の幸ちゃん


『七月の誕生日祝い』
 職場の上司と私の誕生日祝いをする事になった。
 一軒目は地魚を寿司で握って貰える店へ。車で行ったので酒は飲めなかったが、氷水のグラスが段々と日本酒に見えて来て…。
 二軒目はお好み焼屋へ。梅雨も明けて急に暑くなった日。クーラーも無く扇風機だけの店。鉄板が熱く熱風が店内に吹き回っている中で食事。辛い!!昨年と違う暑い夏。次は居酒屋で牛レバー刺を食べようと足が向いた。夕方になり少しは涼しくなったモノの…。
 更に締めはフィリピン娘の居るカラオケスナックで大フィーバー!!何故か、私が全て出資した誕生祝いでした。
『塩の湯温泉』
 新潟競馬場先の聖籠町にその温泉は有る。温泉水は塩分を含んでおり、茶褐色だ。体に染み込む感じ。国道113号線沿い、松林の中に有る。友人が競馬場で馬券を買ってTVで場外レースを観ている合間、私は温泉へ。
「川ガニのフライ」が200円と安いので頼んだら、小鉢に大盛りで出て来た。旨いので酒を2本位。駐車場で昼寝して酔い覚まし。友人を迎えに競馬場へ。川ガニフライの油が強かったのか、帰りに腹がゴロゴロして来て、途中のコンビニのトイレへ駆け込む始末。大変な温泉帰りでした。
『長岡の居酒屋』
 事務所の人に教えて貰った鹿児島焼酎が置いて有る居酒屋。ビジネスホテル泊で、飲みに行ったが店主が体調を悪くして、閉店しているとの話を同じ人から、直前に聞いた。行ってみたら、「おさかな亭」に変わっており、刺身類が大振りの器の中にドンと飾られている。器のセンスも良い。
 又、行きたくなった。給料日後の月一回の贅沢だ。―その翌日、4人で長岡のパチンコへ行く予定になっていた。台風通過で大雨状態。途中の道は通行止めになる位。迂回しようとしたら、道路は川状態。鉄砲水を警戒して、引き返し、安全そうな国道へ。結局、4人共、負けて惨憺たる結果に。パチンコで勝てる方法は無いものでしょうか?
「10月からタバコが」値上りする。今、私はキャスター5を290円で買っている。マイルドセブン10にして、次はセブンスター14と、ニコチン度を高めて、本数を減らそうとした。極めつけは、わかば19だ。喉が痛くて吸えない。わかばなら値上がりしても250円だ。何とか止めようと三日は我慢した。四日目に頭の中が、タバコの事しか考えられなくなり、遂に周囲の人から貰うハメに。本当に三日坊主でした。朝、起きて四〜五本、吸いながらホットコーヒーを飲みつつ、ヒゲを剃る。
 この時と食後のタバコが旨い。昼間は喉が痛くて、一日、10本以下に減らした。
 値上がりしても、わかばなら、今以上に金額の負担は少ない?―あ〜あ、どうなります事やら・・・。
『職場でほめられた』
 現場では私が老齢で力が無いと思われている様だ。
 ある日、鉄製の重量物をトラック荷台上から、建屋内に入れる時、持てそうも無い物を一気に入れられた。
 周囲の作業員が(良くあんな重い物を持てたナ!!)と言われたり、「じい(=私の事)は今日、男やったで」と大阪の人も褒めてくれた。
 凄く嬉しかった。見た目−重そうだったが、火事場の馬鹿力か?何とか持てたのであった。
『毎年車検に』
 平成五年物のワゴンRが私の愛車。今年2月の代金を支払った事は書いた。車内に貼ってあるシールで、来年2月も又、車検だと知った。
 残り4ヵ月で又、沢山の金を貯めないと・・・。
 又、20数万円の車検代がかかる位なら、10年位乗れる車に買い換えましょうか。
 10万円位の車検代なら、もう一年、乗りましょうか。
 良く走る車で有るし、鹿児島から、ずっと私の命を守ってくれた車。愛着も有るし、捨てがたい。毎年、車検を受けて、永く乗りたいけどネ・・・。どうなります事やら。
『久々のくじ運』
 柏崎市に一番新しい大型スーパーが出来た。買物三回目の日に五千円以上の買物をしたら、くじ引きが有り、「千円の商品券」が当たった。翌日、すぐ日用品の買物に走った。今の私にとって、千円でも嬉しい収入。生活の糧となったのだ。
『タバコ節約作戦』
 毎年車検と判って、貯蓄しようとタバコをやめた。
 禁煙四日目の昼、頭の中がタバコ・煙草・TABACCO・モク…状態になって来た。禁断症状が表れたのだ。知友人に話したら、セブンスター14を2本位、貰った。頭がボーッとした後、スッキリとなって来た。止められないのか?タバコは。朝、ホットコーヒーを飲みながらヒゲ剃りしていると、五本位、吸ってしまう。昼間、仕事の休憩中は吸いたいとも思わない。帰ってから吸う分も足すと、一日10本位だ。
 420円に値上がりしても一日単価は210円だ。値上がり前に290円のキャスターより、安く着く。たぶん、本数は減らせても、止められないかも知れない私です。
『節約作戦・その2』
 焼酎からウィスキーに変えた。アルコール度数が高いので、焼酎の1.5倍から2倍、日持ちする事が判った。
 2.7Lが10日位だ。次回、4Lのウィスキーを購入してみよう。何日、持つかチェックしてみたい。四千円のウィスキーでも2倍持つなら、焼酎の半額、二千円で済む事になる。計算機で数値を探ったら、一カ月三千円位浮く計算になる。必死です。
 来年2月、車検か車買い換えか、どちらにしても、頭金を貯める事が必須なのだ。家計簿も書いている。これ以上の無駄を無くそうと考えている私だ。
『想定外の出資』
 メガネのレンズを拭こうとしたら、フレームの方がポキッと折れてしまった。夏の汗で弱くなっていたのかも知れぬ。取り合えず、セロテープで着け貼りしていたが、事務所の人々が冷やかす事。「メガネのパリミキ」へ行ったら(半額セール)中。レンズそのままで、フレームだけ交換。
 運転免許証も条件付きになっているので、取り急ぎ購入。超太いフレームにした。
―今年も残り少ない。暑過ぎた夏の後は急に寒く、雨の日が多い。読者の皆様も体調管理は御自分で。


