の幸ちゃん

『秋のぜいたく?』
@タバコが値上がりしたので、エコーN240円に落ち着いた。
 朝、ヒゲソリ時ホットコーヒーを飲みながら、五本位、吸うと昼間はのどが痛くて、一日10本以内で収まる。一日単価が120円になるが、休みの日とか、車の運転中はマイルドセブンIを吸っている。チョッピリ、休みの日のぜいたく?
A旨くて高い日本酒は2日酔いにならない。平日はウィスキーのお湯割りを飲んでいるが、休みの日は日本酒を飲んでいる。新潟だもの。米・水・酒が旨い!!
「八海山」や超辛口の日本酒が体にしみる。これ又、休みの日のぜいたくだ。
『車検話』
 来年2月も又、車検と書いた。処が車内のシールは一年点検の日付でした。軽自動車の一年車検は廃止されて、2年おきとか。車検証でも確認した。10万円位の予算なら、車検するけど、次回20万円以上、かかるなら、別の中古車を購入予定。どっちにしろ、金を貯めておくべき!!
『又してもビジネス泊』
 突然、仕事が連休になってしまった。金沢の友人に会いに行こうか。名古屋在住の姉の長男に会いに行こうか迷っていた。そのままドライブで疲れて、ビジネスホテルへ。
『雪が降る前に』
 自車のタイヤローテーションも済ませた。冬用のタイヤを履きっ放し。ノーマルタイヤを置く場所も無いので、冬タイヤで走行中。雪が滑る様にと車体にワックスもかけた。雪が車の屋根から落ちて行くから。
 ―だけど、ドカ雪が降ったら、どうなる事やら。又、雪かきの季節がやって来そうです。
『長野県の銘酒』
 道の駅で(天領誉)と云う日本酒を見つけた。一本しか残っていなかった。左程、旨くて、売れ過ぎていると思ったら、案の定、旨かった。今度、酒工場に行って、直購入しようかと考えている。
『東京・巣鴨物語』
 20代に居住していた東京を想い出して書く新シリーズです。
 巣鴨駅の近くにスーパー「西友」が有り、今では懐かしい紙袋で荷を積め、15分位のアパートへ帰ったモノだった。角の音楽ショップで沢田研二の「立ち止まるナ・・・」がかかっていたっけ。
 とげぬき地蔵通りの中を抜けて10分位。銭湯にも10分位、かかる処だったけど、若かったから歩けたのかも。15分位、歩いてお好み焼屋へも通った。30年以上、経っているが懐かしくて、行ってみたい気もするが、かなり現状は変化しているであろう。―アパートから駅近くのハイツへ引越した。その頃、彼女がみつかった。アパートでは隣の声も聞こえるが、ハイツを借りた我々にとって、隣の音は聞こえなかった。
 当時、東銀座の会社に通勤していたが、駅からの帰り、居酒屋、焼鳥屋へ立ち寄る事も有った。今では全ての店が閉まっているかも。
 私も高齢だが、あの人達も私より高齢だったから。
 巣鴨から電車に乗ると大塚→池袋へ行けたので、行動半径はケッコー広かった。
―続編は次の機会に。


