池」一体は、洪水時の調整池としての役割を担っている大切な場所である。
◎夕日が沈む時、水面から飛び立つ、野鳥の姿は絶景です。             

 今年も終わりそうです。一年は早いですね。浮来亭も16年続きました。原稿待ってます。


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