ある回想(二)その6
            アイ・アイ


 ベトナム戦争も大変でした、75年に北ベトナムの勝利で終わるのですが、それまでの日本政府は南の政府に援助を行いその一環として肥料も入っておりました。サイゴン(今はホーチミン市)陥落直前の現地交渉では、宿舎のホテルに夜ともなると砲撃の音がインインと聞こえ”これはやばい”という状態になりました。そこで場所を東京に移して交渉再開となりまししたが、間もなくサイゴンは陥落しました。そこでビックリ、南ベトナム農業省の幹部は軍人(ベトナムに限らず、軍事政権の国では各省の上層部は軍人が占めることが多いのです)でしたが、この代表団も民間人は配合肥料工場をもつ社長が一人のみで他は皆軍人さんで、この軍人さん達は唯一の民間人を放り出して、立川の米軍基地から米軍用機でアメリカへとんずらです。
可哀想に民間人の彼は当初帝国ホテル、次に第一ホテル遂にアジア会館と転々としましたが、にっちもさっちも行かなくなり、結局は娘さんが滞在しているというパリへの移動を希望しましたので、その世話をしました。後日談ですが、この一年後インドとの交渉が(インド側事情で)こともあろうにパリとロンドンで行われたのです。その折彼とパリで再会出来たのですが、”ミスター、今夜の夕食は私に持たせてくれ”との申し出を有り難く受けたのですが、案内されたのはある街角の安カフェテリヤでした。セルフサービスのトレイの皿が涙でかすみ、彼の精一杯の好意は喉を通りませんでした。この一家とはその後も縁が続きます、彼の息子さんがサイゴン陥落後に脱出し、ボートピープルとして漂流中に貨物船に拾い上げられ、結果として米国の難民収容所に居ることが解り(収容所からパリのお姉さんへ手紙を出した)、この息子さんもパリへ移住させました。もっとビックリしたことは、統一ベトナム後サイゴンに残った奥さんが、ご主人の配合工場を立派に引き継ぎ動かしているとのニュースを聞いた時でした。
新ベトナムとの交渉は、サイゴンからハノイへ場所を移すことになるのですがこれも悲喜こもごもの連続でした。
サイゴン市はホーチミン市となり、統一ベトナムの首都はハノイとなりました。従って76年からの交渉はハノイで行われたのですが、その時点では戦争の与えた傷跡は深く、市内を流れるホン(紅)河に架かる殆どの橋は爆撃で破壊され唯一残った鉄橋(鉄道と道路の二重橋)も鉄道部分は使用不能で道路橋部分を人も車もそろそろと渡るのでした。トラックのヘッドランプが全て片目なのは米軍機に上空から見られた時、トラックではなくオートバイに見えるようにとの工夫と聞きました。宿舎のホテルは郊外のタンロイ湖畔に、友好国のキューバが建てた南欧風の”タンロイホテル”でしたが、極端な食料不足で主食はうじの湧いた米飯に、タンロイ湖の食用蛙を朝はスープ、昼は煮物、夜はバーベキューと三度三度蛙攻めでした。上司と二人で出張したのですが、食事はさて置き、夜に”一杯”とホテル内のバーを訪ねても(焚タクシーなど無いのでホテルに缶詰め)、絶対に泡の立たない”ビアハノイ”とルーマニア産のウオッカしか無く、この二つをチャンポンで飲むと部屋に帰るときは四つんばい間違いなしという代物でした。