ある回想 (二)その7      アイ・アイ

 70年代で大きな社会問題となったのは2次にわたるオイルショックでした、第一次は73年の中東戦争により、この地域からの原油輸入がストップしたことです。なにしろ中東原油に頼りきっていましたから、狂乱物価、異常インフレを惹起しトイレットペーパーの買占め騒ぎ等を記憶されておられる方も多いのではないでしょうか。化学品(肥料)メーカーも例外ではなく、既契約分の生産で原価高騰をもろに受け大きな痛手を受けたのです。これを教訓に次年度からの契約にさいして、不可抗力な事態における価格見直し条項を入れるようになりましたが、5年後のイラン革命(王政の崩壊)による第2次オイルショックは、最小限のダメッジで切り抜けることが出来ました。
他方、70年代半ばの中国は、大騒ぎの文革も毛澤東の死去を契機に終息に向かい、国力(経済)の復興をめざします、その為の需要も活発となります。そのような事情を背景に大手商社も直接取引(友好商社、ダミー経由でなく)を希望するようになります。三菱の化学品部門も肥料に留まらず全般の直取引の可能性を模索、業務部経由等で打診していましたがなかなか色よい回答を得られません、そのような事態に”君、様子を見に行ってみないか”と上司(後に副社長)に言われました。肥料関係は化工総公司と接点があったのでこのような発想となったと思われますが、言われた私に具体案がある訳でなく”ままよ!”とパキスタン航空に飛び乗ったのです。当時のパキスタンエアは、東京ー北京ーカラチという路線をもっていたのです。(余談ですが、この空路で北京ーカラチを飛ぶと目の下にヒマラヤが箱庭のように見えたものです)。当てのないままと申しましたが、前回述べました海南島出身の担当官には事前に面会を申し込んでありました。北京に着き、連絡をとると”イ和園”で話をしようとのこと、今では観光客で賑わっていますが、その当時は政府機関の招待客などの許可を得た者しか入園出来ませんでした。(イ和園のイの漢字が出ませんので勘弁)。恐らくこちらの相談事の察しをつけ、人目に付かない場所を選んだのでしょう、結論は”担当常務から化学品グループのミッションを出したいが・・・”との内容で手紙を出しなさい、と言う回答でした。驚いたことに、三菱各社の株の持ち合いのこと、会社がどの役員に何株持たせている等々具体的に分析がなされていたことです。
翌年、化学品部門の訪中団が実現し私もこれに同行しました。
この世話になった担当官は、後に私が駐在員時代に伝え聞いたところでは、駐日商務官事務所の首席を勤めていたのに、何があったのかカナダへ亡命したとのことでした。
ところで、その5で述べた輸出先の諸国は自国外貨、叉は日本からの借款や援助で、毎年一定量をコンスタントに購入する先ですが、それ以外のスポット取引の相手国で印象に残っている先が2〜3ヶ国あります。ひとつはアフリカのナイジェリアです。この国は70年代に石油開発が進み74年にはそのピークを迎えました。その獲得外貨で国内のインフラ整備や農業開発を計画しますが、そのスピードが急激(無茶苦茶と言うべき)すぎて、国外がら買い付けた開発資材(特に欧州からのセメント)の殺到で貿易港ラゴス沖合いには、100隻とも200隻ともいわれる貨物船が沖待ちしている航空写真がTVの画面に出たものです。ナイジェリア国内情勢は、政治的、社会的に上位を占める北部と石油産出地域の南部(ビアフラ)の間で抗争が起こり(ビアフラ紛争)、多数の難民を出したのです(米国内にはナイジェリアと呼ばれる居住区が形成されたそうです)。このナイジェリア政府が硫安2万トンの入札を行い、米国三菱が米国産品で落札したのですがその揚げ荷役立会いを、東京に要請してきたのです。ラゴスの治安は悪くホテルは物騒だというので支店長宅に滞在しましたが、社宅のガードマンの朝一番の仕事は社宅周辺に行き倒れ人はいないか見廻ることでした(行き倒れ人は、定期的に巡回するトラックに放り上げるとのことでした)。なにしろ無数の船が待機しているのですからまともに待ったのでは何時になるか解りません。現地の代理店と相談、然るべき手を打つことにしました、その霊験はあらたかで2週間程度の沖待ちで揚げ荷完了となりました。船長(台湾出身で、神戸知ってるよ、横浜いいとこね、と日本語も上手でした)は、二ヶ月の滞船は覚悟し食料をしこたま積み込んで来ていましたが、さすがに中国系、中国人乗り組みの船を見つけ出し余分な食料を売りさばき、一儲けしたからとラゴスのイタリアレストランを奢ってくれました。
こんな物騒なラゴスに、飯野海運での同期生が川崎汽船(合併時移動)の駐在員として来ていました、奇遇でしたね。この出張には付録があり、ナイジェリアに飛ぶのはコロンボ経由、セーシェル(諸島)で乗り換えの予定でしたが、セーシェルに着陸してみると、次に乗り換えるタンザニアエアー機が、機材整備不良とかで来ていません。思いかけずセーシェルのバカンスを3日間エンジョイ出来ました。叉、同じホテルに東京から来たという宝石商が宿泊していましたが、こんな島でアフリカからの宝石の売買がなされていることを知りました。
   