ホテルといえば、このタンロイにチェックインして驚いた事に、なんとそこにいた受付嬢はサイゴンのホテルにいた女性と同一人だったことです、”指導に来たのよ”と言っていましたが、こんなことまで陥落前に打ち合わせが出来ていたのか?いかに南の傀儡政権が空疎なもので、市民の支持を得ていなかったかと感じたものでした。
交渉は、ゆうに一ヶ月は掛かるのが社会主義国の常ですので、上述のような食事では身が持ちませんので、時々許可を貰って車を出してもらい市場に買出しにいくのです、川魚や野菜が手に入るのですが、市場の周辺の民家が隠れて商売をしているのです、細めに開けた雨戸の薄暗がりのなかで麺類を出してもらうのですが、この麺のうまかったこと。昨今のTV番組を視ていると”ベトナムグルメ街道”とか銘打ってタレントがキャアキャア騒いでいますが、まさに夢の如しですね。
肝心の交渉ですが、これは我々の完敗でした。なぜならその当時のベトナム官庁の上層部までが殆ど女性で、青壮年の男性は戦争に総動員で多くの男性が帰ってきませんでした、その女性(むしろ家庭の主婦、おばさんというべき)が”旦那は戦死、息子は行方不明、こんな環境で農村再生、食料増産はいかに大変か想像してください”とかく口説くように訴えられるとこちらも力が入らず、東京に対し”もうこのへんで相手の言い分を聞いてくれ”と本社を説得する有様でした。交渉には、ハノイ大学から通訳として日本語と英語を学んでいるがくせいが同席するのですが、真剣そのものの学生さんで交渉の無い時もホテルの我々と英語日本語の会話をしにきていました、祖先は中国からでしょうかグエット(お月さん)さんという女性とベー(米)さんという男性学生でした。
ベトナムは数万トン程度の契約ですので幹事商社が直接交渉を行いその期間も一月程度ですが、中国となると百日交渉は普通のことで前半は北京で後半は東京と年中行事の一つと言った感がありました。百日交渉ともなると団の方々(団長初め二〜3名のメーカー代表)は北京駐在員にお願いし商社員は一旦帰京し状況をみて北京の団に復帰するといった状態でした。社会主義とは一面大きな官僚主義(ビューロクラシー)ですから、能率の悪い面も多々ありますね。
中国とは、三菱商事としては、業界商談(日本産肥料)以外にアラスカに工場を有する三菱瓦斯化学の尿素商談や代理権を有するチリ硝石の個別輸出商談を行っていましたので、中国化工総公司の担当官とは馴染みになりました、中でも海南島出身の担当官がいて(地方出身ということもあったのか)物凄い努力家で日本語の能力も日本語の小説を読みこなす程でした。ある時私に質問があると言うので、何ですか?と聞くと、日本の小説で”影ある女”との表現があったがどういう意味だ、というのです。”こうこういうような状態の女性の表情だ”と説明すると、中国でも同様な事態はあるのでしょう、”納得”とのことでした。
中国の東京での定宿はホテルオークラと決まっていました。当時のTV番組に夜11時から”イレブンPM”というのがあって、若い女性が薄いネグリジェで合間合間にちらちらと映し出される、今では他愛の無いものですが当時は結構人気があったものです。
交渉の合間、休憩時間等にこの番組を話題にすると、当初はそっけない顔をしている中国側もだんだん乗ってきて”あの子が良かった”との反応、どの国どの体制下でも興味の対象は変わりませんね。
この海南島出身の担当官は、後に一つの転換点で世話になることになります。


 東京花便り その十八   
                           斉田 万吉


下町を明確に定義づけることは難しく、東京では江戸と呼ばれていた頃から商人や職人が中心に生活していた江戸城よりも海側にあたります。
下町は地形的に高台となる山の手に対する呼称で、水路や橋が多く、小さな町工場、魚河岸、路地、銭湯、駄菓子屋などが思い浮かびます。
東京以外にも山の手や下町はあるわけで、語感的に山の手というと富裕層が多く住んでいるように思われ、下町には開けっ広げな庶民の暮らしの匂いが漂います。
古い作品ですが、黒沢明監督「天国と地獄」(1963年)という映画の舞台は横浜で、山崎努演じる誘拐犯が高台の高級住宅を天国といい、自分が住む下町の安アパートを地獄にたとえていたのが印象的です。
しかし落語をこよなく愛する私にとって、八つぁんや熊さんにご隠居、またそのカミサン連中など、登場人物の誰もが喧嘩っ早くておっちょこちょいながら、情け深くてお人好しで憎めない人たち・・・宵越しの金を持たないという「江戸っ子」がコミュニティを形成しているのが下町で、粋な江戸文化は下町で花開いたものだと思っています。
今風にいえばウォーター・フロントというのでしょうが、埋立地に高層マンションが次々と建ち並び、下町といいながら山の手よりも高い住まいが次々と出現しています。
江戸川区、江東区、品川区、大田区などは海へ伸びて且つ高くなっているわけですから、面積だけではなく体積として膨らんでいます。
生物とは凄いもので、植物も動物も虫も魚も、その拡大にあわせて自らの勢力範囲も広げようとします。人間がその代表ですが、物言わぬ花とて同様で、人の手で植栽されずとも、新しくできた地面に数多くの草花がはびこっていることに驚きます。
コンクリートの堤防の脇に、目立つものではススキ、キクイモ、セイタカアワダチソウなどが秋の盛りを伝えるように咲いていますし、ヨメナやホトトギスなどが可憐な花を咲かせていたりもします。
 風媒花であっても虫媒花でも、地面さえあれば勢力を拡大していこうとするその逞しさたるや、学ぶべきものがあるのではないかと思います。
ぶらんこに揺られて揺れるいわし雲 竹帚



    
 蓮太郎    


 10月24日に今年が終わった。
 昨夜巨人が負け、今日温泉祭りが終わった。両方とも不完全燃焼だったから悔やまれる。今晩すんなり寝れるかなと心配だった。
 テレビを少し見てから、伊集院静の『滋賀越みち』を読んだ。好きな作家なので一気に読んだ。
 明日からの新しい年は良い年になるような気がした。


 




 チリから良いニュースが届きました。読者の皆さんからの良い知らせ(原稿)を期待しています。






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