   東京花便り その十九
   
                     斉田 万吉


 バラは世界各地で栽培され極めて多くの品種があり、今では季節を問わず花屋の店先には白、赤、黄色にピンクやオレンジと色とりどりのバラの花が並びます。
ところがバラには青い色素を作る能力がなく、いくら品種改良を重ねても長い間青いバラを栽培することができませんでした。Blue Roseという英語に不可能という意味があるのはそういうわけです。
ところが2004年に、サントリーがバイオ技術を駆使して、青い色素が存在するバラの花を誕生させました。14年という研究の歳月を費やしたそうです。
2005年に福岡市で開催された博覧会で展示されましたので我先にと見に行きました。厳重警戒のガラス越しに見たそのバラは、青というよりも藤色に近い印象を受けました。
その後2009年に「サントリー ブルーローズ アプローズ」と名付けられ、生産販売されています。ちなみに花言葉は「夢 かなう」だそうです。
過日、所用で銀座を歩いていましたら、花屋の店頭に七色のバラが並んでいるのを見て驚きました。造花ではないかと思いましたが、きちんと「この花は生花なのです・・・とてもデリケートなので花びらには触らないでね」と書いてあります。
一種の造花で、レインボーローズという白いバラに染料で着色して虹色に染め分けたものがあるのですが、私が見たバラはオランダで生産されているローザ・ヴェンデラというもので、白いバラを利用して特殊な液を吸い上げて着色した加工花だそうです。
三分咲きの頃から加工を始めるそうですが、バラの花びらはそれぞれが葉脈とつながっているので、どの花びらがどの葉脈とつながっているかを調べて、異なった色素の液を吸い上げさせるのだそうです。
まだ販売している花屋が少なくて希少価値がありますので、プロポーズのときには効果的かもしれません。花言葉は「無限の可能性・奇跡」だそうです。
さすがに東京は経済や文化の中心都市。しかも銀座となれば、さらに最先端をいく街ですから、驚くような代物にお目にかかれます。
多くの人が立ち止まって、不思議そうな顔をして七色のバラを見つめていました。

  
泣きやみし赤子また泣く酉の市 竹帚 


  連太郎 

 店で
 『今年はみこし担がなかったんですね』
 『はんや踊り踊らなかったんですね』
と、何人もの人から声を掛けられた。知っている人は勿論だが、知らない人からもあったので驚いた。
 息子の店を手伝い始めたので、夜のはんやは無理だと覚悟していたが、昼のみこしは大丈夫と思っていた。でも仕込みが入り、昼も仕事になった。
 寝るときに考えた。
 私の62年の人生は祭りだけだったのではないかと。少し情けなく思った。
 でも、もう一つあった。巨人だ。
 二つあったから良しとするかと納得してぐっすり寝た。



◆ 浮来亭の忘年会のお知らせ。
日時 12月21日(火)午後7時
場所「麺屋 二郎」 
会費3.000円(女性・飲まない方2,500円)
出席を希望される方は
安間(090-7924-5883)にご連絡を。

◆来年3月6日に魚見岳でMTB(マウンテンバイク)大会を計画しています。
詳細が決まりましたらお知らせしますので、ご協力をよろしくお願いします。



   
縄文の森をつくろう会より

◆平成22年11月25日(木)指宿市役所3Fにおいて、豊留指宿市長と語る会が開催されました。今村理事長の挨拶があり、副市長の進行で議事が始まりました。当会の山下副理事長が当会の歩みと活動報告を行いました。来年魚見岳で開催される「森林ボランティアの日」に向けて市へ協力依頼をお願いしました。その後4班に分かれてワークショップを行い、わが会のこれからの発展のため大まかに次のことを要請しました。

1 若い会員の募集・活動を広報で知らせて欲しい。
2 わが会に市の施設を貸していただけないか。
3 資金面のバックアップができないか。
4 市の指定管理者にさせていただけないか。
5 来年の森林ボランティアの日の協力要請。
6 国、県、市のわが会の活動に対して各種補助金を教えて欲しい。
7 木の基金づくりができないか。
などを要請しました。現市長は元校長先生をされていて、ドングリの森作りをやられており、わが会に対しても暖かい言葉をいただきました。豊かな森や街路樹を持つ町は寿命が延びているというデータもあるそうです。わが会も市と協力しながら豊かな町づくりを目指していこうと考えています。
当会ご意見・ご要望をお聞かせください。
◆10月31日(日)開聞の体育館で行われた「ふれあいフェスタ」の会場で「縄文の森をつくろう会」は、会員5人の指導で、「どんぐりごま回し大会」を行いました。

 今年も後一ヶ月となりました。年賀状はお早めに。毎度ですが、原稿をよろしくお願いします。


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